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zoom RSS 「広島と長崎への原爆投下は正義に反していた」という認識をアメリカ人と共有できないか? 本多敬

<<   作成日時 : 2011/08/15 14:18   >>

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ある米国人は広島原爆投下を正当化すべく、罪深い日本を罰する必要があったと言った。この言葉をきいて思い出したー反日感情があった豪州で、誕生会の場で友人の両親は私を追い返したその理由は「悪魔だから」。原爆投下の正当化と同じ似非正義だった。しかし、実は両者とも、単なる功利主義の合理的な帰結だったのではないのだろうかと考え始めている。広島原爆投下は正しかったと説得する言葉に、私は黙るしかなかった。「罪がある」とか「罪がない」という次元から語る言葉に対して、理屈によって反論することは不可能だからだ。が、その言葉の正体は、多数の「進歩」の為なら少数の「犠牲」はやむ得ないとした功利主義的理解に過ぎないと、気がついてきたのだ。

ところで、西欧の人々の中には、キリスト教的な文脈において、広島・長崎の原爆投下を反省する者達がいるけれども、前述した、私の豪州での幼少時の体験から、こういうアプローチに正直違和感を持っていた。ヒロシマが宗教の物語に回収されてしまうのではないかと。

だが、アイルランドの人々の出会いによって自分の考え方の狭さを自覚した。それは、500人ぐらいの人々と一緒にイラク反戦デモで米国大使館前に集まったときのこと。アイルランドの歴史体験のなかで、19世紀に起きた大飢餓の歴史(英国統治の下で百万以上の餓死者が出た)と、ヒロシマの歴史を同一化して捉えている人々の存在を知ったのだ!
同一化という(手垢がついた)語は適切でないかもしれないが、アイルランド人が、ヒロシマの事件をアイルランドの歴史として思い出していることに私は大きな衝撃をうけたのだ。最近めっぽう懐疑的な日本人が多いから、自分達に都合がいいように他者の歴史を理解している、と冷笑する者もいるだろう。単なる読み間違えであると。

あえて、私は反論しない。反論しないどころか、その批判を受け止めた上で、創造的なものは全部、他者による読み間違えによってこそ、可能となるのだと言いたいのだ。アイルランド人のヒロシマ理解を解剖して、"これは神話と宗教"、"これはリアルな歴史認識"、というふうに分類する必要を全然感じないのだ。
ここで、みんなの進歩の為に少数の犠牲はやむ得ないという大英帝国の国策の下で、アイルランドの植民地化が推し進められた事実のことは指摘しておきたいが、兎に角、アイルランド人がヒロシマを自分達の歴史として思い出していること、そういう他者が生きているヒロシマには、正義から来る怒りが投射されているのだ

絶望的に困難だろうけれども、ここに、微かな希望をもつ。未来において、アメリカ人とともに、「広島と長崎への原爆投下は正義に反していた」という認識を積極的に共有できる可能性のことだ。はっきり言うと、この認識がなくして、フクシマの問題の根本は解決しないと、私は思う。



補記

「原爆投下は正義に反する」補記;フクシマの問題は歴史的にとらえ​る必要を感じています。なによりもこの歴史は、自分の歴​史と交錯させることによって、非常に明確になっってくる​所があるはずだとやっと気がつき始めました。白豪主義が​終わる頃にオーストラリアで育った私の歴史のこと​です
50年代に、英国は、豪州政府の承諾を取って、南オーストラリアで核​実験を行いました。当時の豪州政府のねらいは​、砂漠からアボロジニーを立ち退かせてしまい、白人社会​に同化させていくことにありました。その結果、立ち退きを拒否​した彼らのうち、2000人以上が被爆したのです。
実​際に立ち退きの努力を十分に行ったか疑問があり​ます。イギリスの<絶滅>型同化政策という​ものと関係した、排除のシステムの展開だったと指摘する​声もあります。アメリカインデアンやアイルランドの歴史にあるように、原住民に言語・教育、宗教を禁止して絶滅させてしまうやり方です
功利主義というのは、社会ダーヴ​ィ二ムに伴なわれて、あるタイプの植民地主義の権力を形づく​るものなのです。これは、核の組織と経済的に結びつ​くことによって、人類の根源を否定してしまうことも構わない、自己完結した畏怖すべき資本の自己体系​の体制となるのではないでしょうか。
ここから、「東京​のエネルギー植民地主義」であったフクシマとの関連に​ついて考えたいのです。ちなみに、公立学校に通った7歳の私は自分を白人と思ってい​ました。アボロジニを砂漠に排した「私達白​人」はなんと罪深いかと毎日思いました。人間のアイデン​ティティーって奇妙ですね!


Is it impossible to have with American ordinary people the recognition; the atom bombing to Hiroshima and Nagasaki is simply against Justice ?
A certain American in Dublin said to me; the atom bombing to Hiroshima and Nagasaki could be really justified as the means to punish sinful people Japanese in war time.
It reminded me of the tramatic word " Get out, you devil!" at my friend's birthday party in Australia in the time when anti-Japan sentiment that had still remained among their parents untill the late 1960's.
2
Later I learned the aborigine people, living their life in the desert, were the object of assimiliation policy in the "White Australia". And now I think these words as the disguise of "Justice" because they came rather from a reasonable conclusion of utilitarianism. I see that Utilitarianism with social Darwinism speaks the atomic bombing to Hiroshima, Nagasaki and South-Australia (more 2000 were exposed to radiation by the nuclear testing of England). Nevertheless I had to keep silent to the words telling the atom bombing were a right thing

3
It is quite impossible to argue with them on their denunciation reciting from a high dimension of Moral; it is sin. or not.
But how it would appear if they judged with good intentions; the end always justify the means, that is; in the name of "progress", the greatest happiness of the greatest number at the expense of victims of the atomic bombing

‎4
However some Christians of West sincerely reflected the inhuman act of the atom bombing to Hiroshima and Nagasaki, I always come to myself to my experience in the childhood in Australia. I'm really afraid "Hiroshima" may be simply reduced to a narrative of Religion.

‎5
By the encounter of Irish ordinary people I was aware of the narrowness of my thinking. The 500 people, having gathered at US Embassy and protested the US' bombarment in Iraq, thought their history of "great famine" in the 19th century (more than 1 million starved under the rule of England) as the equivalence of "Hiroshima" in the 20th century. It was important events in my life to know that the others were remembering the future , "Hiroshima".

6
I don't accept the skeptical criticism; they are reading the differences as they want.
All creative things is always going like this; heterogenous accident, associative montage, and simulacre. A real pacifist never dissects "Hiroshima", as "this one is myth and religion, that one is history".

‎7
Remembering the future. It happened that the ordinary people projected their genuine sense of Justice on Hiroshima with the protest.
Even if it might be desperately difficult, I cannot but hope that , in the future, it is possible to have with American ordinary people the recognition; the atom bombing to Hiroshima and Nagasaki is against Justice.
And the problem of Fukushima on going can't be really settled without "no more Hiroshima, no more Fukushima".











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