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zoom RSS フランス思想は存在しなかった。私達が存在すると思っていたそれは、どこから来たか?どこへ行くのか?  

<<   作成日時 : 2011/12/03 17:00   >>

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フランス思想は存在しなかった。
私達が存在すると思っていたそれは、どこから来たか? どこへ行くのか?  

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう 、とアインシュタインは語る。他者との論争は、誠実さや真摯を伴なわなければ、木を切る行為と同じ、言葉のスラム化だ。人は兄弟や親しい友人とだけ本当の口論ができるものなのに

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう 、と、スピノザ的なアインシュタインは語る。原因の認識の方が、結果の認識よりも十全である。「成果」がなくとも何故自分はデモに参加するのかと思う時こそ、出会える黄金の言葉

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう 、と、デリダが言ったかもしれない。過剰な差異である無限を有限化し囲い込んだとしても、それは、権力者にとって都合がいい幻想でしかない。無限はダンスし続けるーいつも遅れて

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう 、とケインズが語ったとしても不思議じゃない。そのこころは?結果(供給)との一致のもとに原因(需要)を従属させるネオリベ的均衡は、完全雇用の高さに届かない事が起きるから

・サルトルは何を問題提起したか?レヴィストロースによるサルトル批判は何か?フーコは、サルトル、従ってデカルトの再定義をどのように行ったか?デリダとの間で起きた議論は何か?ドゥルーズはいかにフーコを展開させたか?サィードによるフーコ批判の根拠は?なぜ、現在サルトルが復活しているのか?

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう 、とフーコが語ったかもしれない。思考し得ぬものこそ、思考の無限の可能性の出発点。いかに思考し得ぬものを思考するかだ。思考から思考し得ぬものを排除するのは、木を切る行為

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう、とマルクスは語るか?ポストモダニズムとポスト構造主義、多文化主義は木を切るのは、大きな絵を犠牲にして特殊性を知りたいから。しかし今は大きな絵(一般性)を見る時ですぞ!

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう、と座り込む人々は抗議する。囲い込み+排除は木を切る行為。資本主義のオルターネティヴは、NGO、アナーキズム、社会民主主義政党、市民派グループ、多文化主義+フェミニズム

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのかしら。それは直ぐに結果を知る事ができる行為だから?構造主義者は<これかあれか>と分類したがる二元論に定位するのは、木を切る選別の如し。ドゥルーズとデリダは問う。思考は、思考し得ぬものから、声の運動と書く行為から純粋に自立する事はそれ程可能だろうか

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう、とサィ−ドはフーコを弾劾する。思考と思考し得ぬものを、丸い円を描く様に区別しているだけでは木を切る行為。思考し得ぬもの=劣ったもの、とする現実の力関係を非難しなければ

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう、と、レヴィ=ストロースはサルトルを名指差した。実存主義即ちヒューマニズムとは、木を切る行為。思考し得ぬ存在構造を破壊している点で、ブルジョアとマルクス主義と同じ間違い

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう、とサルトルは言うはずだ。フランス革命をブルジョア革命と整理してしまうのは木を切る愚行だ。未来を思い出せ!フランス革命を導入せずして、いかに現在の全体主義と闘うつもりか

・なぜ木を切るのが好きな人が多いのか、いまやっとわかりました。それは、すぐに結果を知る事ができる行為だからでしょう、とゴダールは抗議する。全部を見せようとするポナパリティズムは、ハリウッド的なもの、木を切る最悪の映画なのだと。思考と思考し得ぬものとを関連づける主体性を破壊してしまう




・言語哲学のチャンピオン、ウィットゲンシュタインは、形式言語の哲学から出発した。論理実証主義は何をしたか?日常言語が孕む全体幻想を執拗に警告した。何処にも帰属しない故に、全体を代表できるとするポナパリティズムも、間接民主主義という言語の捏造といえよう。ブルジョアが全体幻想を売るのだ


・豊かになれば貧困がなくなる、と信じていいのでしょうか?現実に目を向けて観察すると、豊かになることと貧困がなくなることとは、別々の事柄と結論せざるを得ないのです。 豊かになればなるほど貧困が増えていく事も起きます。エリートへの非難がそのまま、差別がなくなることを意味しないのと同様です

・他の資本主義の未来を考えるとき、それだけだと、ネオリベに押し戻される社会民主主義者の失敗を繰り返す危険がある。だから、ソビエトとは異なる他のコミュニズムの未来を一緒に思い描くとか。当初絵空事とみなされたケインズのエンジニアリングは、マルクスのラディカリズムのもとで実現した知性主義

・かのヴィクトリア朝様式の半球形の天井を仰ぎ見て、図書館の任意の一点に立つ。想像の軸線を回転させると、大きな絵画であるマルクスのパノラマがぐるぐると旋回しはじめる。と、轟く歴史の声たち!ここはパノプティコンに非ず。主体としての知の普遍者が自立していく場所であるー言語の公共性とともに

・ポストモダニズム、ポスト構造主義、そしてマルチカルチャリズムは、マルクスの大きな絵画を犠牲にして、特殊性のみを見ることを欲した。私的言語(ウィットゲンシュタイン)のうちに、身体の感覚のうちに、蘇る故郷たちの煌き。精神の方は、異郷の神々が越えていく山の彼方に囚われて凍ったままなのに

・ロンドンに半ー亡命状態のアフリカ人達に、本居宣長の姿を重ねてみることもあった。彼らの知的批評性は、神話の内容だけではなく、神話の政治的機能の吟味に向かう。現地の言葉が植民者の英語や仏語に対して優越的地位にあるべきと考えたサルトルに、同意しない。現地の言葉だけでは抵抗できないからだ

「多なるものが多なるまま肯定される世界」という人生観は、ドゥルーズの妥協なき一元論を隠蔽し続ける。安易な多元主義のもとで、アパルトヘイトすら「多なるものが多なるまま肯定される」危険がある。「大いなる肯定」も、ブルジョア家族でしかない天皇の領域を分断し特権化する否定に劣化してしまう

人々は単に、奪われたものを、自分本位に振舞う政府と我儘な企業から取り返したいだけなのに。しかし傍らでポナパルティズムは叫び続ける。自分達の国家なのに外国人の様に歩く日が来ると根拠薄弱な事を煽る。現在の恐怖を解決する為に、もっと大きな嘘と恐怖を次々に捏造し欲望を覚える一種の依存症だ

主体性として世界=一人ひとりを肯定できるか、でなければ全体性の幻想を破壊できない。こうして、一元論的に、唯物論的に肯定するドゥルーズの思考が赴く方向は、アナーキズム的哲学の場。この思考は普遍主義のヘーゲルのもとに停留しはしない。普遍主義がポナパルティズム的統合と縁を切らんかぎりね

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