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<<   作成日時 : 2012/04/06 08:43   >>

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アントナン・アルトー
カール・マルクスは事実の模造と戦い、歴史の観念をその固有のダイナミズムの中で捉えようとしたのだった

アントナン・アルトー ‏
シュルレアリズムが興った当初我々を駆り立てていたのは、あらゆる物質的・精神的抑圧に対する猛然たる反逆への欲求であった。<父親>、<祖国>、<宗教>、<家族>、我々が罵倒せざるものは一つとして無かった...それら全てに我々は言葉による以上に、遥かに感情的に毒づいていたのであった。

サルトル戯曲
眠らないことはなぜ苦しいんだ?なぜ苦しいときまってるんだ? ああ、わかった。それは切れ目のない生活だからだ。−ガルサン『出口なし』

憤慨は、スピノザによると、害をなした他人に対する憎しみをいう。さらに憎しみは、外部の原因の観念を伴なう悲しみと解される。例えば、民主主義的な共同の決定が無いことに対して、腹が立つのである。明らかに、憤慨は、物事を根本からとらえる知性がないと起き得ない。新聞には憤慨がない所以である

オリンピックといえば、金持ち国が活躍できる会員制クラブの祭典でしょ?アイルランドの様な貧しい国の選手は自費でしたから、準世界記録を持つ学生がギリシャ行きを断念したのを覚えています。その点、ワールドカップの方が、産業革命を経ていない貧乏な国々、ポストコロニアリズム的多数派なんですよ

反乱というのは、支配者の歴史を炸裂させる爆弾の様相を呈する。反乱は、短い息吹で、事柄の性質上永続はしはしない。しかし、草原に放たれた怒りの火のごとく、所と場所を変えて人々のあいだに伝播していく。例えば、国民投票で原発の可否を求めたメランショ候補を支持した人々のことだ。
この人々は、銀行のネオリベ的支配を糾弾し、平等な税制改革を求めた。彼らは女性の自己決定権を尊重する。同性愛者やイスラムの人々に対する差別を断固拒否する。フランスの10%は、「アラブの春」、ウオール街占拠運動に繋がる運動体、強者の正義と弱者の抵抗といえるものなのではないだろうか


国民投票で原発の可否を求めたメランショ候補を支持した人々。銀行のネオリベ的支配を糾弾し、平等な税制改革を求めた人々。女性の自己決定権を尊重する人々。同性愛者やイスラムの人々に対する差別を拒否する人々。フランスの10%は、アラブの春、ウオール街占拠運動に繋がる正義と抵抗といえないか

愚かにも、自然の客観的な現象世界に、主観的な意味を与えるステレオタイプが「文系」だ。「理系」は「文系」の意味の病を嘲笑う。しかし真の自然科学者ならば、人間的な意味の病を嘲弄するだろうか?否。一切合財を無意味にするとその無意味すら意味を持たなくなるパラドックスのことを知っているから

表題「名づけられぬもの」が暗示する通り、サミュエル・ベケットの世界には固有名詞が殆どありません。小説のなかで名前と出会う確率は、アイルランドで晴れる日に出会う確率よりも低いのです!(分る人には分る)。ベケットにおいて貫徹する、固有名詞に依拠しない書き方は、ジェイムス・ジョイスの世界、びしょびしょに濡れての(ここで思わず、赤面)、固有名詞の洪水的氾濫とは、全く正反対なんです。ですけれども、しかしながらですね、何故、ポストモダニズムの批評家ジル・ドゥルーズは、ジョイスとベケットが同じ本質を表現すると主張するのでしょうか?面白いですね


今月恵比寿のレストランで、渡辺一民先生をお呼びしワインを飲みました。八十歳の穏やかな紳士ですが、教えるときは、ぴかぴかーと稲妻よろしく、知性の慄然と怖ろしい渦巻きの中に、私の如き怠け者は顔もあげられましえーんね。神の顔を見てはならぬイスラム教の話とは一切関係ありません、あしからず

2010年十月以来、ネットと社会の相互関係の中に生きている。反原発デモの例の様に、自由の為に連帯の重要な意義をみとめこれを求める民主主義を観察した。又全く逆のこと、即ち、同じ人々が救済を求めんが如く隷属の為にバラバラの分断に向かい石原や橋下の様な政治家に集まる民主主義も観察する。
自由の為に連帯を求める愛が、隷属の為にバラバラの分断に向かうこと。この矛盾は、スピノザによれば、行き過ぎた愛の崩壊によって生じてしまう。では、いつ人々は差別主義者の憎しみを棄て、愛のもとに戻ってくるのか?<他者>を拝し動物の如く生存するだけの孤独に耐え切れなくなったときに帰還する。
いつ人々は、石原や橋下の様な、<他>との相互関係で豊かになる文化を拝す差別主義者の憎しみ(「痛さ」)を棄て、愛に戻ってくるのか?効率の名のもとにただ動物の如く生存するだけの惨めな孤独に耐え切れなくなったときに公共空間に帰還する。これは、ウィトゲンシュタインの私的言語批判の新解釈だ

20世紀精神史総括;ドレフュス事件からスペイン市民戦争・第二次大戦の大空位時代までは、「西欧の不可能なアイデンティティー」が中心テーマ。1970年初頭までは、「ヨーロッパ」(但し19世紀的ヨーロッパ中心主義ではなく、植民地主義を反省した多文化主義のアイデンティティーとしての)
今日まで(2012年)。新植民地主義の復活を背景とした、多国籍企業のグローバリズム、ネットと、怒るマルチチュードの時代。20世紀精神は、共通のものを表した概念を表現する。アイデンティティーや同一性の概念ではなく、単独性といった関係性の概念が鍵。例えば、commonwealth


絵画の高級文化であれ、映画の大衆文化であれ、精神は、歴史について熱心に語る。記録化の欲求とは別に、現在自分達がどんな時代に生きているか知りたいという欲求を精神はもつ。映画といえば、現代の想像を重んじる時代に産声をあげたが、普遍主義的全体の美に訴える古典主義の遥か遠くに位置している

ソ連批判はナチスとの同盟に遡り、東欧デモ弾圧と収容所の暴露によって決定的になった。と、普遍的理性の呪縛にあった知識人は思想的自立性の領域へ避難した。十七世紀パスカルも理性の無能力を説いたが、自然の愚かさも糾弾した。ポストモダン知識層の方は資本主義の愚かさ(消費)に迎合してしまった

原発国家は<政財官学マスコミ>一体構造によって推進されてきた以上、その解体は再び<政財官学マスコミ>一体構造に委ねる事は不可能である。また倫理的にもゆるされない。大江健三郎が原発再稼働はモラルに反すると発言したとおり、次の世代、次の次の世代に対する責任もある。もちろん、汚染が及ぶ隣国アジアの人々に対する責任のことも忘れてはならない。原発国家=実体の構成要素を交換すること、例えば市民の直接的介入が必要だ

実体の煤G基底をなす構成要素の交換が重要。外部に開かれていない場には構成要素の交換が起きない。自己解体した様にみえても、空虚な砂粒なんてただ視聴率的な数字に成るだけ☛「空虚な砂粒のように自由である地点まで、徹底した自己解体をとげる事、そこから浮遊する群衆の自己組織化を」(笠井氏)

実体の煤G基底をなす構成要素の交換こそが重要。構成要素の交換が起きるためには、場が外部に開かれている必要がある。いくら自己解体した様にみえても、「空虚な砂粒」なんてただ視聴率的な数字に成るだけ。そういう数字は、反原発でも推進派ですらない。ただただ「マスイメージ」(吉本)の迎合主義


実体の煤G基底をなす構成要素の交換こそが重要。だからこの80年代的スピノザ=ドゥルーズ的射程は、移民やマイノリティーの重要な意義に立脚する。狂気も創造性の源泉である。これに対してネグりは、私達の疎外の原因は何か?と共通の認識の場をつくれという。自由な空間たる実体性=共通性の再発見


ロンドン時代、本屋を出てバスに乗りかけたのに、再び正確な一文をチェックしようと戻り手に取ったのがパスカルの英訳。原書を買ふ。ロンドンの様に息苦しい東京にあって(放射能が理由ではなくて、乏しい民主主義の空気と私の鼻毛とによる)。ゆっくりと油絵を描く様に自分流パスカル像を構築するのだ

外国で暮らした体験話の前に、流刑地へ行ってきたのか?と不信がる輩が七十年代にまだいた。排外主義にしか出口のないふりをする若者がこの喜劇を演じるの?いくらスーパー苔むすによっても、汚れちまったこの国のバラバラ感は、そう簡単には隠蔽しきれるものではない。元々汚れていたし、戦争犯罪でね


かつては、ネオリベ的御用学者の「美しく洗練された」似非経済数学に幻惑されて、金融引き締めと緊縮財政を信じたのは、経済成長の約束があったからでした。たんにマクロ経済学を追放したただけのその経済学の効き目が怪しくなった現在は、どうなったかというと、今度は、金融引き締めと緊縮財政がマイナスの経済成長は、「どこの国が一番タフか」「勝つまでは欲しがりません」を試すために、正当化されて必要とされているかのようです。たしかに、現状は、物価は安く、良質なストッキングも安く手に入るなど・笑、生活が脅かされませんが、だからといって、ホームレスや半失業の人々を犠牲していいはずがありません。また、深刻な右翼的排外主義を助長しているのは明らかですね。


ヨーロッパからみると、アイルランドは一番端に位置する様な田舎。ところで隣家に行くのに車で三十分かかるほどの田舎っぺにとって、大学でみたダブリンの若者は、都会の洗練された姿にうつる。pubをプビーと発音してしまう訛りは、くすくすと都会派の失笑を買った。しかし、あえて、パブではなく、このプビーの発音で、私は日本語を暫く教えたのを覚えている。「今夜ぷびーに、行きますか?」と。その理由は、学ぶ者の間に一体感を感じさせる事が重要だから。孤立させてはいけない。一体感のもとで学ぶ動機がでてくる。後で正しい発音を教えればよい。今夜、孤立がない、メランコリーぷびーに行きますか、あなた?

ヘドニズムのコラムニストさん、自分の舌と胃袋に任せて嬉しいですか?食われた豚の悲鳴が聞こえて来ないようです。現地人、米兵、脱走した日本兵を、「黒豚」「白豚」と名指し食っていた日本軍の残酷さを忘れてしまったのですか? ☛天声人語「地球で一枚目のステーキを焼いた、無名の原人のように」


七十年代に、深刻な利潤率低下に直面した米国資本主義は、レーガンのもとで企業の海外進出を助ける規制緩和を推進し、又、労働者達に賃上げを諦めさせローンを差し出します。これは、レーニンが考えなかった労働者の中流化です。利潤率と有効需要が救われ、他方、労働者達は抵抗力を決定的に失いました
 七十年代に利潤率低下に直面した米国資本主義は、レーガン下で企業の海外進出を助ける規制緩和を推進し、又労働者達に賃上げを諦めさせローンを差し出します。利潤率と有効需要が救われ労働者達は抵抗力を失いました。八十年代からのベルリンの壁とソ連の崩壊は、労働者の隷属的中流化を決定的にします

思想とパスカルがいうものはモダニズムの肖像画に対応し、雄弁はポストモダニズム的装飾画に対応する。ゴダールは肖像画の思想家で、どもるナレーションが雄弁を拒む。「雄弁は、思想の絵である。だから、描き終わった後で、なお加筆する人は、肖像画の代わりに、装飾画を作ることになる」(パスカル)

結局要するに、野田さんの政治判断って、判断<中止>のことでしょ?このひとたちは、決断して突撃することがなにより大事と思い込んでいる。しかし、松下政経塾的にはOKでも、自動車教習所的には、そういう判断を伴なわない決断は、非常に危険だしそもそも運転不適合なんだよー


「おおむね」=その状態が大部分を占めるさま。だいたい。おおよそ。<単純に言って、まだ一体どこが不適合なのか丁寧に説明して欲しいんだけどね。推進派も色々の立場があろうが、どうもこの人は暴走派のようだ。ところで政治判断って、判断中止のこと?>☛ 「野田首相、大飯おおむね適合」(朝日)


「おおむね」=その状態が大部分を占めるさま。だいたい。おおよそ。<単純に言って、まだ一体どこが不適合なのか丁寧に説明して欲しいんだけどね> ☛ 「野田首相、大飯おおむね適合」(朝日)



Imperāre sibi maximum imperium est. 自分自身を支配するのは最大の支配である。(セネカ)



太田昌国 ‏

ケン・ローチ監督『ルート・アイリッシュ』(英仏など合作、2010年)鑑賞。イラク戦争で民間軍事会社が担った役割を描く。『土地と自由』にはファシズムと戦うスペイン民衆と国際旅団の姿があった。『カルラの歌』には、コントラと戦うニカラグアの民と、そこに加担する英国人の姿があった。イラクには、侵攻した米英軍と国内武装勢力の双方に挟撃され、なぶり殺されてゆく民衆の姿があるだけだ。そこへ関わる英国庶民も、いつものロマンティシズムもなく、カネのために戦争要員としてイラク行きを選ぶ。救いようのない暗い映画だが、それがイラク・アフガンの戦争の実態なのだ。


! @ueno_wan脱原発の前線は関電vs橋下へ。飯田&古賀という智恵袋を得て、メディアの注目を集める。こうやってメディアが「ヒーロー」をつくっていく。橋下はしてやったり、と思っていることだろう。

96% of 18-35 year old males stopped and searched by police officers in London are of African or South Asian descent.


チャールズ・ブコウスキーbot ‏ @bukowski_
俺は思う、親父こそが /浮浪者になろうと俺に決心させた張本人だ /俺は心に決めたのだ、あんな奴が金持ちになりたがっているのなら /だったら俺は貧しくなりたいと。 - 『オールドパンク、哄笑する』

3・11以降に原発問題に取り組んだにわか反原発派の中から、被災地の人々を差別するヒーロー達が出てきた。今度は、メディア捏造のヒーローのもとに喜んで集まれば、タカ派的安全を買う為に、高い対価を払うだろう。諸君は、マイノリティー等の他者との接触で豊かに育つ文化の体制を捨て去るつもりか

高級な絵画史は勿論、俗な映画に関してもフランス人は歴史を議論します。現在自分達がどんな時代に生きているのか知りたい強い欲求のためでしょう。ちなみに、制作年順ではなく、様式で「前」「後」を考えるのなら、私は「古典」(パスカル)の「前」に生きていると感じます

高級な絵画史は勿論、俗な映画に関してもフランス人は歴史を熱心に議論します。現在自分達がどんな時代に生きているのか知りたい欲求からの探求です。ゴダールといえば、シュールレアリストの「後」に位置しながら、17世紀の普遍主義的全体の美を訴える古典主義の「前」に生きている知識人と思います

精神というのは、全体を少しづつしか知ることができません。ところで、絵画の高級文化であれ、映画の大衆文化であれ、どんな対象にも、精神は、歴史を見出し,これについて熱心に語ります。記録化の欲求とは別に、現在自分達がどんな時代に生きているか知りたいとする強い人間的な欲求を、精神はもつからでしょう。
ちなみに、映画といえば、ニ十世紀に、現代の想像を重んじる時代に産声をあげました。ところが、この映画というやつは、二十一世には近づくことはなく、それどころか私達に逆らってむしろ遥か遠く過去に赴き、17世紀の普遍主義的全体の美に訴える古典主義の時代に位置しているように思えます。私達は映画を見捨てたのではなく、実際は逆です。映画は私達を愛さなくなったのです。



ルネッサンスによる教会権威の解体は、精神的次元の絶対性と政治的次元の相対性の分離を意味した。同様の事は、マルロー達が生きたソビエトの権威の失墜で起きた。二十世紀の精神は、普遍的価値の王位から滑り墜ちたままだ。このような精神の空白は、多元的相対主義によっては償われることはない。そうして、多元主義を包摂する一元主義の絶対性が復活するときは、本当の意味で二十世紀が終わりが告げられ、同時に、あらたに、二十一世紀精神史は、マルローの屈辱とは別のところからはじまるのだろう。あわれみから、シモーヌ・ヴェーユからはじまる



移民の風景。移民というのは、必死でなにかの入り口に入ろうとする人々です。そうしてそこに入ってみたら、大抵は、屋根も柱も壁もない家に入っているのです。母国語を持つ人々の間で共通の言葉を探し、内側に行こうとするけれどもが、知らず知らず外へ外へと押し流されていく移民達の思い、故郷喪失者達の悲しみ。
屋根も柱も壁もない奇妙な家は、デザインは不可能、設計図も描けません。しかしそういう奇妙な家は本に似ていると思うのです。本を読む行為は、共通の言葉を探し内側に行こうとする努力の最中に、外へ外へ押し流されていくような距離そのものだからです。本の内部には人の声も眼差しもありません。
本は元々、屋根も柱も壁もない家の如く、人の声も眼差しもありません。そんな砂漠の様な空白を覆い隠そうとして、一頁一頁に知識の布がかけられますが、愚行と言わざるを得ませんね。それでは、真理を奪われた言葉達が繊細に紡ぎだす意志が、移民達の涙が、見えなくなってしまうではありませんか

原発の運用の仕方やその所有形態の問題とは別に、原発そのもの限界についてもっと話をききたいと願う。ヒロシマや長崎は、大江が指摘した通り、被爆者に対する許し難い差別が起きたし現在もある。だから、事故が起き得る、したがって被爆が起き得る原発の未来に対して警戒し反対すべきだった

自分を反省してのことだが、仮にいくら実名で責任感をもって、しかし結局匿名的に書いていたのでは、公開された場で発信する意味がないし、逆に、匿名でも社会的に書く事だって可能だ。失うものがないニ十代ならば実名で社会的に書く。続けて、この人独自のパーソナルな主張を構築できるようになりたい


1.孔子が弟子の南容について、「邦道有るときは廃せられず、邦道無きときは刑戮を免れる」といって賞め、兄の娘に娶せたという(公冶長篇)。これは特別なことのいわれている章ではない。だがここで南容の身の処し方を正しいとする孔子の言葉が気になる。

2.国に道無く乱れているときに、その乱れた政治の渦中に入ることなく、身を退き、言葉を慎み、刑罰を免れることを孔子は君子としての正しい身の処し方だとするのだ。乱れた政治の渦中に敢えて入ることは君子のなすことではない。ここには日本とは異なる仕官するものの倫理的な態度がある。

3.同じく公冶長篇に、「道が行われる世ではない。筏に乗って海に浮かび出ようか」という孔子の言葉がある。乱れた国を去って、東海に浮かび出ようかといったことを孔子は口にするのだ。乱れた国を去ることは、間違ったことではない。乱れた国で、過った君主に臣の道を尽くす方が間違いである。

4.この孔子の言葉はいろいろ考えさせる。なぜこの日本には国のためならどんな馬鹿げたことでもしてしまう国士という存在がいるのか。ここでは国家が常に正しさの根拠としてある。従って国を去ることは、ここでは裏切りである。だからここには亡命の思想がない。隣国の亡命者への同情もない。




Edward_W_Said

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」ー『知識人とは何か』


任命権者に差し上げたい言葉は無知ではなく無恥である、と、朝日新聞は書くが、空ろな言葉だ。また、韓国系アメリカ人の世銀総裁就任を評して、韓国に対する日本の凋落兆候という。でもアメリカ人でしょ、その人は?なにもかも、ナショナリズムである復興幻想を裏切る事実の兆候と思い込む思い込み、か


この国の新聞は、なにもかも、愛国主義的な復興幻想を裏切る事実の兆候と思い込む思い込みとなりつつある。朝日新聞は、韓国系アメリカ人の世銀総裁就任を評して、韓国に対する日本の凋落兆候ときめつける。ツィッターですらそういうトンチンカンな事は申しませんよ。米国は「ー系」の坩堝の社会だから

原子力発電所の災害は、火力や水力との災害とは比較にならない程深刻だから、「もう完全な復興はできずとも、民主主義の構築へと最善を尽くそう」とする柔軟な発想もあってもいいと思う。最近の領土ナショナリズム、石原の独りよがりの国盗り物語は、金に支配された安易な復興幻想と密接に連動している

肉体の非理性的な反作用にせよ、他者の思考にせよ、あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。挙動の逐一が五臓六腑をえぐる痙攣から生まれる飢えた原始の人間、笞を手にした監視人の命令につねに身構えているローマの奴隷、流れ作業で働く近代の労働者は、このみじめな極限状況に近づく。完全なる自由については、しかるべく解かれた算術や幾何学の問題のうちに、抽象的な範例をみいだせる。(中略)完全に自由なる生とは、あらゆる現実的な困難がある種の問題として呈示され、行動に移された解答が勝利を意味するような生だろう。そのとき成功の要素はすべて与えられるだろう。いうならば数学者の記号群のごとく、既知にして操作可能なものとして。シモーヌ・ヴェイユ(P.85)


単に、ネオリベのプロパガンダの変様であると見抜くこと!しかし石原の独りよがりの国盗り物語は、ネット調査で多数の賛成者を得ているらしい。あなたは、金に支配される社会に対してNOと言うと決意したならば、似非復興幻想を背景とした領土ナショナリズムの修辞に、簡単に足をすくわれてはならない


たしかに文学もです。現在我が邦の文学は、原発ポスターが繰り出してきた安全神話もどきクリーンな?エネルギー、静かな欺瞞となりました。カフカ的土着的に文体に凝っても観光ポスターの次元での洗練で、書き手の内側に原発国家がみえてきました


2010年十月にツィッターを始めた。ネットと社会の相互関係から観察したことといえば、確かに人々は自由の為に連帯の重要な意義をみとめこれを求めることだ。しかし反対のこと、即ち、同じ人々が、救済を求めんが如く隷属のためにバラバラの分断に向かうこと、石原や橋下の様な政治家に集まることも

世界的な影響がある、フランスの大統領選挙の進行が注目されます。まず第一ラウンドは、ルペン(娘)の極右勢力と、最近十数%まで支持を伸ばしてきたメランションMelenchonの極左の間の闘いです。ヨーロッパの戦況をみるかぎり、時代は中途半端な中道、穏健な中間の道を必要としないようです


そうか...翻訳というのは、作家や書き手の文章の上に、自分の文章を覆ってはならないものなのだ。たしかに、ジョイスの日本語訳を読むと、なにか静かな座禅僧か修道女の様な翻訳者の顔を思い浮かべてしまうものばかりで、あのアイリッシュのワーワー、ギャーギャーの超お喋りが全然聞こえてこないよ


現代音楽に関して専門的なことはわからないのですが、シェーンベルグの音楽を語るとき、音楽史のような全音楽(秤ケ楽)のことが射程に入るように、おそらく、ジョイスとべケットの文学を語る以上、全文学(舶カ学)のことを考えないわけにはいきません。ドゥルーズのマイナー哲学も、全哲学(箔N学)と関わる構想でした。結局、野心的なドゥルーズは、がジョイスとべケットを語るときは、全文学と全哲学の関係(這舶カ学・哲学)を見渡し喋りたいのだろうと思います。ただ、全体を少しづつ、というパスカル(「パンセ」)の言葉が思い起こされます。精神というのは、全体を少しづつしか知ることができません。ですから、ドゥルーズは、箔N学という全体を少しづつ知ろうと、ジョイスとべケットという反哲学を必要としていたようにも思えます。


フランスは、ファーストフード店ですら色気重視でまごまごするが、おいしかったりする。英国人のサービスは遅いが、手数料等金を引き出す速度だけはマッハのレベル。サルコジ登場の時、愛国的な英国メディアは、未来無き、遅れてきたブレアー登場かと揶揄し、遅れてると妙に勝ち誇った態度だった・笑



子安宣邦氏 ‏ Nobukuni_Koyasu

1.論語、雍也篇に「子曰く、質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬(ひんぴん)として、然る後に君子なり」とある。「野」は野人、「史」は文書を掌る役人。広く物事に通じているが、誠実さに不足すると朱子は注している。諸橋による訳を見てみよう。
2.「質朴さが文飾に勝っておると、その人柄は野卑に陥り、反対に、文飾が質朴に勝つと、その人柄は誠実に欠けて、いわゆる史の如きものとなる。このように文と質との中庸を得ない者は、それぞれ一方に偏した弊害を免れがたく、文と質との二つが盛んに揃って初めて君子といえるのである。」諸橋論語
3.金谷治は質を質朴、文を装飾として、「装飾と質朴とがうまくとけあってこそ、はじめて君子だ」(岩波文庫)と訳している。しかし質を質朴、文を文飾あるいは装飾と解して、質朴と装飾とがうまくとけあってこそ君子だというとき、その君子像をわれわれはどのように思い描くことができるのか。
4.だがそもそも「装飾と質朴とがうまくとけあってこそ、はじめて君子だ」とは、何らか意味を伝える日本語であるのか。ほとんど意味不明ではないか。吉川幸次郎は、「質とは素朴、文とは文明であって、二者は、あいよりあい助けて、人間の生活を成立させる最も重要な要素である」という。吉川論語
5.文明と素朴の対概念で人間の生活をいうとすれば、この吉川の理解は通るかもしれない。だがこの対概念で君子像を構成することができるのか。素朴と文明とは人間社会の進歩にかかわる概念であり、素朴と文明とをほどよく具えてこそ君子だというとすれば、それは意味不明で、バカバカしいいい方だ。
6.私は質とは人間の具える天賦の自然性として考えたい。仁斎は直であることを古今変わらない民の性だといっている。それはこの人間の本来的な自然性をいっているのだ。この人間の本来的な自然性の上に、素朴で実のある人間像が構成されるのである。
7.質とはこの意味で人間にとって大事な要素である。だがこれだけで人は君子たりうるのか。人間にとって大事なもう一つの要素があるのではないか。それが文である。孔子は「行いて余力あらば、則ちもって文を学ぶ」(学而)といい、「博く文を学ぶ」(顔淵)という。
8.人が学ぶ文とは、先人が遺す文章であり、文物であり、文化的形成物である。広くいえば人間が歴史的に形成し、遺してきた文章・学問を含む文化である。人間はその実質としての自然な素晴らしい性質の上に、この文に連なり、文を学ぶことを通じてはじめて君子たりうるのである。私はこう理解する。


小安氏によると、「質とは人間の具える天賦の自然性として考えたい。仁斎は直であることを古今変わらない民の性だといっている。それはこの人間の本来的な自然性をいっているのだ。この人間の本来的な自然性の上に、素朴で実のある人間像が構成されるのである」。まさに、これは、ベケット的です。
「質とはこの意味で人間にとって大事な要素である。だがこれだけで人は君子たりうるのか。人間にとって大事なもう一つの要素があるのではないか。それが文である。孔子は<行いて余力あらば、則ちもって文を学ぶ>(学而)といい<「博く文を学ぶ>(顔淵)という」。これはジョイス的といえます。
「人が学ぶ文とは、先人が遺す文章であり、文物であり、文化的形成物である。広くいえば人間が歴史的に形成し、遺してきた文章・学問を含む文化」。「人間はその実質としての自然な素晴らしい性質の上に、この文に連なり、文を学ぶことを通じてはじめて君子たりうるのである」(子安氏)。
この点に関して、ベケットとジョイスは「質」と「文」の関係として、相補的に関係し合っているとドゥルーズは考えたのではないでしょうか。ジョイスとベケットが同じ本質を表現すると主張する所以は、つまり、ベケット的一元論とジョイス的多元論が、「質」と「文」の関係として相補的な関係にあると見抜いたのです


プロテスタントが国家と結びつき、ローマにおいて世界中の教会が一つになっている(はずの)カトリックは非国家的、とする建前は今も立派に通用していますね。無論実際は、誰もが知っている通り!、アイルランドの例の様にカトリックは国家と強く結びついていて国家の宗教という様相を呈しています。
ところで、国学はナショナリズムと結びつき、儒学といえば人種と国境を超えた普遍主義的コスモポリタンと考えがちですが、そう簡単にステレオタイプ的に整理すると問題がありそうです。さて儒学者ならどんな国家像を思い描くのか?この問いの傍らで、カトリック的な哲学者の国家像はなにか?と私は自問します。
この点、十七世紀の伊藤仁斎、これを同時代人のスピノザの言説に関わらせて考えたいとする欲求が常に私の中にあります。簡単ではありませんが、儒学の幕末に与えた影響を見直したい気になっています。内戦の問題があるから。いま、世界の現代詩で、内戦をテーマにしていない詩はありませんからです

日本の詩には内戦がありません。何故内戦を書かないのか?と書くと、現在内戦が起きていないからだと肩をすくめる詩人達に問います。しかしそれでは眼で見たものを信頼する素朴リアリズムに陥っていませんか?自分の眼が見えることすら疑いたくなるほど現実に反発を抱える者は、この私だけですか?

雨の恩寵を浴びながら裸足で歩き続けた / 雲の隙間から陽光がこぼれ落ちても / その明るさに気づかなかったであろう / 地面の若葉が輝いても男たちと女には / 自分達の掌の骨しかみえなかった・・・/ 墓標に接吻すると、雨粒のせいで血が少しだけ滲んだ

366人に2人?オリンピックといえば、裕福な国中心の大会で、アイルランドの様な貧しい国の選手は自費です。準世界記録を持った学生がギリシャ行きを断念したのを覚えています。サッカーのほうが、産業革命を経ていない国々、ポストコロニアリズム的大祭典ですね

「善良な市民」の読者ならば、「信頼度が高い」新聞・テレビの非難の言葉ー金権政治への罵りをそのまま信頼しますが、しかしツィッターの「悪い市民」は、大手メディアの報道が負けず劣らず金に支配された社会の一部に過ぎない事に心を痛めています。記事なのか企業広告なのか区別をなくした蓄財術とか

姑息な検閲が必ず起きます、権威的な社会では日常的に。だから、東欧の作家たちかそうでしたが、あえて暗号文のような難解な文章をつくって当局の監視を受けないように工夫したものですが、日本の場合は一見穏やかに、しかし非常に陰険なやり方で、「やさしく書いて」と勧めて、事実上異議申し立て的な主張を中立化・無化させてしまいます。厄介なことに、なぜ検閲しなければならないのか、本人(検閲する人)にもはっきりと理由が分らないことです。検閲しなければならないから検閲しているだけです(溜息)。さて、私でしたら、全部を却下させないように、妥協できる訂正文を相手に考えてもらいますね。そのために、変更が加えられてもいい少し自由度がある、長い文を拵えますねーあくまでもカモフラージュの文です。比較してしまうと、受け入れざるを得ない判断となっていくことがあります。「お前は阿呆だ」、と裁判官に怒鳴ると法廷侮辱罪ですが、「お前は聖徳太子よりは馬鹿だ」とするとOKなんだそうです、昔免田事件の人権弁護士・倉田先生が私に教えてくれました(笑)。例えば・・・「チェルノブイリやスリーマイルの原発災害のときと同様、国の必ずしも迅速とはいえなかった後手の対応」、「純粋な天災というよりは、天災と人災の両方の様相を呈した」「不本意にも放射能にさらされた」

搾取されてきた貧しい国の場合、歴史を語ることが大事なんですが、実際には中々難しい課題なんです。記憶を風化させてはならないんですが、他方で、長崎さんの文を読んで、これは(搾取されてきた国の歴史)、被災地の報道写真に通じるところがあると気がつきました

生涯無くした笠の数といったら、集めて売ればクレタ島に別荘を三つ買える程の数だ。と、今日も品川のカフェでコーヒーを飲んでいたら笠が無いのに気がつき取り乱した。が、冷静なウエイトレスの捜索によって無事回収。意外な場所にあって愕然。まさかここにあるとはな、裏をかかれたぜ。笠たてにあった

大手メディアは昨年六月まで反原発デモを無視した。現在は首相官邸前の人間の鎖を報道せずだ。報道には、署名や集会・デモの活動によって規定されない、独自のアイデンティティーが与えられるべきと思うが、しかし、「デモなき報道」と「デモある報道」、野田さんはどちらの報道が好きか、答えは明らか


原発推進は<政・財・官・学・マスコミ>一体的構造によって実現した。原発問題の解決は再びこの一体的構造に委ねる事は不可能、倫理的にもすべきではない。民衆の直接的介入を要求する、国会を人間の環で取り囲む政治的象徴行為には意味がある。人間の環が大きくなると石原と橋下は民意を盗めなくなる

クレタ島のご質問ですが、直接は存じ上げない方ですが、わたしのfbの友達ソクラテス(実名です!)なんか、三年前に旅行したときの様子をぼんやりと覚えています。クレタ島、からメッセージを送ってくれました。やはり、なんと申しましょうか、オリエンタルなステレオタイプのことがあるのではないでしょうか。地中海にある、ヨーロッパとアフリカの中間に位置する島、ギリシャ文明の一つでありながら、長い間アラブに属していた異国、なにかどこにも属さないエキゾチックで、若返りをもたらせてくれる自然の力、simple,passionate, innocentな人々に対する、豊かな人々のロマンチックな思い込み、そういうったもがあるのではないかと思います。ちなみに、ゴダール「軽蔑」は、イタリアのカプリ島でのロケーションでしたが、ホメロスが物語った地中海全体の、クレタ島もそのひとつをなす、神話と現実が溶け合った異空間を表現していたと思います。クレタ島といえば、クレタ人の嘘のパラドックスがありますが、映画の中で、ハリウッド時代のブレヒトの言葉を、ブリジッド・バルドーに語らせていました。映画監督ラングに向けてですね。ブレヒトはラングのもとで助手として働いたこともありました。たしか、「或る男はもう嘘の市場に行く嘘を売ることをやめたのだーその嘘の市場とはハリウッドだった」、でしたか。ゴダール「軽蔑」は、とくに溝口の「山椒だいふ」のラスト場面に捧げられた映画でした。地中海と日本の海が重なるのですね


『事実とは何か』本多勝一

新聞社に就職して教えられたことの第一は、報道に主観を入れるな、客観的事実だけ記事にせよ、という考え方でした。このこと自体は全くその通りだと思っていましたし、現在でもその通りだと思います。ただ当時と現在とでは、結論としては、「その通り」であっても、次のいわゆる事実――絶対的事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのだ。主観的事実こそ本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても無意味な存在であります。一見逆説的にみえるかもしれませんが、ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません。


堀 茂樹氏

@フランス大統領選の決選投票(5月7日)が迫ってきたので、人口学・家族人類 学の知見を背景に近年積極的に政治を論じているエマニュエル・トッドが、第1回投票結果をどう分析しているか、その一端をご紹介します。なお、私はトッドの分析は的確であり、日本にとっても示唆が多いと思います。Aへ
A以下、E・トッドの分析。フランス政治の「正常な」均衡状態への回帰が始まったようだ。「極右化」した保守現職サルコジが放逐されそうな気配で、フランス左翼の、普通という意味で「正常な」リーダーが優勢である。又、労働者階級と左翼政党との関係が長い正常化プロセスに入った模様である。Bへ
B02年の大統領選第1回投票で社党候補ジョスパンは労働者票の10%強しか取れなかった。07年のロワイヤルは約20%にとどまった。今度オランドは労働者票の30%近くを獲得し、極右「国民戦線」と肩を並べた。決選投票では恐らく、フランスの左翼政党と労働者階級の和解が示されるだろう。Cへ
Cサルコジについての国民投票の観を呈しているこの選挙でのシナリオ1:サルコジが僅差で勝つ。シナリオ2:オランドが51-3%対47-49%で勝つ。シナリオ3:オランドが55%程度を得、サルコジは大敗北。フランスが全体に右傾化しているにもかかわらず、シナリオ2か3が当たりそうだ。Dへ
Dしかし今度は、車のワイパーのような左右の交替ではない。グローバル化の下、右(自由主義+個人中心)も左(自由主義+社会的連帯)も同じような経済運営しかできないと言われ、左右対立に最早意味がないと思われた一時期とは、国内外の環境が異なるからだ。経済が土俵際まで追い込まれている。Eへ
E(完全自由貿易による)貧富差の拡大、ユーロ危機を背景に、EU内ではドイツ現政権を後ろ楯とするラディカル右派が、EU各国に残存している福祉国家的要素を根こぎにしようとするだろう。それに対し、フランスの左翼政権は大統領選で勝利すれば、改めて「平等」の追求によって対抗するだろう。Fへ
F「平等」(注:アンチ自由の「平等」ではなく、自由の享受における平等)という理想がフランスで改めて台頭してきている事は、「左翼戦線」メランションの言説だけでなく、社会党内(注:特に予備選3位のモントゥブールが意識されている筈)と、オランド自身の言説の中に看て取ることができる。Gへ
Gカギになるのは「ネイション(国民)」の理念だ。サルコジは従来から国内の排外的傾向を煽ってきたし、選挙運動でもナショナリズムを煽っている。が、その実サルコジは、「アンチ・ネイション」勢力の代表だ。今、「ネイション」理念が右(保守派)から左(進歩派)に移行しつつある事に注目せよ。
E・トッドによる大統領選第1回投票結果分析への脚注:フランス主流の考え方では、ネイションはエスニックな集団ではありません。法的・政治的な「市民の共同体」(社会学者D・シュナペール)なのです。「市民」とは、主権者たる人民の一員であり、出自も宗教も性別も問わない普遍的な政治主体です。


In the UK, the money earned by the poorest tenth fell by 12% between 1999 and 2009, while the money made by the richest 10th rose by 37%.

年が離れた私の父は旧制一高生出身で、いわゆる「文系」の「文系」を自慢するが如きナルシズム的幻想を迷惑に拡散していた。いわゆる「理系」なるものを軽蔑していた、文化論的似非精神主義のプライドである。整理すると、自然の客観的な現象世界に主観的な意味を与えるステレオタイプが、いわゆる「文系」である。「文系」がある以上、その否定の形としての「理系」なるものが思い描かれる。現在は、「理系」は「文系」が陥りがちの意味の病を、人間臭さを嘲笑うことになっているが、昔は、これが逆だった。「文系」が「理系」を嘲笑ったのである。国威発揚的に、国策的に、「文系」と「体育系」とが歩調をあわせていた。(現在は、大企業などでは、「理系」と「体育会系」が一体の幻想をつくっている)。ところで、私達は、そんな二項対立を受け入れる必要があるのだろうか?否である。私達は、人間的な意味の病を嘲弄するものなのだろうか?否である。一切合財を無意味にすると、その無意味すら意味を持たなくなるパラドックスのことを、私達は知っているから。その私達というのは、「市民」というアインデンティティーであろう。おそらく、国家と資本の結節点である原発の問題は、「市民」の立場からしか、解決しえないものとおもう

アイルランドのポストコロニアリズムの論客達といえば、リスクをとり、敵味方の境界線を相対化する平和戦略に出ます。例えば、スペンサーはアイルランド文学の父とされます。紛争と差別を解決したいからです。だから、東浩紀氏のように、徒に破壊的懐疑主義と権威への盲従に捉われることは起きません

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