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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年4月

<<   作成日時 : 2013/04/01 00:00   >>

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ロンドン開催翌日に起きたバス地下鉄爆発事件は、労働党支持回復という五輪の意義を帳消しにしました。不況対策の建設費も都市に集中するも肝心の疲弊する地方にまわらなかったといいます。昨年開催前メディアの関心は専ら英国のギリシャ化の心配。英国はメダルは沢山とりましたが

アルジェリア人の友達にいわせると、アラブというのは地域概念なんだと。確かに、例えばアルジェリアとトルコの間には、「ミカドの肖像」の登記簿作家が言うようには、「アラー」という共通性がみえて来る訳ではありません。そんなことを言うのはイスラエルの極右翼だけでしょう

BLOOM: Haha. Merci. Esperanto. Slan leath. (He mutters) Gaelic league spy, sent by that fireeater.

都オリンピック招致委員会「困りました。"仲良くしようぜ"のプラカードを掲げた都職員千人にトルコ大使館を包囲させましょうか」。

犬HK「しかし機動隊が来たらどうしまうか?海外に凄いイメージダウンですよ」

都知事「待て!中国が持たない機動隊が日本にあるという宣伝になるぞ」。

犬HK「やはり先生はノーベル平和賞!」


平等という普遍主義がまづ始めにあり、但し歴史的に証言された普遍主義の弊害を克服する多様性に大切な意義が与えられます。そういう意味で、抵抗としての存在のあり方は<一>でもなく<多>でもありません。<一>かつ<多>を唱えたドゥルーズは存在論的一元論です。差別と闘っていますから当然です。90年代以降普遍主義を捨て去った結果、多様主義の追求だけが正義とされました。そんな多様主義はゼロに等しく、差別を容認する天皇主義とはどこが違うのでしょうか。脱原発運動の失敗から学んだことは、差別の問題に取り組まない多元主義(名はシングルイッシュー)が持続不可能であるということではないでしょうか

THANK YOU , SHINZO ABE (PM)
YOU GIVE TO US
NO HEART,
NO BRAINS,
AND NO COURAGE
BUT ONLY SOLITUDE



祀る国家と戦う国家の間の奪い合い
祀る国家は戦う国家に予め要求するものといえば、
戦地で死ぬ兵隊の身体。ただし殺し続けてくれさえすれば後払いでもいい。
その前に戦う国家は祀る国家に要求しなければならないのは、
故郷に帰る声。どこからどこへ行く?
生誕の前の秘密と死の後の秘密を聞く

まづ取り上げなければならないのは朱子学の根本観念をなす「理」の性格である。それは事物に内在しその動静変容の「原理」をなすという意味では自然法則であるが、本然の性として人間に内在せしめられるときはむしろ人間行為のまさに則るべき規範である。
2、朱子学の理は物理であると同時に道理であり、自然であると同時に当然である。そこに於いて自然法則は道徳規範と連続している。注意すべきはこの連続は対等的な連続ではなく従属的なそれであることだ。物理は道理に対し、自然法則は道徳規範に対し全く従属してその対等性が承認されていない 
(丸山真男「日本政治思想史研究」25頁)


ハンナ・アーレント
アダムスミスは職業軍人「聖職者法律家医者オペラ歌手」のような本質的に演技に依存する全ての職業を召使の仕事に分類し非生産的で最低の労働と一緒にした。ところが他方、古代人が人間の最高最大の活動力の例と考えたのは、このような職業ー医師、笛吹き、俳優ーだったのである(『人間の条件』28)



ダブリンの「ソクラテスの弁明」の読書会にきたエンジニアの米国人達は、専門家でないソクラテスが一番偉いとは信じられぬと嘲笑った。ソクラテスは、サィードが知識人と呼ぶ類の人間だったかもしれないが、そんなことはかれらにはどうでもいいことである。(「ポストモダンの知識人たちは、いまや、真実とか自由といった普遍的な価値ではなく、専門的能力のほうを高く評価するということらしい。」サィード『知識人とは何か』)

読書会では、ソクラテスをキリスト、又はルネッサンス的教養人のモデルとする人々がいた。弟子たちが逃げなさいと忠告しても、思索に夢中なソクラテスは逃げることに興味もなかったかというラッセルの説もある。ロッセリーニのテレビドラマの中で、ソクラテスは死刑評決を受けたことを妻に告げる。

妻(号泣)「あんたみたいないい人がどうして!?私は本当に悲しい」。ソクラテス「私が悪い人間だったならばお前は悲しまなかったのか?」。と、最後まで探求する哲学者。それにしても何故死罪だったのか?ゴダール曰く、ソクラテスはロッセリーニの様に誰とも対話したので危険人物にされてしまったと




書くこと(エクリチュール)は意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。―― 千のプラトー:資本主義と分裂症 (上)p18

朱子学の「理」は、根拠づけのことで、二つのモメントを含む。存在論的な根拠づけである形而上のモメント(例、「仁は愛の理」)。メカニズムの形而下のモメント(例、「物理」)である。朝廷世界を打破し僧侶嫌いの徳川期日本を際立たせたのは朱子学の形而下化だ。ヨーロッパ学問の受容の条件を築いた

「原初的なテクストは基本的に読めない」というのは、亀裂である。が、哲学者にかかると、原初性は過去へのノスタルジーとなる。失われ削除され不在となったと教える。寧ろ詩人は常に亀裂を現在に感じる。我々の思考のうちで我々の世界と共有するものが何一つ無いと学ぶ孤児、訴える革命家の分身である

「原初的なテクストは基本的に読めない」という問題意識から、フーコは書き始めた。そして「オリジナルなテクストは読める」とする近代がいかに成り立ったかを解剖学者の如く呈示した後に、オリジナル性を打ち砕く作家達の戦略を証言していく。「言葉と物」とは「原初性」の意義を再発見した本であった

1、ロンドンのバービカン・センターで、The Bride and the Bachelorsというテーマの、Duchamp回顧展。The Nude等の絵やオブジェに囲まれた中央ステージで六十年代にケージとカニングハムと協働したダンスパフォーマンスをみた。ダダ精神の記念碑的オブジェ
2、「泉」は詩そのものに変容し、単一のモダニズムとの決別を謳歌していた。前置きが長くなったが、DuchampとBlake、この両者は、私の中で繋がる。Blakeの絵は、絵として自立してはおらず、絵でないものと、即ち詩と関わりをもつものである。ポストモダニズム的に外部に赴く。
3、ここで、ポストモダニズムの実体の概念とは、
α、一でもなく多でもない、固有名の如く単独的に現れる概念。
β、生成消滅する実体。
γ多数の参照系とかかわり合い外部性に依拠した実体。
4、マルチカルチュアリズムは、国家が促す戦争(アフガン・イラン戦争)によって最大の損失を被ってしまったのだ。なぜならマルチカルチュアリズムは本質的に帝国主義的国家と決別するものとして存在しなければならなかったからだーポストモダニズムが単一のモダニズムから決別するつもりだったように




Badiou 「Pornographie du temps présent」は、資本主義のより専制的でない権威、統御のとれた腐敗に妥協し、広がる不平等に加担する中産階級を描く。警察が棲むネット主観性の内側で反抗性を表象するも、それは資本主義自身の淫らな映像の消費でしかないのに

鉄の女が送った兵隊で北アイルランドは無茶苦茶になった。アイルランドに行った年、道徳的サッチャーを演じたブレアーが彼女の後継者に圧勝、ついでにイラク戦争もフォークランド戦争を真似した。始めからマルチカルチャリズムの封筒の中にサッチャー主義の時限爆弾が入っていた。上手く行くはずがない

1985年/イギリス−アイルランド条約(ヒルズバラ協定)

イギリスのマーガレット・サッチャー首相と、アイルランドのギャレット・フィッツジェラード首相によって取り決められたこの協定は、北アイルランドの住民の大多数が同意しない限り、アイルランド共和国政府に北アイルランドのイギリス帰属を了承させることと引き換えにアイルランド共和国に北アイルランド統治に関する協議への参加を認めさせたもの。IRAのテロ活動の取り締まりをイギリスと共和国が共同で強化することがねらいであったが、統一党の会合ボイコットや北アイルランドのプロテスタント過激派がこの協定は南北アイルランドの統一の第一歩となるとして猛反発、IRAも妥協的協定に反対し、テロが続発した。


何一つとして 最後のよりどころと なるものはない 妻も子も私自身すらもという驚きこそ 宗教の門に入る 第一歩である 親鸞(浄土真宗法語) ‏

Part1, How to read the Analects of Confucius <論語>

獲罪於天、無所祷也 - from Book Three

13, Wangsun Jia said,

Better pay compliments to its kitchen stove
than to the southwest corner.

What does it mean?
The Master said, No true! If you incure blame withe Heaven, you have nowhere to turn for forgiveness! 獲罪於天、無所祷也 


Part2, How to read the Analects of Confucius<論語>

"獲罪於天,無所祷也" ("If you incur blame withe Heaven, you have nowhere to turn for forgiveness !" ). Question; what is the "獲罪於天、無所祷也"?

<Annotation> Keyword is "Tenn"(天;Heaven). Chu-tzŭ(朱子)had stated it as " Li"(理;the uniqueness that presides over authentic order of things). Preciously,"天 Tenn" has no its counterpart. So 獲罪於天、無所祷也" is stated; if you are contrary to "Tenn", then "you incur blame withe Heaven". Nobukuni Koyasu(子安宣邦) has ever presented the way of re-reading of the Analects of Confucius by Jinsai Ito(伊藤仁斎; an annotator in 17th century in Tokugawa period ), who had tried to dè-construct Hegelian Chu-tzŭ(朱子). Strikingly, Jinsai Ito said; "Tenn" has no any intermediacy between man and Heaven. According to Nobukuni Koyasu(子安宣邦) , "天Tenn" must be ultimate trustworthiness.Ithink Spinoza would call it "Substance", les soutient dans l'être. So what ? The "獲罪於天、無所祷也" should be read; if anyone lost his/her ultimate relations dependent ("天Tenn"), he/she couldn't pray any more!.
This suggests "天Tenn" ethically assert that the presence of Otherness is irreduciable to any totalitarian state. (ex. the militant tenno sysytem)
<Reference> Kong Zi's trustworthy is seen in these passages;"Ah, Heaven is destroying me!",or "perhaps it is Heaven that understands me"


ヨーロッパに入って直ぐにパリのオペラ座でのワグナー「ジークフリフト」観劇したときは比較的安定していたのですが、やはり10度という寒さのなか、東京との温度差のせいで、すっかり体調を崩してしまい、風邪で咳が止まらなくなってしまいました。兎に角、国葬に反対する人々の声だけは撮ろうと。ロンドンのロイヤル・オペラでのモーツアルト「魔笛」観劇のときには楽になりました。東京と比べて本当に安く観れます。パパゲーノが音を奏でると、パンクの格好の貴族達がバレーではなく、ロックンロールの身振りで踊らされてしまうのは驚きました。滞在中考えたことを少しづつ書いていこうと思います

Thatcher's funeral was an end, not a new beginning ビデオのナレーションのなかで使ったこの言葉は、ザ・ガーディアン紙のコメントからひきました。簡単な一文ですが、これが中々訳せません。サッチャーの国葬はある終わりを意味するのか?(いや、終わらせるには、始まりがなければならないだろう。今回の国葬を目撃した人々は)なんの始まりも認識できない、という感じでしょうか。サッチャーの終わりを告げた国葬は、21世紀民主主義の始まりを告げたのでしょうか?ところが、国家は相変わらず、市場主義に対する過剰な思い入れと新植民地主義的欲望しか未来がないかのように語っています。世論の六割が税金の無駄と反対した、帝国主義的に過剰に演出された国葬についてBBCは議論を避けましたが、植民地主義者の欲望でフォークランド戦争を推進したサッチャーを国葬するのも、閣僚の靖国参拝も、、まったく同じ、祀る国家、戦う国家の病です。サッチャーは南米の独裁者を助けイスラエルの軍事行動を支持しました。アパルトヘイトの南アフリカへの経済制裁を拒びました。風刺画の彼女の棺は凶暴な核ミサイルの姿。狡猾にも、小泉とその後継者達が学んだのは、実際に経済的成果が無かったのに英国を救う程の偉業を成し遂げたと信じ込ませる巧みな世論誘導でした・・・(と、今日の話)



現在はメルトダウンの<あと>と思い込まされていたが、疑わしい安全基準ですら3・11前のままならば、再び次のメルトダウンの<まえ>と言わざるを得ない。というか、そもそも始めから安全基準は存在しなかった、経済基準と核武装の準備しかなかったという不信感をつのらせることに誰が非難できる?

若い人は知らないので書いておきます。こんなのも全部サッチャーとレーガンから始まった話で安部や小泉は真似をしているだけです。ー><「大きな人間」の過ちとは資本が国家を利用する破壊である。「国益」が資本の「利益」と一致した結果、ボトムアップ現象が「国益」(実は資本の「利益」)を語る>

たしかに、アイルランド独立運動のナショナリスト、ウルフ・トーンがユダヤ系だったというのはショックだったかもしれぬが、私はジョイスの本を読んで、シンデレラがアイリッシュだと知ったことのほうが衝撃をうけた。抑圧されている人物は皆、アイリッシュということ、蜜蜂マーヤとか。仏陀もそうか?

ナショナリストを自称するアイリッシュにこの人がユダヤ系と教えたらショックを受けていたけど、[もし資産も持つ者達が我らを助けぬのであれば、彼らは倒されなければならない。我らは大きな、そして名誉ある階級、すなわち無産階級の助けを得て、我ら自身を解放する。-セオボルド・ウルフ・トーン]

イギリス人が核兵器を持ちたい理由は極めて単純。持てば威張れるというプライドの問題。保守的な論客からは、トライデントに無駄なお金をつぎ込むんだったら、王制存続の費用にまわしたほうが安上がりという本音話が。税金でプライドをどう買うかという費用効果の問題。核抑止論は麻薬妄想的戯言らしい

「大きな人間」の過ちとは、資本が国家を利用してくる妨害ですね。本来上から目線で「国益」を唱える人は少ないと思っていたのですが、現在は資本が国家を利用していますから、「国益」が資本の「利益」と一致した結果、広範囲の、ボトムアップ現象が、「国益」(本当は資本の「利益」)を語っています。
TPPは国益という名の私益です。また4割が「政府は自分で生活できない人を助けなくていい」と答えていますが、日経連の大衆化現象が起きていませんか。「個人としての思考」を取り戻すためにも「空間」を取り戻さなくては。ネグリが演劇の語を使ってマルチチュードを説明しているのは大変示唆的です


ネオリベグローバリズムとボルシェヴィキは別々のもの。しかしイギリス新右翼がサッチャーリズムを憎む理由は、そのグローバリズムが啓蒙と計画のボルシェヴィキに通じる、傲慢にも?極端な人工性に依拠するからである。両者ともに顔を描かない抽象絵画、故郷なきエンジリアング、と新右翼は危険視する。
サッチャーは、ミッテランによれば「マリリンの唇とカリギュラの眼差し」持つ。おせっかいに解説すると、サッチャーは、英国も大売出し中みたいな乗りで消費社会をつくり、また地球の半分を持ったビクトリアン朝帝国に憧れてフォークランド戦争をおこした。カメレオンの如くイメージを次々に変えたのだー今日のポピュリスム的政治の源流といえる


マルクスが言う通り、資本は単独では価値を生産できない。資本は、価値を生産するためには、必ず従属した労働を必要とする。ここに、資本が国家を利用して労働の政治活動を妨害したがる理由がある。しかし労働は益々言葉やコミュニケーションに関わる技術と資本に結合していくのは、それが本来的に従属を欲することがないからではないか。エンゲルスに注目したドゥルーズ&ガタリが強調していたのは、あらゆるものをあらゆるものに繋げる人間労働の抽象的な生産性である。現実には、この言葉とコミュニケーションを生産する労働に支払われないのは、ネグリ&ハートが結論したように、市場それ自身の失敗なのである。だからこそ、資本主義を超えなければならないというのだ


彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。小田実 『対話篇(中村真一郎との対談)』1973



子安宣邦先生 ‏@Nobukuni_Koyasu

『言説とは事件である」とは、私がP.リクールの『解釈の革新』に教わった重要なテキスト理解をめぐる方法的概念である。人が何かを外部に書き出すことは、受け手を予想し、受け手における同調や反発を予想した事件性をもった言説である。私もまた読者を予想し、読者に向かって書き出していく。
書き出したことの、読み手に届いた確かな証があることは、書き手を鼓舞し、さらなる書き出しを彼に促すだろう。だが逆に読み手に届いた何の証もないときには、書き出したことの事件性は喪失し、書き手はモノローグの無意味な自閉的世界に追い返されてしまう。私は最近そのような感じをもっていた。
私の最近の著書、ことに『日本人は中国をどう語ってきたか』は完全な沈黙をもって対されている。私はこのことを私の執筆の終わりを告げる予兆のように思ったりしてきた。私が年齢をいい、ウツをいうことの理由はそこにあった。私のこのウツを知ってか、知らずしてか、本多敬さんが私を救ってくれた。
「天安門広場事件から簒奪された「事件性」を取り戻すこと、今日神話的に内側に絡み取られてしまた言説から、批評にもとづくリアルな歴史を取り戻すために」子安は『中国論』を書いたのではないかという本多さんの批評は、自閉化した私にもういちど「事件」として書き出すことの力を与えてくれた。



上野はよくやったと思うが、他の二人の男性は非常に残念。ネグリの普遍的な構築性に対して、卑屈に警戒すらしている。彼らの生活から語り始めるやり方だ。「生活党」の様に、生活者の視点はナショナリズムが前提とされてしまう。結局「ヨーッロッパ」を外部化して「日本」を特殊化する排他的な態度だよ

直接民主制の概念である「コモン」とは、<無数の特異点の交錯>をいう。ここから、「統治性」の概念の根本的な検証も行われる。ところで優れた思想家は、その時代を支配する人間像を呈示してきた。今回来日したネグリも、現代における顕著な四つの人間像について語っている。即ち、「債務を追う人間」「メディアに媒介される人間」「恐怖する人間」「代表される人間」である。とくに、「恐怖する人間」とは、領土ナショナリズムや愛国心において国によって煽られて互いに敵対心を持ち合うようになった人々の姿をいうものであろう。今日の講演で注目すべきは、「コモンの通貨」「コモンの憲法」という概念を新しく提唱していることだ。今日マルクスが生きていたら、このネグリの同じ語り口で、固定資本(原発設備)と安全神話(コミュニケーション)をひとつの関係として論じたはずだ。「コモンの通貨」「コモンの憲法」からみえてくる労働とは何か?新しい問題提起

自己欺瞞は、自己の陣営に対しては、小さな善を取り出して全体の悪を忘れ去るという方向に働くなら、相手方に対しては、相手の部分的な過失、誤り、悪を全体の誤り、悪としてとらえる、それにすりかえてしまうという操作を意識的、無意識的に行なう方向におもむくにちがいない。 小田実 『義務としての旅』67

アベノミックスとは、市場に対する過剰な期待、ネオリベのヴァリエーションです。生存に不安を感じざるを得ない自己保存本能はかえって自己の生存の基盤を一層不利にしていくギャンブルに救いを求めているようです。ギャンブルで時間を潰しているうちに根本的に回復不可能な状態が進行してはいませんか

暗黒の時代はいきなり来るのでない。恐らく発狂の時代というのものがあるのだろうー>「行われ方いかんによっては、男女間の享楽的雰囲気が過度にわたり、善良の風俗と清浄な風俗環境を害し、又は少年の健全な育成に障害を及ぼすおそれがある」(ダンス規制法)

暗黒の時代はいきなり来ない。恐らく発狂の時代というのものがあるのだろうー>"内閣府は社会意識に関する世論調査の結果を発表。愛国心が「非常に強い」「どちらかといえば強い」の合計が前年に比べ2.6ポイント増の58.0%と過去最高になった "/「愛国心強い」が58%と過去最高(日経)

暗黒の時代はいきなり来るのでしょうか。いいえ、恐らく発狂の時代が先にあるのでしょう。この善意な人々が自分の愛国心が在特会の行動となにか関係があると一度も疑わないとしら・・・ー>愛国心が「非常に強い」「どちらかといえば強い」の合計が58.0%と過去最高になった 。内閣府調査(日経)

21歳で撮ったというパゾリーニ脚本の「殺し」と較べると、「分身」は美学的だけでラストエンペラー的保守性すら感じた。ゴダールのアルトー的愚行は、ブルジョアの道徳ー愛国主義的戦争に収斂されていく限り挫折するしかない無駄なものを嘲笑った。そういう愚行の正当性がベルトリッチには欠けている

コンビニの"易しい聖書"というハウツー本は怖いと会場の質問者がグルに訴えた。「なぜ?」。ICAの司会者は英国に広がる原理主義のことを補足説明した。ジジェクは吼えた。「聖書にキリストをやっつける方法が書いてある。聖書は役に立つ」。「極右翼を説得しようとするな!奴等には怒りを示せ!」

XXの陰謀とOOの企みといったそんな複雑で見えない糸のことがいま問題なのか。否。問題の所在は反駁を許さぬほど明瞭で単純だ。つまりこうだ。あなたが、わたしが、われわれが極右翼に対して怒らなければ怒らないほど、マイノリティーに対する的差別がますます大きくなっていくということではないか

東日本大震災の弔慰金  公務員は2660万円、民間は800万円に遺族が絶句 「同じ被災者なのに、何で・・」ー>国家は生者だけでなく死者も差別するから。敬えば敬うほど卑屈になるものだが、国家に対しては極端と極端へ行く。我々は敬虔なマクシム、卑屈なミニマムという馬の鞍に押しつぶされる

資本主義は上限とか下限の限度を取り払う。マルクスの予想に反して搾取率・利潤率の上昇は無限大。この無限大を保証するために、国家が介入する(銀行救済)、又は介入しない(TPP)。国家を拝み自らを憎悪する馬の鞍<敬虔なマクシムと卑屈なミニマム>、アンチ・オイデプスが書いていたのはこれだ

福沢文明論が直面していたのは、明治の社会的転換と共に生じた道徳的な空白がその再生を促した道徳主義の主張であった。具体的には、「教育勅語」という天皇の名による国民道徳の宣布と臣民的規範の賦与があげられる。「徳の否定的作業を通して生まれたのは、徳から切り離され、その否定的徳の向こう側にある肯定的な智、即ち文明的な知識・知性であった」(子安)。国家の独立の必要を説いた福沢は、独立人民と政府との間の対等な関係も要求した。(ラジカル・リベラリズム)

福沢諭吉の場合、「智」は「徳」から区別されて外部化され、その働きのいっそうの社会性が取り出されてくる。「徳」は内面の領域に置かれる。しかし、そうして「徳」を内部に持つに至った人間と人間どうしの間で、福沢が望んだような「智」が知性として働くのだろうか?

繰り返される、国家が不在とする見解は、中国侵略は戦争ではなかったとする見解を正当化してしまう危険性がないだろうか。結局、それは「太平洋戦争」という言い方ー中国との戦争は無かったとする。国家が不在とする見解は、リアルな歴史の認識を隠蔽してしまう。誰が戦争をしたのか?勿論、国家である

野次る権利も間違う権利もあるだろうー但し意思表示の仕方が合理的範囲を越えない限りで。若い右翼は自論を野次れ。警官に指示したがるのは何故?例えば「道交違反です、許していいんですか」「あの人を早く捕まえて」とかいう調子である。自分達が警察にスポイルされていることを右翼は気がつくべきだ


芦部は外国文献と判例集を持つプロスペロー。杖で描いた円の内部を立入禁止と定めた。主権は別の仕方で論じた。円の内部である憲法判断回避領域を偶像化した専門家は増えたが、戦わない国家、祀らない国家を決めた憲法の理想を生きる人でなければ、どうして片山さつき、父殺しミランダに復讐できようか


N. M. Kosuge ‏@nobuko_kosuge のツイートから

戦前の日本社会では、一言でいえば、「平和」は戦争によってもたさられるものでした(例:「靖國」神社)。戦後の日本社会では、がいして、「平和」は反戦・反軍・反体制・反権力として位置づけられました。より現実的でより普遍的で、社会規範としての「人道」「人権」認識は育ちにくかったのです。



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