言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろねこー、かく語り き  六月  本多敬

<<   作成日時 : 2012/06/01 07:26   >>

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まだ二年めだがもう一万ツィート。もし新聞とテレビの情報源しか無かったら、滅茶酷い状態だけに、退行的に宗教洞穴に隠遁したかもしれず背筋が寒くなる。が、あなたの御蔭で、わたしは、どんなにせまくとも、ここから、主体的に世界と関わる意志をもてた。内在性の中の超越性の大事な意義を理解できた

ウィットゲンシュタインやアルトーの文体に、マルチチュード的な特徴がある。mobilityとflexibilityは、身体の介入によって"不動でありながら絶えず動く"思考の柔軟な運動性。precarityは、up to down,しれゆえに、内在性の中の超越性の如き越境性であり、終身雇用的ではない。ジョイスの造語こそは、マルチチュードの真髄なり。天に御座す超越的な観念を、身体が属す世俗世界に引きずり降ろす。例えば、dainticalという造語は即ち、alike or identical in delicateness and daintiness。神と人間の"類似性"を嘲笑う言葉


大英博物館は、女子学生十人に案内したことがある。"あちらをご覧下さい。売店のサンドイッチです。後ろをご覧下さい。なにも置いてませんね"という感じで案内、呆然とする者もいたが、「面白い物は自分で探して愉しもう」と気がつく。大英博物館展示品のザ・ミスター・ホンダと呼ばれ人気者になった

反ユートピア小説といえば、ハクスリー『素晴らしき新世界』。このタイトルは実は、シェークスピア「テンペスト」のミランダの台詞に由来していることをご存知か?。父親しか知らない彼女が生まれて始めて、孤島に上陸して来た他者を、泥酔した船乗り達を、(ジョンの様に)称賛した。
O wonder!
How many goodly creatures are there here!
How beauteous mankind is! O brave new world,
That has such people in't.
ハクスリーの文体を巧みに模倣して、このシェークスピアのアイロニーを再構成したのが、ジョイスだ。(「太陽の牛」挿話)。娼婦小屋での空想。病院の手術室で女性に再生した淑女ブルームがはじめて出会った相手といえば、なんとパブ的に、猥雑雑多に盛り上がる、ハイベルノ英語の乱痴気騒ぎだったとは!さて、これについては色々と解釈がある。単純に、おお純潔を尊べとする胡散臭い、(おっと、わが邦のことじゃなかった)、大英帝国ヴィクトリア朝のモラルを嘲笑ったとする説などは、分りやすい。また、病院というロケーションに注目する説もある。なぜジョイスの小説はかくも、図書館や郵便局や病院等の公共施設を描いたのか?皆が利用できる公共施設は植民地時代ですらこんなにあったのだから、独立後に減っているとしたらその独立を詐欺とおもえ!と警告したかったとする説だ。ポストコロニアリズム的な解釈といえよう


ビクトリア朝大英帝国といえば、図書館。なぜジョイスの小説は図書館や郵便局や病院等の公共施設を描いたのか?皆が利用できる公共施設は植民地時代ですらこんなにあったのだから、独立後に減っているとしたらその独立を詐欺とおもえと警告したかったのかもhttp://www.facebook.com/media/set/?set=a.2291498084514.2138480.1160873230&type=3&l=731efb11c4

三十年代には、安全神話ならぬ、人民戦線の神話と形容すべき神話があった。「原発は安全ではなかった」と「原発は絶対に安全だ」の分裂は、当時知識人達が直面した「出来事」と「超越性」の乖離のことを考えさせる。神話への反抗のことも、

Now I think of the tragedies of twentieth-century Europe in which the event and transcendence take horrifying forms in the long "European civil war" and historicism comes to mean simply political disorientation in the various figures of fascism and populism.
The myth of the "popular front"in the 30's was as ùncontéstable consistency as a safe myth today regarding to the nuclear power plant "Genpastu". Simply, the divergence of " Genpastu was not safe" and "Genpastu is absolutely safe" may give to us the testimony not only to one of "event" and "transcendence" happening in the intellectuals like André Malraux and Simone Weil, but to the movements of revolt and rebellion against the myth...


されど7500人でした。昨年三月は東電前の抗議者は五百人、私の知る限り今年始めの国会前の「人間の鎖」は数百人。警察による規制の為に、実際に官邸前に抗議できるのは百人ぐらいで、大半は官邸すら見えずに声を上げています。空しくならずにです

万1000人が首相官邸前に集まった。テレビ局も新聞社も報じないのか?「こいつら、ビタミンCが足りないから変な事をするんだ」と警官達による陰口を聞いたが、マスコミも「変な事」くらいにしかみなそうとしないのか?市民達の抗議を

高度産業社会では、快適で、摩擦のない、道理の通った不自由さが行き渡っている」「資本主義の端緒や初期段階で不可欠とされた権利や自由は、その発展段階の前で屈服し、それら権利と自由は合理的根拠や内実を失ってゆく」H・マルクーゼ『一元的人間』


「普遍的思考」
プロセスとしての分裂症こそ、唯一の普遍性なのである。分裂症とは壁であり、壁の突破口であり、同時にこの突破口の挫折でもある。――(上)p261




The chances of an American born in the bottom 20% to make it to the top 1% are .0001%

ウディ・アレン
本はよく読むよ。 でも、読むことが楽しいとは思わない。 読書が大事だから読むんだ。

柄谷行人氏の「世界史」に対する疑問。柄谷行人氏は、国家の能動的な役割を強調するあまり、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか?「革命」を待ち望むように、「国が解決するときがくる」という「待ち」の姿勢は、私達を消極的な態度と生き方にする


1,私の理解不足を恐れるが、柄谷行人氏の中国論はいわば"資本論としての北京"と思えてならない。同化政策と交易の関係はマルクスの価値形式論の機械的適用にみえる。思考の地図とて、遥か俯瞰的な高さからの眺望だけに、亡命者達の複雑な立場と少数民族の歴史的現実を捉えたといえるのだろうか?

柄谷行人のブログより

「脱政治化」である。これは、つぎのようにいうとわかりやすいだろう。たとえば、1990年以後、「資本主義」のかわりに、もっぱら「市場経済」という言葉が使われるようになった。それは資本の蓄積が資本と賃労働という階級関係にもとづくことを無視し、また、資本主義経済が自然的・永続的であるかのように考えることである。
 このような脱政治化が日本や先進資本主義国でおこったが、実は、中国でも同じであった。「社会主義的市場経済」の名の下に、資本主義経済(新自由主義)が急激に進行し、各地で深刻な階級対立が生じたのである。ところが、それはナショナリズム、エスニック・アイデンティティー、あるいは人権問題などの「政治」にすり替えられた。それらは政治的に見えるが、脱政治的なのだ。

 本書におけるもう一つの観点は、中国における特殊な問題から普遍的な認識を引き出すことである。現在の中国の民族問題を理解するためには、清朝によって拡大された冊封体制(朝貢関係)を考える必要がある。近代西洋に始まる主権国家の観点から見ると、朝貢関係は支配―従属関係でしかない。しかし、朝貢は実際には交易であり、帝国は他国の政治や文化にはまったく干渉しない。朝貢関係は交易や平和を保障する国際的システムなのである。そのようなシステムが「帝国」だとすれば、相手を主権国家として認めた上で、資本主義的経済に巻き込んで文化的にも同化してしまうのが「帝国主義」である。西洋列強は、「帝国」の下にある諸国家を、従属状態から解放するという口実の下に支配したのである。


プロフェッショナリズムといえば、市場主義的規範と「小さな絵」をみせる専門性のことだ。サィードはこいつらが現在の言論をダメにしていると言う。それに対して、アマチュアリズムは、言わなくてはならんから言うという思いから発言し、お金は二の次。敢えて専門性に依拠せず、大きな絵で介入していく


いつわりの明るさでは占拠できないんだ。民主主義を奪った敵に怒れ!敵を憎め!悪法とわかっても、法を尊重してきた我々の善意を踏みにじる敵だ。怒れ!憎め!怒りと憎しみを経ずしては、本物の絶対民主主義も、本物の絶対愛も、不可能。集まってきた小さな声達から、だんだんと開けてきた大きな真実さ

ネグり(Antonio Negri)「Traversées de lE,pire」(仏訳)を読んで

ダブリン十万人反戦デモ、ロンドンのシティー占拠(反G20)と参加したとき、世界の風景は全く違ってみえた。米国主導イラク戦争の多国籍的集合は失敗だったが、専制君主的帝国(米国)と、従う貴族達(IMF,世界銀行、EU、金持ち主権国家クラブ)が協力し合う体制が確実にできあがっていたから。
そして、2011年の東京発の脱(反)原発運動に参加したとき、腐敗した日本の風景が、世界の風景、即ちネオリベ的グローバリズムの風景に対応しているのに気がついた。やはり専制君主的帝国(米国)の内部で、従う貴族達(一体的構造"政財官学マス")が協力し合う体制が目の前に展開していたからだ。
東京発の反原発運動の、ローカルな異議申し立て運動は、(私が知る)ダブリン十万人反戦デモとロンドンのシティー占拠(反G20)の世界的なデモと一体のものだ。横断的に、民衆が要求する民主化運動にほかならない。なにもかも金で支配しようとする、君主的な帝国と貴族達が協力する体制に抵抗し始めた


発音は驚くばかり明晰だった。まるでちゃんと拾い分けて、いつでも役に立つように用意してある、綺麗に揃った大振りな豆粒みたいに、言葉が後から後からと撒き出されるのだ。誰も初めはこれが気に入るけれど、後にはだんだん嫌気がさして来る。それはただあまりに明晰なこの発音の為である。 ―ドストエフスキー 「悪霊」

なんて奴だ!暇人変態ごっこのくせに、本物の文学ほど、こちらの人生に介入してくる !!

絶滅の危機にあるのは少数言語だけではない。無慈悲にも、この二十年間のあいだに急速に映画の傑作群が忘却の彼方に消滅せんとしている。スイスに隠居したリア王と揶揄されたゴダールの名は、映画を表す代名詞の位置をとり始めた。ゴダールの「リア王」は、分身であるウッディ・アレンに語らせたけれど

「パッション」のゴダールは、崇高なものの表現に向かった。映像達から喚起された言葉達が囚人の如く、無意味な音達に、ノイズに、結びつけられた。そうして感性界の、無限にみえる多様な自然の世界が現出した。言葉達の喪失は語りの特権性の導入によって償われる。が、語る者が不在なのだー八十年代は


便利ファシズムのこの国で、反証なき理性の安眠を貪る駅ビルアンの呪縛を解こうと、Epicurean Travelと命名したこの旅は、ジャーナリスト的にと形容するのは無理無理でも、浮気調査の街の探偵ぐらいのつもりで行って来た。確かにオルランドの存在感はロンドンでも感じ取る事ができたね

The Epicurean Travelのアルバムをご覧下さい。今回訪ねたLyonは、映画の発明者リュミエール兄弟の街です。自由民権運動の中江兆民が留学しました。Avignonといえば、ピカソのアビニョンの女達。アビニョン演劇祭も大変有名 http://www.facebook.com/media/set/?set=a.4016648132187.2175836.1160873230&type=1&l=82d180864f

えにくすさん
小鳥の囀り、色とりどりの薔薇、回転木馬、走行音、声、声、声、町の啼く声。綺麗です。途中、映し出される切片は、幼い頃、兄が持っていた石の標本を思いました。歴史ある建造物の、採光の仕組みに、胸が躍りますね。薄暗がり、薄明の、光の誘惑。先生、おかえりなさい
置き手紙ならぬ<置き絵手紙>で、『ふくろうねこ先生の空の旅』を想像してました。童話が、いくつか書けてしまいますね。せせらぎの音色、鳥の歌声、町の息遣い、時の巡り、薔薇、踊る光。モチーフが盛り沢山。生の倦怠に開く、革命の。



一昨日帰りました!@Ao_69鳥の囀り、色とりどりの薔薇、回転木馬、走行音、声、声、声、町の啼く声。綺麗です。途中、映し出される切片は、幼い頃、兄が持っていた石の標本を思いました。歴史ある建造物の、採光の仕組みに、胸が躍りますね。薄暗がり、薄明の、光の誘惑先生、おかえりなさい。
<パンドラの箱>3、ジャーナリスト的にと形容するのは無理無理。でも、Epicurean Travelと命名した旅は、街の探偵ぐらいのつもりで英仏に潜入。オルランドの存在感は英国でも感じ取る事ができた。つまり、これは1970年代後半から続いた、ゲームの規則が大きく変わることの兆候か


<パンドラの箱>1、ゼウスがパンドラに持たせた、あらゆる災いの詰まった箱のこと。彼女が地上に着いたとき好奇心から開けた所、全ての災いが地上に飛び出した。実はその箱はツィッターに、あらゆる災いは唯一つの災い即ち原発災害に対応する。蓋するつもりで書くも、希望が保証されている訳ではない

<パンドラの箱>2、英国では質問者の野党と答弁者の与党は互いに向かい合って座る。質問といっても所詮、「お願い、分って」と慈悲と愛を求める上目遣いの視線。答弁の方も、冷酷な無視を浴びせるだけー腹を空かした獰猛な犬の目つきの首相達。原発推進に関しては、仲良し小好しなのはわが国会と同じ

<パンドラの箱>4、太陽いっぱいの、LyonとAvignonの小旅行。本当にイイ日に恵まれた。しかし列車で移動する途中、川沿いにある原発施設を見たときは、正直言うと、やはり考えさせられた。日本から来ている以上、単純に、南フランスの美しい風景を称賛するだけでは許されないかーとほほほ

<パンドラの箱>5、端的に、原発の不可能性は、賠償金を含めたコストの不可能性に存する。これに対して、「被害者が加害者に補償金を払って補償金を払って汚染を抑制してもらうこともできたはずなのに」、と推進派は開き直るかもしれない。暗黙に、裁判所は、このような日経的な合理主義に追従してきたのではなかったか?結局、原発政策は、TPO的市場的合理主義と一直線上にあるのだ

<パンドラの箱>6、あまりにもTPO的な、似非合理主義のもとに、原発推進の一体的構造"政財官大マスコミ"が桎梏をなしている。だから、「国民生活にかかわる重大な政治的意志、方向の決定過程に市民的に介入する権利を我々がもつこと、即ち民主主義を我々のものとしなければならない」(子安氏)。ご同意

<パンドラの箱>7、ジョイスは、ブルジョア的ナショナリズムの市民も、民族主義者的な市民も、胡散臭く思った。だから、文学作品の表題"Dubliners"は「ダブリン市民」とは訳せない。但しどこで文学を読むかの問題がある。この市民の語が、民主主義の不在への負い目を心地よく隠してくれるとか?

<パンドラの箱>8、
8.15を3.11に重ねてみると、今日この国は、市民的直接介入無き、従って民主主義的方向を見失ったまま、動物の如く生存手段にしがみつく惨めな不決定に陥っているのは、歴史認識の不在に原因があるのではないか。昭和の戦争は中国大陸における戦争、政財官大マの一体構造が推進した戦争のはずだ

<パンドラの箱>9、今日ならば、パンドラの箱はツィッターに、あらゆる災いは唯一つの災い即ち原発災害に、対応するかもしれない。蓋するつもりで書くつもりでも、希望が保証されている訳ではない、書く能力も足りないし、書く意志も欠けている。ただ、書く義務だけ。書くしかないから、書くだけだ。倒れるまで、ぶっ倒れるまで書くだろうよ

ロンドンには、戦前にオーストリアから移動してきたユダヤ人が多いのに気がつきました。垢抜けたベーグルを出すケーキ屋さんを営んでいますが、かれらは戦争の歴史が背景にあるんですね。ユダヤ人だったかどうかは別として、ハイエクや、カール・ポッパーも、そういう迫害を逃れてきたオーストリア人。イギリスという借りの宿で、肩身が相当に狭かったかなと思うんですが、大体そういう立場に置かれた知識人は、大家の悪口は言いませんし、結構建前的に褒めさえします。ハイエクとポッパーにとって、もちろん、大家さんはイギリスでした(笑)。判例主義のイギリスは素晴らしい、立法主義ではない。眉唾ものというと、英国コンプレックスのひとびとにおかられちゃうんですがね。ま、そういうことも考えると、ネオリベの偉い日本の学者さん達は気がついているかどうか分りませんが、ハイエクとポッパー、この両者の思想には非常な親近性があるのは当然かもしれません。実際に、この両者はお互いの考え方を引用し合っていますしね。私の独断かもしれませんが、たとえば、「大きな政府」は、ズバリ、「(自己自身を含む)大きな集合」を喚起します。巨大な思惟のシステムのことですね。音楽の領域に移して考えてみると、それらは、和声音楽の崩壊のなかで、ワグナーが再構築しようとした巨大なシステムに対応できるかもしれませんが、なんにしても、巨大な思惟のシステムは受け入れられないだけでなく、亡命者の立場からみて非常に危険な幻想なんですねーちょっと強引な展開かな(笑)。明らかに若いハイエクが影響を受けた思想に、アナーキズムのプルードンがありますが、これに関して言うと、ジョイスなどは、イギリスの対アイルランド植民地主義政策を批判するときは、<プルードンーハイエク>的な批判を展開したものです。ただしハイエク自身は、植民地主義に対してはっきりと批判できませんでした。それが残念です。そして、結局、ハイエクは、フリードマンのような悪人によって利用されたというのは、その通りだと思いますね。さんざん大きな政府を批判しておきながら、アメリカの外で、つまり、占領地帯のイラクで、傀儡の大きな政府をつくれると思い込むのは、傲慢以外のなにものでもありません。フクヤマですら呆れたほどです。


Spinoza; “It is impossible for the mind to be completely under another’s control; for no one is able to transfer to another his natural right or faculty to reason freely and to form his own judgment on any matters whatsoever, nor can he be compelled to do so.”


Once Godard was really surprised to see how the Japanese director powerfully constructed the time order along the pan and editing! Look at the scene 3;20

I think, the charm of Kyoto as the town consists in the details that it has still breathed ,and that is never able to be reduced to the total. Every place of the tradition, culture and events see them struggle against each other;the micro power and the macro power , even in the still beauty of nature, the minimalism, in the garden the Buddhist temple and Shinto shrine feed together.

2011年7月14日 9:36
Good morning !

In praise of...FREEDOM

The part "should" in the sentence "One should stop a nuclear power" is understood according to the category as a concept of regulation. If it were seized too much with his/her interest such as "electricity is not enough", it would be difficult for it to arrive at the gate of "Idea" of "Freedom". It is only by a human being that the Idea of "Freedom" is realized in "Nature", his/her "Sensibility". - T.H

「原発を止めるべきだ」の中の、「べき」の部分が、カテゴリーによって理解される、「立法」の言葉である。「電気が足りなくなる」という現在の利害関心に囚われすぎると、この「立法」が、「自由」という理念に到達することが困難となる。「自由」の理念は、人間によって、「自然」の中に現実化される ―

2011年8月19日 2:18
The dependence to the nuclear power generation has been ever drived by the sort of Japanese version of Oedipus complex ,< politician hunting for a concession - financial circles - research institution of university>, that is led by central authority called "Kasumigaseki bureaucracy".
So denuclearization, a movement away from relience on nuclear power, cannot be consistent with the cynical vicious net of desires ; Japanese version of Oedipus complex again.
This is the reason why the intervention of people is required from thde outside .
But now the people breaks up like a piece ...

We can take the word of our friend who watched the video of Anti-nuclear-power demonstration 6th August at the Tokyo Electric Power Company.
"L'interdependance des" No Nukes" court la Planete"

Here comes Everybody ! To Fukushima,To Hiroshima! Let's visualize the voiceless of voice;"No Nukes" !!

子安宣邦氏のtweet

1.孔子が近くにいた子路と顔淵に、日頃の志をのべてみないかといった。子路は「車馬や皮衣を仲間と一緒に使い、破れても恨み言をいったりしないようでありたい」と答えた。顔淵は「人の善を損なうことなく、その成就する事を願い、労多い事を人に仕向けたりしないようでありたい」と答えた。
2.孔子自身の日頃の志をいうことを求められて、「老人には気持ちが安らかになるようにし、朋友を大事にして信実をもって付き合い、年少者には年齢の隔てなく親しめるようにしたい」と答えた。勇者子路は子路らしく、善人顔淵は顔淵らしく答えている。孔子の答えもいかにも孔子らしい。
3.多くの解釈は孔子の答えを聖人のものとして卓越化させるが、孔子が日頃もつ志をただのべたものとして考えたい。私もまたこうありたいと思う。だができない。すでに老人である私は老人に対してはやさしい。だが友人を大事にしているとはいえない。たえず孤立する道を選んでいるようだ。
4.ましてや年少者に対しては、・・・。これは論語・公冶長篇にある一章である。最初に引いた顔淵の答えは仁斎の解釈によっている。仁斎にしたがって論語の全章を講座で読んでいるが、それは私にとっても、孔子のさまざまな言葉に出会い、その都度考えさせられる貴重な機会である。


HOW TO TRANSLATE JOYCE'S FW IN FRENCH ?
- Young Becket joined the project team of translation -

"erre-revie, pass'Evant notre Adame, d'erre rive en rêvière, nous recourante via Voco par chaise percrée de recirculation vers Howth Castle en Environs"

(original text) Riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay,brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs (James Joyce, FW)

(japanese, my translation) 夢を見ましょう、アダムとイヴの過去のもとに、弧を描く川岸から湾曲する海へと人々を誘う河が走ります、と、再び、その夢は、未来へ向かって、ホース城とその周囲に定位するヴィーコ的終わり無き循環の方へと連れ戻してくれるでしょう 

(my review) I don't need to say this is the good example that multiple unrelated images, combined into a single image, do not necessarily create complexity. The multiple, myth, geography and human anatomy, combined into a single image, deconstruts the novel-linear-structure led by bourgeois project.


主婦「掃除をしないでいると、主人が、うちにブラックホールみたいな掃除機があればなと嫌味を言うのよ。優しい声でも注意は注意。生意気だわ」。相談員「最近の掃除機はホワイトホール型ですと言っておやりなさい」。主婦「そうなの?それどこで売ってるの」。相談員「いや、その別に」

Multiple unrelated images, combined into a single image, do not necessarily create complexity (Kit White,101 things to learn in Art School)


河津聖恵氏のツイート
右翼のひどいヘイトスピーチとか、内向きの集団行動を見てると、すごい絶望感に襲われる。原発再稼働が止められない感じも同じだ。戦前的な自己と向き合えないままだったゆえに、国内or脳内ホルモンが暴走したのだ。少なくとも「かれら」にもうこれ以上集団妄想の環境を与えてはならない。

アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 ‏
seq2 統一性は決して、固有の意味でも、「私的な」意味でも、人物の中にはない。そうではなくて、もろもろの器官の接続、離接、連接を規定する系列の中にある。したがって幻想、いつも集団の幻想なのである。――(上)p268

Racism Facts ‏
According to Stanfield, Hollywood films have been more effective than any other media in spreading a racist-imperialist ideology.


かつては反原発運動、現在は脱原発運動だが、生命の至高性を尊重せようと誠意をもって呼びかけてきた。が、結局この主張は、多数派中流層の理解を得られないかも。至高性というのは、中流が依拠する権威と秩序と規律への信頼に反するからだ。また、中流に説得力をもちそうな、賠償と補償を含めたコストの指摘(原発は費用超過)も、開き直り的な反論にぶつかるのは必至。現実主義を自負する推進派政治集団が、原発国家が償うバラ色<無限大>効用の似非計算に酔い続ける限りは。但し、依拠できる十全な根拠がなくとも集会とデモは続けていく事に変わりがない。行動をやめてしまえば、一体何が正義なのかを問う民主主義がなくなるからだ

福島原発事故の原因は電力会社側の指示か?原子力安全委員会の作業部会が1992年に、東電が作成した文章を丸写しした報告書をまとめ、全電源喪失の対策が不要な理由を文書で作成するよう電力業界側に指示した。「当時対策をとっていれば事故を防げた可能性がある」。そうならば過失犯の疑いがあるね

CNIC 原子力資料情報室 ‏
朝日新聞「原発全電源喪失の対策不要」 安全委、業界の意向反映


烏賀陽(うがや)弘道氏のツイート ‏

枝野長官の3月11日午後7時45分の会見。「住民はただちに特別の行動を起こす必要がない」@15条通報(全電源喪失=住民避難開始)の3時間後。彼ら公選職が15条通報の意味がわからないなら、なぜ原子力安全委会なり保安院が言わなかったのか? ・・・結局、政府が住民に初めて避難指示を出すのは 15条通報から約5時間弱の3月11日21:23。しかも半径 3km圏内だけ。半径10km圏内は屋内退避。法律では避難の規定は「8〜10キロ」。しかし、実際は3キロ。翌日午後3時時点でも双葉町半径3キロ地点の避難は完了せず。

金子勝氏のツイート ‏

原子力安全委員会の作業部会が1992年に、東電が作成した文章を丸写しした報告書をまとめ、全電源喪失の対策が不要な理由を文書で作成するよう電力業界側に指示し、安全指針改定を見送っていた。福島原発事故の原因は電力会社側の指示。腐っています。

三年前と比べて、ロンドンは荒んでいるのにちょっと驚きました。保守党の地方選挙大敗と内閣不支持率の増加のせいで、Cameronのfrustrationが相当に高まっているのか、口汚い暴言が吐いてはマスコミに揶揄されています。ちょうどロンドンに滞在したとき、議会の答弁中で、影の内閣(労働党の大臣)に向かって、muttering idiot sitting opposite me、と罵りました。保守党のCameronは、異性間の夫婦と家庭の伝統的価値を押しつけてきただけに、子供を置いてきた事実は、「らしからぬ話」。きっと彼の家庭の中でなにかが起きている証拠とマスコミは嗅ぎ付けたつもりか


TEPCO is negotiating with the persons exposed to radiation at Fukushima to give the compensation; the irresponsible shotgun budget "ばらまき".


ランキング一億位のmarginalな書き手とて、英語で書くぐらいの命懸けの飛躍はできる。冠詞の混同、時制の曖昧な観念、行き違い的な関係詞の濫用に顕著な再帰的意識の介入。日本人英語の特徴の全てを詩の生産の為に意識的に利用する。統一化も全体化もされない器官なき身体の叫びを形づくれるか

アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 ‏
器官なき身体は、社会体の極限に存在する。(…)器官なき身体とは、脱領土化した社会体であり、欲望の脱コード化した流れが縦横に流れる荒野、この世の終り、黙示録である。――(上)p332

千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏
ドビュッシーの音楽にニジンスキーが振付けをした素晴らしいバレエでは、黄昏の舞台にテニス・ボールが一つ転がってくる、最後にも同じように、もう一つテニス・ボールが転がってくるだろう。――(上)p???


ウディ・アレン
僕は神の忠実なる野党だ。


マルクス
労働が分割されはじめると、各人は、ある特定分野にだけとどまるように強いられ、そこから抜け出すことができなくなる。



溜息のなか67年前をふりかえる。「あんな事態でも、終わらせられなかったのか?」と呆れる。そして今日、大臣達の無責任な発言がポンポン飛び出すたびに、アジアから孤立する恐怖にとらわれる。「まだ戦争をたたかっているつもりか?戦争責任を追求しないから、終わらせることができないのだ」と
だがそうして、そう遠くない将来に、数十年後の人々も、2012年の現在を指差す。この私達を指差すはずだ。「いつまでも、終わらないことを終わらせられない。自分達だけでなく、隣国の人々の生命に関わる大事な事なのに、自分達の力で国の決定に介入することが全くできないとは、いったい!?」

When I think of what lies ahead I can only sigh. Then I think the end of the war 67 years ago. I ask to myself;"facing such a miserable failure, Japan could not surrender it ?". By civil interference Japanese should have ended the war, but it never happened. A sort of apathy regarding the problem of the end of the war. Japanese think America ended it. Consequentially, since the 1945, Japanese has only accepted the fiction that they lost to America, but not Asia. Arrogantly, Japanese has ignored the fact that Japan's military invasion over China had seriously caused unparalleled suffering to the people. The responsibility for a war was not interrogated by themselves. No question of the Emperor's war guilt. All decision was come from America.But it shouldn't repeat it in 2012. By civil interference we have to stop the re-operation of the nuclear power station.The fact is that Japanese ought neither to be so obedient a subject as to be just a friendly people nor should Japanese try to be an insular self-centeredness , that was indifferent to its neighboring countries over that the radioactive decontamination in Japan would extend widely.Let's end the no-ending.





乞食の老婆 追っ手が迫ったのに 月が隠れた。/でも二人は ここから動くまい。/川と木々のささめきとが相まって/おどろしい叫喚(さけび)をかき消すだろう。/ここで起こるんだ 今すぐに。/あたしは もう待ちくたびれた。 −G.ロルカ『血の婚礼』




子安宣邦氏 のツィート

1,私は〈戦争〉や〈原発〉の終え方に重ねて、〈文革〉の終え方を考えていた。だが〈文革〉の終え方を求めていた私が日本に見出したのは、己れにおける〈文革〉を終えないという人であり、その言説であった。それは21世紀の現在にまで引き延ばされた造反派の〈持続的抵抗〉をいう言説である。
2,60年代の〈文革〉造反派の志の持続を、現在の体制への抵抗的反対派(中国・日本の住民闘争的反対派)の異議申し立てをも含み込んで語り出される、この引き延ばされた〈文革〉的言説をどう批判的に読むべきか。10日余り私は難渋し、ツイッターさえできなかった。
3.私は加々美光行の〈文革〉を終えない言説(『逆説としての中国革命』など)をめぐる論をともかく書き終え、研究会での報告を終えた所で、やはり中心問題は〈文革〉を終えないことにあることを覚った。それを覚らせたのは、野田が〈原発〉を終えないことである。
4.大飯原発再稼働がわれわれにとって深刻であるのは、それが国民にとって大災害であり、あり続けている〈原発体制〉的な国家的事態を終えないことを意味するからである。「国民生活を守る」ために再稼働をいうことは、〈原発体制〉を終えないという国民に対する犯罪的政治的決定を隠している
5.私は高行健の『ある男の聖書』と『霊山』によって、彼の中国における生存を不可能にした〈文革〉の実態を、中国市民の生き死にのレベルで知った。また内モンゴルやチベットにとって〈文革〉がまさしく「殺劫」(虐殺と文化の抹殺)としてあったことを楊海英・オーセルさんの著書に教えられた。
6.私が彼らによって知る〈文革〉は、加々美らの終えない〈文革〉の言説の欺瞞的独善性を教えるものである。〈文革〉を終えないということは、野田が〈原発〉を終えないことと同じ、あるいはそれ以上に犯罪的なことである。これは無理なこじつけではない。
7.〈文革〉を終えないということは、チベットから内モンゴルにまで及んだ恐るべき政治的犯罪としての災害、すなわちナチズム、日本軍国主義、そしてスターリン主義に並ぶ20世紀の全体主義的政治犯罪としての毛沢東主義的犯罪〈文革〉という政治災害を隠してしまうからである。

「原発依存社会に戻すのか」(朝日)を読んでも、「原発を終わらせる為には」、「終わらせられないことを終わらせる為には」とした問題提起がない。「国民には一体、いつまでにどれだけの原発が必要なのか」とは問わず、「日本には?」と問うたのでは、朝見の如き請願文だ。推進派のプロパガンダに属す

今日ほど、天声人語からのご説教がかくも有難く響いた日はなかった。「原発を知らなかったこと、知ろうとしなかったことを、大勢の人が誠実に悔いている」と統括している。ところでこの執筆者は、「原発を知らせなかった」大手新聞の協力体制のあり方に、大勢の人が悔いていることもご存知なのかしら?

大手マスコミは、民主主義の表出にもっと敏感であれ。六月十五日に実現させた一万人による首相官邸前抗議を国民に伝えなかったことは、「報道する自由」に属するなどと本気で信じ込んでいるの?単に、<かれら>は、迎合的な沈黙によって、あるいは商売上手によって、報道の自由を濫用しているだけだ

原理的には、消費者による<W-G>の拒否は、資本の再生産過程に対する介入である。例えばこのことは、昨年夏の消費者の行動に部分的に看取できた。本当か?たしかに、予想を超えた大きな節電によって、原発の電力会社に対して、主導権を取り始めたかにみえた。だが、独占企業は国有化の方向に沿って、かれらの不良債権と税金債権の交換を実現させただけだったのではないか?



柄谷行人「トランスクリティーク」(英語版)を読む

「内在性の中の超越性」(フッサール)というテーマほど、マルクスにとって重要な問題意識はない。柄谷的には、哲学と経済学、この両者は、「内在性の中の超越性」において互いに出会う。哲学と経済学は、文学と同様に、或いはそれ以上に、独我論を排しつつ、窓のない個(モナド)の外に出る試みだった

ライプニッツは、窓なきモナドの予定調和を語った。が、柄谷氏は、モナドの窓が無い故の不可能性を説く。モナドの内側(他者を手段とする資本主義)は、モナドの外側(他者を目的とする共産主義)によって、規定される。そのためには「窓」が必要である。即ち、資本主義・国家・民族の牽制し合う構造的配置である

ジジェク的には、マルチチュードの抵抗とて、資本主義の内部の運動だけに、再び資本主義に回路づけられる運命でしかない。そうならば、柄谷氏は、マルチチュードとしての貧困の力よりも、寧ろ国家に能動的な役割を与えるかもしれない。が、国家はそれほど、資本主義の外部として働く得るものだろうか?

「世界史の構造」は、「トランスクリティーク」のあとに出版された。柄谷氏の「世界史」に対する疑問をもつ。柄谷氏は、国家の能動的な役割を強調するあまり、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか?言い換えれば、「革命」を待ち望むように、「国が解決するときがくる」という「待ち」の姿勢は、私達を消極的な態度と生き方にするのではないか。

ところで、米国に亡命したアドルノは大変な苦労話がある。但し彼が語らなかった大切な真理もあるはずとサィードは言う。亡命者というのは、周縁的な存在だけに、日常的な事柄を異化的に捉える能力があるー外国人が撮る写真の新鮮さを考えよ。語りの特権を持つ快楽すら持つ。亡命者は知識人的に存在できるのだとね

顕著な個人主義者であった二十年代前衛芸術家は、亡命といっても、自分で決めた亡命を行った。サィードが注目する亡命とは、寧ろポストコロニアル世界の狭間に生きる民衆の匿名的な亡命だ。mobility, flexibility, precarity、即ち、亡命のマルチチュード的形式である

この点に関して言うと、ネグリ的には、資本主義に対する知識人的抵抗は、mobility, flexibility, precarity 即ち、貧困の力から起きる。だから、浅田彰の「構造と力」は「構造と貧困」としてもよかったのである。「人類」「逃走」の代わりに、「マルチチュード」「亡命」と言うことができた。

浅田氏は消費の次元でのスキゾ的主体性の回復を説くも、柄谷氏ほどには、語りの特権性を、亡命者的知識人を擬制した文学者の語りを実現できなかった。ただ、柄谷氏のは、遥か俯瞰的な高さからの語りだけに、資本の運動の不可能性が見えても、現実の亡命者や少数民族が強いられる困難性が見えるかどうかだ。

繰り返すが、柄谷氏の「世界史」には、国家は能動的な役割を与えすぎているために、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか。ここに私の疑問が集約される。市民社会の構築の意義。原発問題を決定的に終えるために市民的介入が必要とされている現在ゆえに、この思いは一層強いのである。いづれ国が解決してくれるという「待つ」態度は、わたしたちは消極的な生き方に飼い馴らされてしまう


デモといえば、"ただ叫んで快楽を得ようとする似非民主主義"、と、法は説教したがる。現実はもっと悪いのだ。何故なら、私達のデモが高い理想を追うあまり勝ちはあり得ず、常に敗北感に向き合うから。デモは常に法の限界を超える道徳の様相を呈する。無限という数学は私達のデモを模倣しているだけだ


ホホー、デモといえば、"ただ叫んで快楽を得ようとする似非民主主義"、と、法はいつでも説教したがるものだ。そうだ、そうかもしれないニャ。さらに、現実はもっと悪いのだ。何故なら、私達のデモが高い理想を追うあまり「勝ち」はあり得ず、常に敗北感に向き合うから。デモは、常に法の限界を超える道徳の様相を呈する。無限という数学も、デモの、限界を超える快楽を模倣しているだけだ。リベラルであるかリベラルでないか存じないが、ホー、フランス現代思想はレヴィ=ストロース以来、現代数学に依拠してきた所以ニャリ。おわかりか、あなた、法の言葉よ



千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏@plateaux_bot
しかし自分自身にもどることは本当に必要なのだろうか。(…)強度に満たされ、もはや自我と他者を区別しない器官なき身体を作ることが問題なのだ。より高尚な一般性だとか、より大きな延長によってではなく、もはや人格的とはいえない特異性、延長的とはいえない強度にしたがうのだ。―(上)p321

首相官邸前に自発的に集まる人々の中には、自国中心主義を越え世界的連帯から行動したい人々が大勢いる。市民社会の萌芽?朝日新聞による分析を期待したが、今朝は中国・北朝鮮を排除するスケープゴートで社運かけて大ハッスル。記事の質によっては、デモに対する国民の関心を蹴散らす突撃隊と同じ役割







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