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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2012年12月

<<   作成日時 : 2012/12/02 19:08   >>

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「憲法の憲法」をつくる会議構想。脱原発集会デモで十万人の承認で先手を打つとか?例えば「憲法の憲法」案ー>現行憲法前文に主権を超えた人の共同体の意義を明文化。その他、脱原発と核武装禁止、国家と宗教の結婚禁止、国民だけでなく地球上の全ての人々が日本国に対して教育の権利を請求できること

「国民だけでなく地球上の全ての人々が日本国に対して教育の権利を請求できる」。中国の大多数の貧しい人々に教育を助ける国となれば我々を生かしてくれるはず。核に頼らなくても必ずや存続していけよう。脱原発デモで十万人の承認を作れ。海外メディアも扱う、この歴史的事件で政府に対する圧力を作れ

大手新聞は投票前でこんな調子ですから、来週早々憲法改正が決まったとばかり大見出しを出すかもしれません。自民党は今までとは本気度が違うと思います。有無を言わさず非常に早い展開で改憲手続きを進めるつもりではないでしょうか。「憲法の憲法」をつくる会議について皆様の知恵をお借りしたいです

明白に、ドゥルーズを読む吉本の語りほど無骨な思想災害はないが、比べると、フーコ的構想で誘惑する中沢の語りが齎す災害の方は、広い視野と精緻な文体に保証されている故に持続してしまう。が、もう卒チベットのモーツアルトであろう。フーコ的博物学は<日本人の中国研究>を標的に炸裂すべきである

橋下「先生、靴を磨かせてください」。
石原「よし。日本はファシズムの脅威を感じない唯一の近代国家と思わんかね。蛆虫どもは、脳髄の隅々までファシズムに浸っているからファシズムをファシズムとして感じない。こら!唾を吐くな、汚いぞ」。
橋下「先生の真っ黒い靴を益々黒くさせて頂いております」

橋下「先生、靴を磨かせてください」。
石原「よし。日本はファシズムの脅威を感じない唯一の近代国家と思わんかね。蛆虫どもは、脳髄の隅々までファシズムに浸っているからファシズムをファシズムとして感じない。こら!唾を吐くな、汚いぞ!」。
橋下「先生の腹黒い靴を益々黒くさせて頂いております」

片山さつき議員は、ほんと~に本当に憲法改正をしたいなら、「国会議事堂及び職場、または石原慎太郎において、諸悪の根源である公私混同かつ男尊女卑を永久に禁じる」と規定した改正だけを行えばよろしいかとおもいます

「自民党」「維新」らの民主主義の敵に対して、反ー憲法改正デモは、独自の改正案を出してたたかう抵抗も考えるとき。新憲法ー>憲法前文と統治機構は現行憲法のまま。第1条天皇性廃止、第2条核武装禁止、第3条国家神道禁止、第4条国民だけでなく全ての人々が日本国に対し教育の権利を要求できる

1、「憲法改正」を公約に掲げる政党が政権を取ったら、或いは連立政権に加わったら、日常でなにが違ってくるのか?ファシズムを少年時代に目撃した方が云うには、「おまえは非国民だ」と友達から指差されることが一番怖かったという。もし指されたら、「もうおしまいだ。生きていくことができない」

2、林芙美子は、米国人観光客と共に<失われた世代>として「祖国離脱者」の自由を夢見心地で謳歌した。アレンの映画みたいに。30年代に入ると、岸田国士のような「祖国喪失者」が現れる。「祖国離脱者」は、ブーメランの様に帰国することを前提としていたが、「祖国喪失者」は帰国を考えなかった。

3、しかし、ヨーロッパ人が日本の中国侵略を知る30年代後半は、パリにいた洋行の人々はあたかも罪名の如く「日本人」であることを自覚しなければならなくなったという。こうして、「日本人」であるということは、他者の眼差しで決まってきた。選挙後の護憲運動でもずっと遅れた動きかもしれず・・・

横光利一「旅愁」に、カフェで白人と黒人の男女が親密に会話する様子をみた日本人が、埋められない隙間に愕然とするという描写があるが、1930年代日本人なら常識としてあった白人コンプレックスという。論理を超えた肉体的視覚的コンプレックスでは友情を理解できないことを石原は理解できていない

Malrène Diétrich

失われた世代である故郷離脱者達、仮初めのユートピアを求めに1920年代のパリに。狂気の時代Années Follesがパリを占領しました。が、政治の暗雲が立ちこめる30年代には、アメリカニズム、ジャズ、チャールストン、ベーカーにとってかわったのが、このマレーネ・ディトリッヒ。普遍主義と民族主義の間に引き裂かれ始めた危機のヨーロッパ精神を購ったのでしょうか・・・

失われた世代の故郷離脱者達、夢を求めて20年代のパリに。狂気の時代Années Follesがパリを占領した。30年代にアメリカニズム、ジャズ、チャールストン、ベーカーにとってかわるのがディトリッヒ。祖国喪失者達が彷徨う、普遍主義と民族主義の間に引き裂かれたヨーロッパ精神を購った

二十年代故郷離脱者の林芙美子、三十年代前半故郷喪失者の岸田国士と同時代的目撃者横光利一。最後の仏給費生が国家から抜け出そうと格闘していた。トゥールでの衝撃は、国が個人にとって絶対的宿命ではなく相対的虚構と知ったことにあった。帰国後中村光夫は、日本人は何か?と問い始めることになった

ツイッターの諸君、そんなにくよくよ心配するな!日本というのは、ファシズムを感じなくてすむ唯一の国なんだぜ。なぜって、人々の思考の隅々までファシズムに浸っているものだから、ファシズムを感じられないんだ

原発問題の<三すくみ構造>とは、「政治の無理解・行政の不作為・メディア不理解」>「科学の限界・技術の失敗>住民・国民の不信・不満」>「政治の無理解」と続く悪循環のこと。政治の無理解に、政府がこの<三すくみ構造>を把握できないことも含む。市民の介入する語りを禁止する憲法改正が一例だ


従来我々は平和と人権の憲法を変えないと訴えて来た。が、選挙後自民党政権によって憲法を改正されたら、今度その間違った憲法を改正せよと批判する立場にたつ。その準備があるか?早ければ来年の来年から教室で高校生は軍国主義の自民党憲法を学び始めるだろう。我々は彼らにどう説明し責任をとるのか

自民党選挙カーは、「日本を取り戻せ」の横断幕から「強い政治家が必要です」と繰り返すだけだ。やはりそんな子供騙しの情熱ではそれ程長く持たんのでは?ぐるぐる回転寿司の皿みたいに首相を取り替えては事実上政府を棄てるだけよ(回転寿司とはね、ふふ、吾ながら生活感が滲み出るバレバレの一文)


選挙期間中候補者のツイッター利用を禁止するのは、公平な選挙のあり方を確保するためのもの。これ以上のものでも以下のものでもない。自分の言論活動が脅かされているというが、というーか、橋本氏はこれまで散々ツィッターを利用し人気を稼いで来たのだからもういいでしょう。公平にやりなさいよ!


水野義之氏との対話(twitter)

現在科学者の立場で、避難民の人権と留まる人々の自己決定権の言及、三すくみ構造というコミュニケーション・ギャップの問題の分析と提言を含んだ包括的な全体像を提示なさった方は水野さんの他にいませんでした。全体像があってこそ、例えばベントフィルター不在の事実の意味が我々に分るのです。さて水野氏が語った<三すくみ構造>とは、即ち、政治の無理解・行政の不作為・メディア不理解>科学の限界・技術の失敗>住民・国民の不信・不満>政治の無理解と続く悪循環のことをいいます。この政治の無理解には、政府が<理解の構造>を把握していないという問題を含むのです。せっかく信頼に値する情報公開だとしても、この<理解の構造>に合致しない限りノイズでしかないことを、政府が全然理解していない点です。市民が介入すべき問題は、ここです。コミュニケーションギャップの問題です。原点に帰って、政府と市民の間でこの<理解の構造>について話し合う所から始めるしかありません。小さな人間の声が大きな人間を糾すという場合、それは<理解の構造>を糾すということです。
原点に帰って、政府と市民の間でこの<理解の構造>について話し合うこと。だからといって、それは「安全宣言」やパブコメであったり、官邸内「シングルイッシュー」の交渉のことではありません。そういうものはノイズでした。繰り返しますが、小さな人間の声が大きな人間を糾すという場合、<理解の構造>を糾すという意味においてなのです

最高裁から、一票の格差に事実上違憲判決が出されている。是は何を意味するか?つまり違憲状態で不公平に「選ばれた」人々が憲法改正のイニシアティブを取るということだ。一人一票の選挙で選ばれた人々によって公明正大に憲法改正の手続きを行うつもりがない。憲法を守ろうとしない人々が憲法をつくる

MIZUNO Yoshiyuki水野義之さん ‏@y_mizuno

「反省」は『「熟考」の意味合いが中心』とのご指摘は、世界中の原発安全措置改善が、日本だけ自縄自縛のため出来なかったとの文脈で延べたこと。具体的にはベントフィルターがチェルノブイリ後、世界で付いたが日本だけ(既往の絶対安全と矛盾するため)出来なかった事実を差します。
分かりにくくて失礼。私が「反省」という言葉を述べた時に頭にあったのは、そのベントフィルター不在の事実でしたが、対談の中でそこまで詳しくは説明できなかった、という意味です。なお「自縄自縛状態」は、番組でも言いましたが、民間事故調の北澤氏の講演で出て来た表現です。
「三すくみ構造」で『「政治の無理解」が何のこと』か。政治の役割は、国民に語りかけること、意思決定に納得と協力が伴うことと思います。熟議なる言葉もありますが、理解していないので対話も出来ない。理解が必要なことさえ理解されてない。その理解の構造さえ理解されてない。
「政治はこの三すくみ構造についても理解が無いように思いましたが」というご指摘は、私の想定を敷衍するものでした。確かに、熟議の必要性においても「政治の無理解」があるのかもしれません。番組では「結論だけ言うのではなく」と言いました。それらは繋がっていると思います。
「原子力の問題と放射能の問題を切り離して考える簡単な具体例」。放射線は本質的に高エネルギー素粒子なので危険。でも危険も色々あるわけで、それらを分離して、分析的・定量的に語らないと、何が、なぜ、どれくらい危険か分からない。分からないのに議論できないという意味です。
もっと具体的に言いますと、これは意見が分かれていますが、例えば、文科省の副読本の評価があります。これに事故のことが書いてないのが問題という指摘は正しいですね。ただその問題は、書いてあるデータや記述内容とは別の問題。それらを分けて考えてはどうか、という意味です。


ご丁寧にご説明に感謝申し上げます。水野さんが強調なさる「政治の役割」、市民が介入しなければならないところは、まさに、ここだったと思うのです。なぜ理解できないのか、対話がないのか、理解の必要性すら理解されないのかと問いかけるべきでした。一歩一歩積み上げて、ですね
「賛成ですか反対ですか、反対ならいつまでに廃止したいですか」という質問ばかり繰り返され、接頭語の「脱」が経済のお話の横で踊るだけで、肝心の「政治の役割」の認識が隠蔽されてしまったことを振り返っています。今後はどれだけこの認識を共有化ができるかにかかっていますね
「N/dt = -μNのμを崩壊定数と呼ぶ。このμは、半減期Tと、次の関係にあるμ = 0.693/T」という理解から、危険性の評価が可能となるのですね、議論の前提として。私を含め市民の側は努力すると思います。テレビ人が念じる「費用=効果」より信頼できますから
現在科学者の立場で、避難民の人権と留まる人々の自己決定権の言及、三すくみ構造等問題の所在の分析と提言を含んだ包括的な全体像を提示なさった方は水野さんの他にいませんでした。全体像があってこそベントフィルター不在の事実の意味が分るのです。今後とも宜しくお願いします

水野義之さん

例えば…ですね。評価も定量的に、冷静にと思います。@owlcato 「dN/dt = -μNのμを崩壊定数と呼ぶ。このμは、半減期Tと、次の関係にあるμ = 0.693/T」という理解から、危険性の評価が可能となるのですね、議論の前提として。私を含め市民の側は努力すると思います


言及恐縮。建設的な分析と提言が必要…。@owlcato 科学者の立場で、避難民の人権と留まる人々の自己決定権の言及、三すくみ構造等問題の所在の分析と提言を含んだ包括的な全体像を提示なさった方は水野さんの他にいませんでした。全体像があってこそベントフィルター不在の事実の意味が分る…




コスモポリタン的啓蒙の理性の笑みー>ロマン主義、正義の怒り、快楽としてのナショナリズムの毒という順番でしょう、フランス近代は?代表制の危機が反復とすれば、ナポレオン3世なんかは、「新しさの偶像」とヴァレリーが呼んだものなのかなーと ー>「形式は本質的に反復と結びついている。だから新しさの偶像は当然の結果として、形式の関心とは相容れないものなのだ。」

二十世紀の芸術という映画はオペラ四百年の歴史の一部に過ぎない。オペラは自らを映画を通して反復しただけ。たんに映画は「新しさの偶像」とヴァレリーが呼んだものだった。代表制の危機という反復のなかでナポレオン3世が「新しさの偶像」として現れたように、二十世紀は絶えず形式の危機に直面した


20世紀の芸術とされた映画も、所詮は、オペラ400年の歴史の一部に過ぎない。オペラは自らを、映画を通して、反復しているだけだった。それなのに、映画が新しいと受け止められたのは、「新しさの偶像」とヴァレリーが呼んだものだから。代表制の危機という反復のなかでナポレオン3世が「新しさの偶像」として現れたように


反戦の主張を伴なわない<反原発>党があれば、小選挙区制廃止を訴えない<第三極>党も、軍国主義を拒まない<平和主義>党も出てくる始末だ。ネオリベ的現状肯定型の<維新>もある。これら「新しさの偶像」の正体は、<原発推進><(利権的)二大政党制><軍国主義><全近代主義>かもしれぬ。こうして、形式の危機たる代表制の危機という二十世紀的腐臭と窒息が続く。
2012年において、いまだ、二十世紀は終わっていないという思いである。とはいえ、傍観者的に、ただ自民党の復活を眺めている訳にもいかないだろう。やはりここは、最悪を避けよ、とする賢人の言葉にしたがうべきか否かだ。最悪のなかの最善へと


思想良心の自由といえ言論表現の自由といえ、「憲法を作る力」のどの部分に視点を置くかの権利であって、介入し喋る民主主義の本質的な理解に大きな違いはない。憲法はこの市民の声によって明確になり両者は互いに強化し合う。改憲によって思想を黙らしてはならないと憲法はファシスト達に抗議している


「義務を果たさない人間には権利は与えられない」、と、片山さつき氏はいう。つまり、この自民党の政治家は、人権が人権である故に尊敬に値する人権の意義を全く理解できないばかりではなく、(人権の意義を)払う者だけに報酬が与えられるという費用効果の問題に矮小化してしまっているのは問題だろう。
「(眼の前の敵を)殺せ」と命じた国家の義務に答えた兵隊がそのことによっていくら請求できるかはどうでもいいことだ。むしろわれわれは「殺すなかれ」とするわれわれ自身の根拠を絶えず問おうではないか。人権憲法が指さすのは、絶対公理としての天賦性という関係を規定する「崇高な目的」である。


1、大川XX的に吾芦部の愛弟子也と託宣するエリートの愚か者に対抗して、大川興行的に、法学部落ちこぼれであった、我が自説の憲法論をぶちまけてやろうじゃありませんか!広告のチラシは散漫と商品を羅列してはおりませんね。同様に、人権というのは、憲法に散漫と羅列されているわけではありません。
2、芦部はアメリカの違憲立法審査権を研究した学者です。人権を、統治権である司法権からとらえなおそうとしたのです。それは、憲法が、とくに「思想良心の自由」に大きなポイントが与えているということを証明したかったからに他ならないのです。ところで原発問題等生命に関わる重大な決定に関して、専門家知識集団に依拠しない市民に「介入」する特権を、憲法は与えています。例えば国民投票がその一例です。デモの権利も保障されています。考えてみるとすごい特権ですよね。これほどの特権は、「憲法を作る力」からしか正当化され得ません。かれはこの「憲法を作る力」を主権概念と関わる憲法制定権力とみたのです。
3、そして「思想良心の自由」こそは、「憲法を作る力」の声にあたると私は考えます。そしてこの喋る民主主義は、改憲によって、決して黙らしてはならないと、憲法はファシスト達に抗議しているのではないでしょうか。ファシスト達が攻撃するのは、この「思想良心の自由」と共に「言論・表現の自由」なのです

日本のコンテクストにおける暴力の問題を考えるときでも、オタク知識人的に教養を発揮して、ドゥルーズの庭はドゥルーズの庭だから、人権の庭に混ぜてはダメ、今度はこれは人権の庭だから人権の庭、ドゥルーズの庭に混ぜてはダメ、というふうに、いったいだれが決める事柄なのかな?潔癖症の君が決めたのかい?


ラディカリズムからすると、憲法典は右翼の国立図書館に属する。思想にホンモノ性を求めて内部の語り絡み取られてしまう善良な青年達は、ドゥルーズ思想の展開と人権擁護は両立しないはずと考え込んでしまう。しかしニセモノしかないのであるードゥルーズであれ憲法であれ。抵抗に役立てばそれで宜しい

国際人権ムラと米国は、人権とヒューマニズムの名のもとに爆撃を正当化している。芦部も<敵>の<敵>だから擁護しているだけで彼を称賛しているわけではない。いくら改憲の限界を見定めるために、憲法を憲法の内部から憲法に即してみても、現実には政府の解釈改憲に対してはなんの抵抗にならなかった




憤る相当な教養人でも、竹内好が拵えた魯迅的純粋毛沢東像に再び溺れていることに気がつかないままである。
「魯迅は文学者であった。何よりも文学者であった。彼は啓蒙者であり、学者であり、政治家であるが、彼は文学者である事によって、つまりそれを棄てることによって、現れとしてそれらであった」。
子安氏は言う。現実の政治世界への反語的な「無用者」としての「文学者」とは、反転してその政治世界に根底的に、絶対的にかかわるような「文学者」を見出したものとなるのである。したがってその「文学」とは、「永久革命」であり、真の「政治」であり、真の「文学」でもあるのだ。かくてこの「文学」とは絶対的な政治言語となるのである。(この部分だけでも訳せるかな)

子供というのは、<理由もなく><愉快>になるものを見つける天才。が、コントロールできない危険性しか認めない親が自由にさせない。「日本人」のくせに、<理由もなく><愉快>なのは、ケシカラン、軍国主義の敵とばかり。永井荷風みたいに海外で<理由もなく>文学を<愉快に>学ぶ人は本当に稀だ

海外で友達をつくることは転向しないことよりも難しい・笑。二年間外交の中心にいた社交好きの大使ですら、二百人の友をつくろうと赴任してきたのに全然無理だったと正直に述べた。が仏蘭西はちと違う。文化を発すれば、光源に近づく蛍の如く集まって来る人々という印象あり。違和感に左右されずにだ

今回は、投票所へ行こうとおもう。政治家のために投票所へ出かけるのではなく、デモのときと同じように、わたしのネット仲間達が呼びかけているから、投票所へ行こうとおもう。行く以上、白紙票の如き自己満足はしたくない。間違いもあるだろうが、最低限、デモに出たことがない政治屋達の政党に入れるつもりはないな

先生から覗った話で、天安門事件の一年前に北京の大学におられたとき当時中国の大学生が儒学の知識が殆ど持っていない事実に驚いたという話を印象深く聞きました。ご存知の情勢のもとで先生の「江戸思想史講義」の中国語翻訳のプロジェクトの進行状況が心配されます

碑文と言うのですか?墓の文章を読むのが好きでした、アイリッシュは。ちなみに、ジョイスは、「Done!」(われ為せり!)と愛国的英雄の最後の言葉を記した碑文を使って、ブルームが屁をするときの言葉を拵えています。吾為せり!と。国を取り戻させる代わりに、安部ちゃんに屁を吹きかけましょう

ヨーロッパ中心主義に還元されず、大アジア主義的な国家の共同体にも覆われないような、<市民社会>の成立は可能だろうか?学校が教える世界史ほどには、ブルジョア的市民社会の物質的前提たる産業革命の<体験>を、普遍化することは不可能だ。実際に、1970年代以降、産業革命と民族資本がないアイルランドは外国資本に依拠してきたが、これは、今日の中国における官僚的資本主義の形を考える上でひとつの視点をなすことは明らかだ

明治維新という歴史は彼において反復される。即ち近代知識人の宿命として、西欧と東洋が代補的関係に立つ。待て!そのヨーロッパはアイルランドを含むことはないし、又そのアジアは豪州を含まない。さて近代の超克をいうとき、わざわざアイルランドと豪州を除いた近代の超克とことわる必要があるのか?


反原発運動の近傍にある、世界中で進行中の民主化運動の波の広がりは、<反日>デモですら中国政府批判に転嫁させ得るほどだ。但し運動というのは、民主主義的<参加>かファシズム的<隷従>か、どちらの方向にも行く可能性がある。後者への堕落を避けるためには、議会主義が保険として必要悪であろう

フランス革命という反復の帰還不可能な反復。七月革命、ニ月革命、パリコミューンから21世紀に至るまで、民主主義的<参加>とファシズム的<隷従>、運動はどちらの方向も行った。官僚支配の時代にもはや19世紀的な議会は無い。ただファシズムを避ける手段として議会主義が保険としてあるだけだ

3、「一方ではon the one hand」の歴史は、人民的<毛沢東>を三民主主義的<孫文>の完成とする直線を引く。「もう一方ではon the other」の歴史は、八十年代天安門広場の抗議から、<孫文>にも<毛沢東>にも還元され得ない議会主義、<宋教仁>の運動に至る直線を引く

4、現在中国を語るとき、国家資本主義よりも官僚制資本主義という言い方が誤解がない。官僚制資本主義とは、<アジア的原始共同体>と<専制政治>からなる体制をいう。「一方ではon the one hand」の歴史は、この両者が<孫文>と<毛沢東>によって克服されたものであると語ってきた

5、もう「一方の歴史」が語る通りならば、天安門事件広場での抗議は無意味な暴動と整理されてしまうだけだ。天安門広場の人々が抗議したような<アジア的原始共同体>と<専制政治>は既に存在しないものだからである。しかし八十年代において、<アジア的原始共同体>と<専制政治>は存在していた。

6、「アジア的原始共同体と専制政治は解決済み」。「もう一方ではon the other」の歴史が突き破らなければならない、捏造された神話は、ここにある。官僚的資本主義の側の隠蔽は、安全神話<原発事故はあり得ない>に対する抗議を無視し続けてきた日本における隠蔽と同じ構造のものである

7、「一方では」の神話的な語りは、対象を対象の内部から対象に即してみる語りにある。子安宣邦は「日本人は中国をどう中国を語ってきたか」で、天安門事件から事件性を簒奪した日本における中国学が、中国を中国の内部から中国に即してみる言説の内部にあったと看破した。他者を外部化する語りである

8、「もう一方では」の語りは、事件性の語り、小さな人間の声が大きな人間を糾す<喋る>民主主義の語りである。官僚的資本主義の問題といえ原発問題といえ、構造が齎したの問題の解決を、再びそれを推進した政治的経済的文化権力的一体的構造に委ねることは不可能だし又倫理的にも許されないだろう。


9官僚的資本主義の問題を解決する上で、エスタブリッシュメントの<アジア的原始共同体>に対する<ブルジョア的市民革命>の意義が重要と石井知章氏が指摘する。それは「小さな人間の声」と子安氏がいう介入する抵抗の主体と重なる。ヨーロッパ中心主義に依存しない方法としての市民概念の拡張である

10子安宣邦による<われわれはどう中国を論じたか>という問いとは、同時に、われわれはどう他者を語ってきたかという問題に他ならない。「内なる天皇」に対応する「内なる中国」という内部の語りに対する批判が込められているだけでなく、2010年ノーベル平和賞受賞者劉暁波の支援の問題があった


農場を買ったイザベラ・ロッセーリーニやブッシュみたいに、アメリカにおいては、金持ちになればなるほど広いスペースを求める、ところが英国は逆に、ポーランド系ユダヤ人でギャング団と繋がっていた両親を持ったピンタのように、貴族と結婚するほど金持ちになればロンドン中心部にある狭い豪邸に住む

マルグリット・デュラス
「男は理論を振りまわすばかであるのをやめるべきである」


These men of desire - or dio they not yet exist? - are like Zarathustra. They know incredible sufferings, vertigos , and sickness. They have their spectres. They must reinvent each gesture.but such a man produces himself as a free man, irresponsibile, solitary, and joyous, finally able to say and do something simple in his own name, without asking permission;a desire lacking nothing, a flux that overcomes barries and codes, a name that no longer designate any ego whatever.
(Deleuze & Guattari)
彼らはたえず新たに身振りを生みださなければならない。まさしく、このような人間は、自由で無責任な、孤独で陽気な人間として生み出され、やっと自分自身の名において単純なことを語り、そして行う。

Une région continue d'intensité, vibrant sur elle-même , et se développe en évitant toute orientation sur une point culminant ou ver une fin extérieure...nous appelons <plateau> toute multiplicité connectable avec d'autre par tiges souterraines superficiells, de manière à former et étendre un rhizome. (Deleuze & Guattari)

あるいは外在的目標に向かうあらゆる方向づけを回避しつつ展開される地帯である。(…)一つのリゾームを作り出し拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ


おお、靖国問題と国体問題でしたか。ところで、ゴダールも映画の空間化ということを問題提起していたように、彼はずっと記憶の空間に非常に関心があったと思うのです。記憶の空間をテーマにした「アルファビル」がなければ、あのタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」は制作されなかったでしょう。「映画史」についても、映画の空間化、記憶の空間化を現実化したかったに違いないのです。私の考えですが、具体的には、ポンピドウーセンターでの展示のことですね。ところで、映画の話とは別に、記憶の空間といえば、このことを意識できるようになったのは、やはりアイルランドへ行ってからのことです。日常普通に自分が立っているその場所に、言い伝えがあり歴史があったのです。そこから一歩踏み出すと、また別の言い伝えと別の歴史のなかに入っていくーこれがヨーロッパだと思いました。神話的リアリズムというのでしょうか、記憶の場に生きている自分を実感いたしました。オーストラリアのアボリジニとアイリッシュとの共通点として、彼らは地図を読まないことがあります。地図嫌いですね。地図のかわりに、歌のなかに空間を差異化していくところがあります。たしかにアイリッシュはその通りで、地図で確かめるぐらいだったら、人に聞くのです。「どこ、どこですか?」と。仮説として、この態度は、植民地化の歴史が地図化の歴史であったことと関係があります。具体的には、測量は英国による税金徴収のためでしたが、同時に、ケルト語の地名はアングロサクソン化しました。言語が奪われていくプロセスです。そういう地図に対する抵抗が文化の基底にあるのではないかと。時々観察される、かれらの記憶しないという態度も、例外なく日本人などは困惑してしまうのですが、やはり植民地化という歴史的な問題と切り離して理解することはできないと思います。ただしこういう話はアイリッシュに聞くの難しいのです。語りたくない歴史ですから。しかし演劇では、この問題を扱います。多くのことを教えてくれます。失われた言語は決して取り返せないことは、失われた記憶の場合と同じで、これは、現代アイルランド演劇のテーマですね。と、ベケット。ベケットの小説みたいに、名前のない場所は、彼らにとっての記憶の空間なのです。ほんとうに前置きが長くなりました(笑)。さて、これから本題に入りますと、わたしは幼少時に4年間オーストラリアにいましたから、アボリジニのことは・・・と、書きかけたところで、長くなりました。ご迷惑をかけないうちに、今夜はこれぐらいにと思います。中村さん、おやすみなさい。



この世界には、全てを行うことが許されているような文化は一つとしてない。そして、はるか昔から、人は、人間とは、自由と共に始まるのではなく、境界と、超えるべからざるものの線とともに始まるのだということを知っている。−狂気、作品の不在− ミシェル・フーコー

あなたのベストの映画は何ですかときかれた人は、皆が観れない、自分が観れた映画を褒めるという心理があります。この虚栄心が「ミカドの肖像」を読むのですが、天皇よりも中身がありません。俺だけが、皆が最後まで読めん800頁の本を読んでいると優越感にひたらせるのです・笑

柴山哲也 ‏
インターネットは米国シンクタンクRANDが創案作り、62年キューバ危機後の情報共有目的でスパコン4台をつないだ。以降、軍事から大学研究用に続いて一般に開放された。既成メディアを凌ぐ情報の自由と民主主義深化のツールになりオバマ氏の勝因もネットが作った。米では選挙にネットはつきもの。


「牛若丸を、やがて、おまえたちに天罰をもたらすジンギスカンにしようと思う。」(オー、コワっ)

A thing is not necessarily true because badly uttered, nor false because spoken magnificently. ~ Saint Augustine


非国民 腰抜けスケベ  と指さすな  国防軍こそ 死神とキス 

非国民 腰抜けスケベ と指さすな 軍の若人も 死神とキス 

忘れぬが 学ばなければ まえのまま活断層 隠蔽のまま

まえのママ とらわれのママ 選んデモ 学ばナケレバ わたしもアナたも

まえのまま とらわれのまま 選らんでも 学ばなければ わたしもあなたも


活断層についての規制委員会と電力会社の間でもめていますが、いったいこれは仲間割れなのでしょうか?原発推進派におけるこの不一致を注目していきましょう。ここから、反原発運動の挽回の大事な一歩が始まるかもしれないのです。マスコミの諸君はしっかり報じなさい!

子安宣邦氏のツイートより

7時のニュースを見ていたら、石波がはっきりといっていた。「海外に向けては軍隊だといい、国民に向けては自衛隊であって軍隊ではないという。こういうマヤカシはもう止めねばならない」と。解釈改憲というマヤカシをやってきたのは自民党である。石波はそのマヤカシはもうしないというのだ。
軍隊を自衛隊だというようなマヤカシをもうしないということは、日本を日米軍事同盟の一方をになう正真正銘の軍事国家としてその正体を明らかにしていくことだ。われわれがこの選挙と選挙後に何と戦わねばならないかを石波は教えてくれているのだ。ではだれが、どのようにしてこれと戦うのか。
9条の会か。しかし解釈改憲的な自衛隊的体制がマヤカシなら、その体制を平和憲法的体制として護持してきた9条の会もマヤカシではないのか。これをマヤカシとして改憲をいうものに、改憲反対をいうことは、マヤカシを護持することではないか。私はあえていっている。9条の会では戦えないからだ。
敵の方が先に行っている。そしてナショナリズムを強め合う東アジアの国際環境は敵に有利である。とすればわれわれはそこで戦うべきではないか。日本をホンモノの軍事国家にすることは、東アジアに〈アメリカの平和〉を確立することであっても、〈アジアの平和〉を確立することではないのではないか。
〈アジアの平和〉をわれわれは中国・韓国とともにどのように確立するのか。日本の将来像とともにそのことを問いながら、われわれは戦うべきではないか。9条の会のマヤカシ性を見透かしたように、敵はすでにずうっと先を行っていることを知るべきだろう。


武満徹 (Toru Takemitsu)
アボリジニーズの歌や踊りは、彼らの生の挙動と見分けがたいほどに一致した、未分化なものです。ディジャリドゥーにしても、一種の木管楽器には違いありませんが、それはたまたま、マングローブやユーカリの木の髄を白蟻が喰い尽して空洞にした筒で、それを利用して音を出しているに過ぎません。

Engels_
(アイルランドの歴史が示すのは)ある民族が他の民族を征服したとき、それが征服民族にとってどんなに厄介なことであるかということである(1869/10/24 マルクスへの書簡)

近代知識人の宿命として、明治維新という歴史は彼において反復される。即ち西欧と東洋が代補的関係に立つ。待て!そのヨーロッパはアイルランドを含むことはないし、またそのアジアはオーストラリアを含むことがない。そうならば、近代の超克とはなにか?何と何が乗り越えられていくと主張したいのか?

フランスの誘惑

渡辺一民氏曰く、国を背負う国費留学生の鴎外と漱石と比べてみると、永井の手放しの賛美をみよ

自分は寝台の上から仰向きに天井を眺めて、自分は何故一生巴里にいられないのであらう。何故仏蘭西に生まれなかったのであらうと、自分の運命を憤るよりは果敢なく思ふのであった。自分には巴里で死んだハイネやショーパンなどの身の上が不幸であったとはどうしても思へない。兎に角あの人達は駐まらうと思った芸術の都に生涯滞在し得た芸術家ではないか。自分はバイロンの如く祖国の山河を罵って一度も勇ましく異郷に旅立はしたものの、生活という単純な問題、金銭とい云う俗な煩ひの為に、迷った犬のようにすごすご、おめおめ、旧の古巣に帰って行かねばならぬ。ああ何と云う意気地のない身の上であろう。・・・再び床の上に倒れ・・・然し自分はどうしても日本に帰りたくない。巴里に留まりたいと同じことを考えるのであった。

名誉とか財産というものは、自分の力ではどうにもならないものなのだから無責任で構わない。というか責任をとりようがない。現在進行中の選ぶ民主主義。名誉と財産の如く自分では背負いきれない国家に負い目を感じなければならない。我々は益々自分を知らない破片と化すー喋る民主主義を伴なわなければ





「頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫った根付けの様な顔をして、魂をぬかれた様にぽかんとして、自分を知らない、こせこせした、命の安い、見栄坊な、嘘言つきな、小さく固まって納まり返った、猿の様な、狐の様な、ももんぐわあの顔な、小杜父魚の様な、「麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗の破片(かけら)の様な日本人。」。(高村光太郎) <渡辺一民氏の講座「フランスの誘惑」(第一回)12月4日、配布資料から>


ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し 
せめて新しき背広をきて 
きままなる旅にいでてみん

<実利主義の英米と軍国主義の独に対して、芸術哲学の仏、といのはステレオタイプ。が、萩原の「ふらんす」はこのステレオタイプ以上の意味があった。それは、資本主義的軍国主義形成期の日本が強いる奴隷的な被拘束性からの精神的離脱を意味した>



吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。若し之なくして、世に処し、事を為さむとするは、恰も浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするものの如く、其の転覆を免るる事態あたはざること言を待たざるなり、然らば吾人は如何にして処世の立脚地を獲得すべきや。蓋し絶対無限によるの外ある能はざるべし。・・・吾人は只だ此の如き無限者に接せざれば、此世に於ける完全なる立脚地ある能はざることを云ふのみ。而して此の如き立脚地を得た、発達する条路、これを名づけて精神主義といふ。」 清沢満之「精神主義」、子安宣邦「歎異抄の近代」配布レジュメから。 
「精神主義」は明治34年の日本社会、即ち日清戦争、やがて日露戦争が始まろうとする明治戦間期の社会に反響を呼び起こした。日露戦争と太平洋戦争を比較した子安氏によると、「二つ目の戦前の軍国主義とは<全体主義>であることだ。そこでは己の精神に自由の<立脚地>を求めることも許されない」。ちなみに、「吾人は只だ此の如き無限者に接せざれば、此世に於ける完全なる立脚地ある能はざる」の中の「無限者」とは、阿弥陀のことをいう。
清沢満之の最晩年、明治36年に綴った言葉から。「血をはいた 病の床にほととぎす」。「如来の奴隷となれ、其の他のものの奴隷となること勿れ」。「信念を発得せば、苦悩を脱却し得べき也。脱却し得べしと云ふも、得べからざると云うも、言語に過ぎず。実際は、汝自身ら之を実験すざるべからず」。
子安氏の解説よると、「如来の奴隷となれ、其の他のものの奴隷となること勿れ」という言葉は存在論的な命法といったものではない。そこには、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとの仰せをかふむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり」(「歎異抄」)と同様の、他のすべてを捨てて、ただそれだけへの<信>という不条理ともいいうる絶対他力の決断があるという。
ここで、清沢の真宗大学経営の挫折について一言すると、かれは教員資格制度の導入に反対した。国家の管理である教員資格制度に従うことを拒んだのではないか。子安氏によると、清沢には国家を超えた普遍主義の理想があったという。その後清沢はアジールであった宗門から除名処分(僧籍剥奪か?)を受けてしまったのである。
さらに子安氏は、清沢が「ろう扇記」のなかで、エピクテタスの「語録」の要旨を摘記していることに注目する。以下引用。「如意なるものと不如意なるものがある。如意なるものは意見、動作及び欣厭なり。不如意なるものは、身体、財産、名誉及び官爵なり。己の所作に属するものと否らざるものなり。如意なるものなるものに対しては、吾人は自由なり。制限及び妨害を受くることなきなり。不如意なるものに対しては、吾人は微弱なり、奴隷なり。他の掌中にあるなり。此区分を誤記するときは、吾人は妨害に遭い、悲嘆号泣に陥り、神人を怨謗するに至るなり。如意の区分を守るものは、抑圧せられることもなく、妨害を受くることなく、人を謗らず、点を怨みず、人に傷けられず、人を傷けず、天下に怨敵なきなり」。清沢はこの「エピクテタス語録」から「精神主義」的立ち上がりへの決定的な支えともなる思想を聞き取ったと子安氏は解説するのである。そこから導かれる結論は、<「精神主義」を私は、我々に於ける国家的被拘束性からの最初の思想的離脱と考えているからである>。
現在我々は清沢満之の声を聞かなければならない。「日本を取り返せ」と安部は訴え続けるが、一体それがいつの日本なのかが問われるべきだ。インチキな近代主義者の夢、東京オリンピック以降、先進国を意識し始めた1970年代か?否。ホンモノの日本人がいた軍国主義の前夜に戻れというのである。名誉とか財産は自分ではどうにもならないもの、だからこれらに無責任で構わない。現在進行中の選ぶ民主主義の下で、安部の演説をききながら、名誉と財産の如く自分では背負いきれない国家に負い目を感じなければならない。喋る民主主義を伴なわなければ、我々は益々自分を知らない破片と化すだけだ

子安宣邦氏の講座「歎異抄の近代」は、毎月第二週午後一時に、早稲田大学(大抵14号館)の小教室にて行われます。誰でも自由に参加できます。無料ですが、ただしプリント代に500円ぐらい必要です



MIZUNO Yoshiyuki水野義之 ‏@y_mizuno

放射能とは定義からdN/tdであり、それは実は物理法則としてμNと書くこともできる。ここでμは比例定数、Nはその時の放射性原子の数。時刻が増えると数Nは減るので符号はマイナス、dN/dt = -μN、この微分方程式を解くと、μという比例係数が半減期の逆数になっていることが分かる。
ここで出てきたdN/dt = -μNのμを崩壊定数と呼ぶ。このμは、半減期Tと、次の関係にあるμ = 0.693/T、ここで0.693は対数を使ってln2と書ける数。だから半減期Tが大きいと、崩壊定数μが小さいので、なかなか放射性崩壊をしない、つまり放射能が弱いことが分かる。



政治の無理解・行政の不作為・メディア不理解>科学の限界・技術の失敗>住民・国民の不信・不満>政治の無理解という三すくみ構造の水野さんのご指摘は、問題解決の為に大切な視点を与えてくれます。同時に解決の困難さをリアルに証明なさったと思いました。

元官僚の自民党政治家は芸者的。接客される、テレビジャーナリストと迎合マスコミ人も芸者的。業界のエライ人達の舞台裏を知るという程度のチシキで、特権的に喋る(喋らされている)のは、恥ずかしい。いくら饒舌でも肝心の市民的介入の民主主義的意義と人権について一言も語れない政治家と似た者同士

アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症
seq3 幻想の世界とは、われわれが征服しえなかった世界である。それは過去の世界であり、未来の世界ではない。過去にしがみついたまま前進すること、それは囚人の足枷を引きずって歩くことである。」いきた見者、それはナポリの革命家の衣装を着たスピノザである。――(上)p60

成功したビジネスマンにきくという趣旨の番組でBBCの女性ニュースキャスターがビルゲイツにインタビューしました。公明正大な立場から、独禁法違反について問い糾し彼をびびらせました。彼らは自分で原稿を作ります。NHKと比べても仕方ないんですが一応BBCは彼らの模範


朝日新聞が「党内の好感度分析」を一面に出した。研究は研究として結構だが、分析の方法と限界を読者に丁寧に説明しなくてよいのか?新聞は有権者である読者に向けて一体何を判断させたいのか?この様に、ファシズムの政治は言葉を殺し好感度という情念のプロパガンダに全力を注いだのではなかったか

千のプラトー:資本主義と分裂症
ミクロ政治学の観点からすれば、社会はその逃走線によって規定されるし、逃走線は分子状である。いつも何かが流れている。あるいは逃走している。そしてこの<何か>とは、あらゆる二項的組織を逃れ、共振装置から、超コード化の機械から逃走するもののことである。[(中)p113]


米国最高裁を見ると、最高裁の本領は理性を屈服させてしまう<屁理屈>の力にありですが、日本語を読める在日の米国人法律家が「日本の最高裁はあの程度の理屈を理屈と思っているのか?信じられない。頼むから理屈を言ってくれ」と心底嘆いていました(笑)西欧鬘かぶってるんだし
@owlcato 日本の国のエリートさんたちはほんとに狂ってる。建前だけの欺瞞を平気で使い自らの権力行使の正当性を保証する憲法や法をズタズタにしています。知的誠実性に欠ける事を恥と知らないのでしょうね。
長く書けませんが、靖国関連の最高裁判決も相当に酷いものです。国民の側の信教の自由は敗訴ばかりです。最高裁は、国民の信教の自由を否定する傍らで、恥知らずに、被告の靖国神社に宗教の自由をみとめ人権を与えるという恩寵ぶりです。来年は避け得ない大きな問題となりますね@sayori27


今年観たオスカーワイルドの「サロメ」のオペラをちょっと思い出していたところですが、ワイルドは芸術家を描いていたのに対して、どうも芥川は意地悪く<大衆>を描いていたのではないでしょうかね。ワイルドの芸術至上主義ではなく、芥川の芸術<市場>主義。三島的には、「なんと美しい」と発した言葉が芸術家も焼き殺してしまうほど凡庸なのが気になります。これは、<皆が芸術家ですぞ>と思わせるのが得意な、消費社会の広告を小説化してみせた器用さを感じます。安全な神話ですね。倒錯にかんしては、川端の方が全然危ないという・・・

日本の作家のことはよく分らないのですが、海外では、尊いとは思わないまでも、作家は、そういうエゴイズムが不可避的にありますね。ジョイスなんかは、狂気に陥った娘ルチアとの関係が色々言われていて真相は分らないままですが、小説の題材のために彼女を狂気の側に追いやった事実はやはりあるだろうと思っています。「犠牲」というか「殺人的」というか、中々微妙ですが、ジョイスの伝記作家なんかはルチアの敵打ちという感じで、ジョイスを非難するのは、結構驚きます。ま、このこととは別に、政治の芸術化といえ芸術の政治化といえ、「遊戯する人間」の本質のどの部分を視点に置くかの問題であって、人間の本質的な理解に大きな違いはないだろうと思うようになってきました。



大正デモクラシーはそれほどデモクラシーだたのか?「明治」が終わったら直ぐに「大逆事件」だった。投票が終わったら直ぐに靖国公式参拝である。自民党によって憲法を改正されたら、我々はその憲法を改正せよと批判していくのか?「批判」という言葉自体が「非国民」のラッテルが張られるかもしれない









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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2012年12月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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