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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年 1月

<<   作成日時 : 2014/01/01 21:52   >>

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<他>の歴史をつくること

百年後の人々は2014年をどう評価するでしょうか?都知事選から始まるこの一年は決定的です。国連とEU、西欧メディアとアジアからの非難決議が続出する一方で、3・11以降原発に肯定も否定もしない中立的沈黙の知識人はファシズム推進派として合意を大量生産するかもしれません。政治家・軍人と共に靖国参拝に付き添うする知識人・ジャーナリストも多数あらわれ、'信教の自由を守れ'と訴える者すら出てくる怖ろしい未来はだれも否定できなくなりました。安倍内閣支持率が九割に達するときは、'性'が階級化しています。またネオコンの'ファイナンシャルタイムズ'ですら呆れて指摘するように、大企業とその他の企業との関係が階級の関係として構造化していくばかりです。付け加えておきますと、死刑制度に疑問を持たぬ国民には取るに足りぬ些細な事ですが、何でもかんでも介入してくる文学の精神が国民道徳と同義語となるときまでには、百年後の人々は、2014年を契機にこの国に、自他共に互いに尊重しあう人間精神それ自身の決定的崩壊を目撃していくことになるのでしょうか。これらとは<他>の歴史をつくる可能性もまた現在進行形です

都知事選から始まるこの一年は決定的

この一年は、国連とEU、西欧メディアとアジアからの非難決議が続出する一方で、3・11以降原発に肯定も否定もしない中立的沈黙の知識人はファシズム推進派として合意を大量生産することになるのではないでしょうか。政治家・軍人と共に靖国参拝に付き添うする知識人・ジャーナリストも多数あらわれ、'信教の自由を守れ'と訴える者すら出てくるかもしれません。安倍内閣支持率が九割に達する場合は、'性'が階級化しており、また'ファイナンシャルタイムズ'が指摘するように、大企業とその他の企業との関係が階級の関係として構造化していることでしょう。付け加えておくと、死刑制度に疑問を持たない国民にとっては取るに足りぬ些細なことに過ぎないでしょうが、'文学'は'国民道徳'と同義語となるときまでには、歴史はこの国に人間精神それ自身の崩壊を目撃していくことになるでしょう


都知事選から始まるこの一年は決定的だろう。共謀罪法、国民投票法、秘密保護法執行、憲法改正、徴兵制度、武器輸出、'死の商人'への株投資ブーム、危険な原発輸出、国内での原発再稼働、米軍と自衛隊の爆撃行動、国際法違反の捕虜に対する拷問、国際法違反の核開発と核武装。

国連とEU、西欧メディアとアジアからの非難決議が続出する一方で、3・11以降原発に肯定も否定もしない中立的沈黙の知識人はファシズム推進派として合意を大量生産。政治家・軍人と共に靖国参拝に付き添うする知識人もあらわれ、信教の自由を守れ、と訴える。安倍内閣支持率を9割に押しあげる

性が階級化し、大企業とその他の企業が階級化する。最後に付け加えておくと、死刑制度に疑問を持たない国民にとっては取るに足りぬ些細なことに過ぎないが、歴史はこの国に人間精神それ自身の崩壊を目撃していくことになる。'文学'は'国民道徳'と同義語となる。




東京都は元々は東京電力の最大株主でした。そして実質国有化により順位は下がったとはいえ、依然として大株主の一角であります。この事実はいったいどういう意味をもつのでしょうか?自分でも考えてみようとは思いますが、このことを明確に説明し納得させてくれるような候補者は現在いるのでしょうか?


小林英雄は本居宣長を書き、吉本隆明は親鸞を書いた。吉本の思想詩がスケッチした親鸞は、子安氏の指摘では、良寛の姿と重なるという。そこに知識人の<非知非信>としてのあり方をみ、ノンセクトの大衆運動の根拠を与えたとき、内村鑑三とも比し得る位置から、最後の吉本は親鸞に自分自身を与えたのだ


昨夜は居酒屋でドイツの学校の話が。歴史の授業で'ドイツは存在せず'と教わるとのこと。分かるな。関心を持ってくれたとはいえ、アイルランド人などずっと存在していなかったのだからケルトについて聞かれても当惑してしまう。民族の話しか関心がないのは自己意識。つまり日本人にしか関心がない証拠

'信'と'不信'との間 ー 吉本隆明「最後の親鸞」を読む

参考文(配布レジュメより引用)

(1)「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらふしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをさへて、よろこばせざるは煩悩の所為なり」

(2)「また浄土へいそぎまいりたきこころなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままでr流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛(ごうしょう)にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、あはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふららへ。」(埴谷文雄の現代語訳;また、はやく浄土にまいりたい心もちはなく、ちょっと病気でもしようものなら、死にはせぬかと心細く思うのも、煩悩のせいである。とおい昔から今日まで幾生涯をくりかえした苦しみの故里はすてがたく、まだみぬ浄土は恋しくもないというのは、よくよく煩悩がはげしいからであろう。名残おしくは思うけれど、この世の縁がつきて、よんどころなく死ぬときに、かの土へまいればよいのである。はやくまいりたい気持ちのないものを、仏はことのほかいとしまれるのである。だからこそ、いよいよ仏の大いなる悲願は心づよく、われらの往生は確実であると思われるがよい。」

(3) 吉本隆明

「娑婆の縁がつきて力もなく衰弱したとき'死'ねばいいのなら、かくべつ生死を離れるための'信'なではいらないはずだ。人間は'信'とかかわりなくそういうことになっていう。すでに'死'に投げ出されているところでは、'信'と'不信'はともにあるがままの'死'に介入できそうもない。ここに親鸞の逆説があらわれた。'信'の姿が無限に'不信'の姿とおなじにされるという逆説が。」

「親鸞なんかさらに自覚的で、このばあい、知識が世界思想の最高水準まで到達してゆく過程を'往生'と捉えています。ひとたびそこに達して、愚者というものを捉え、自ら愚者になりさがってゆく過程を'還相'というふうに呼んでいます」

「親鸞という思想家は、わたしが自己投入をとげても、また、最大限にこちらの思想的な関心に引き寄せても、違和を感じさせずにそれができたということであった。こういう対象に出会い論ずることができるのは稀な体験である。この稀な体験を、かりに詩的体験と呼べば、わたしは親鸞を論じながら同時に、じぶんの思想詩を書くことができたような気がする。これははじめてにちかい体験である」



都知事選は原発を争点にすべきではないでしょうか?

都知事選は東京の事柄に専念すべきだという意見があります。また原発のことは、東京の人たちだけで決めてしまう権利などあるはずもありません。たしかにこれらは傾聴しなければならない声です。これに対して、私が思うことを書きますと、やはり安倍自民党は舛添候補の勝利によって、反対の声が多く存在した秘密保護法を「承認」したものと一方的に解釈するかもしれませんし、そうなれば危険な原発についての情報は現在よりも一層制限されていく危険性もでてきます。福島をはじめ地方を犠牲にして、電気の最大消費者であり続けた東京の人々は、だからこそ、自らの責任を果たすために、脱原発を都知事選の争点にしていくことに無関心でいることは許されないはずです。東京の人たちであれ東京に住まない人たちであれ、私のように投票する権利がない人たちも、安倍とは<他>の政治のあり方を考えていく契機として、脱原発と安倍内閣打倒をテーマにした東京知事選があるのだ、と、そういうふうに私は少しづつ理解し始めてきました。


知「か」無知か?これはポストコロニアリズム的風景に置くと、啓蒙か自然か?という大英帝国の内部の問いとしてある。吉本・親鸞的な関係の絶対性として第三極的に知「と」無知に辿る着く依る救いはポスト構造主義的解決とて、アイルランドにおいては教育ある親英的ロマン主義的中流の裏切りでしかない。啓蒙「か」自然か?と問いを立てても、大英帝国の知の支配からは脱出できぬ。この問いそれ自身が帝国の内部の問いとしてあるからだ。では啓蒙「と」自然で脱出できるか?この問題をポストコロニアリズムが分析する以前に、ジョイスがマーテル塔の中でゲール語を喋るイギリス人という問題を呈示していた.
ジョイス文学はモダニズムの金字塔。そのジョイスがポストモダニズムの先駆者として再発見されるのは、デリダの影響下に「ユリシーズ」翻訳が普及した八十年代から。ところでデュラスの文学が''はやすぎたポストコロニアリズム'と評されるが、これはジョイスについて言わなくてはならない言葉だった



知「か」無知か?これはポストコロニアリズム的風景に置くと、啓蒙かロマン主義か?という大英帝国の内部にある問いとしてある。吉本・親鸞的な関係の絶対性として第三極的に知「と」無知に依るという解決はポスト構造主義的解決であるが、アイルランドにおいては教育ある親英的中流の裏切りでしかない

原発問題の解決は再び、危険な原発を推進してきた一体構造<政財官>に委ねることは不可能だ。民主党政権は国民生活軽視の政策運営で間違ったけれども、少なくとも、その一体構造を壊す勢いから成立したという意義があった。このあと、現在ふたたび一体構造に戻った安倍自民党。沖縄の基地問題で明らかになったのは、政財官が<安倍>を待っていたという許しがたい事実だ。さて、一体だれが、安倍のほかに政治の可能性があることを示すことができるか?今度の都知事選の関心はここに集約されている


エンツェンスベルガー Enzensberger

(数学に対して)ところがいっぽう、読書とか、絵とか映画の鑑賞がいやでたまらないなどと言い張る人はめったにいない。たいていの国民は、高校を出たあと、およそ芸術と名のつくものはしっかり敬遠してきたはずだし、国語や図工の授業などと思い出したくもないはずなのに。 『数学者は城の中?』


植民地支配のもとでは、殺す者に殺される者に罪がある、という命題が、支配的な原理となる。「原住民」は生まれ付き、抑えつけておかれねばならない潜勢的な犯罪者であり、国家秩序をおびやかす大逆犯人である。 『何よりだめなドイツ』



ネット世界については、「共同体精神」から疎外されているといえないでしょうか。そして(私の中にある)「個人」によって疎外されます。しかしよく観察してみると、同時に、「個人」からネット世界は疎外されているともいえます。その場合、「共同体精神」によって疎外されているということです。ネットの世界にあるのは、このように、「個人」と「共同体精神」との相互浸透の運動だとしたら、(ヘーゲルが呼ぶ)「意識」もそのどちらとも交流します。とても人間臭い話。言葉が介入し人間が関わっているところから考えていくしかありません。ですから、精神現象学としてのネットの世界、かな?


ふくろう猫、かく語りき

ホホ〜、靖国公式参拝する政治家達がいう'戦争のない平和'は、要注意ニャリ。一つは、自ら'戦争に訴えることで実現するに違いないと勝手に思い込んだ平和'のことを言っています。もう一つは、かれらがいう”敵'を萎縮させるはずほどの圧倒的な軍事力を持つこと(徴兵制はその前提)。しかし何事も常に相手の立場からも考えたいです。さてこの場合については、最初の'平和'も、後者の'平和'も、どちらの場合にしても、自らをして戦争の原因をつくる行為としてあります。この自らをして戦争の原因をつくる行為とは、'戦争のない平和'ではなく、むしろ'平和のない戦争'のこと。実際にそうして第二次大戦は起きたじゃありませんか。靖国公式参拝する政治家達は歴史から決して学びません。アジアに対する戦争は終わっていないとすらうぬぼれています。うぬぼれた狂気が靖国公式参拝です。さすがにこれに対して、報じられている様に、戦後平和秩序の構築に関わった全世界が警戒しはじめました。

身体の記憶として古えを再生させるんですよね、武術によって。国体概念ですわね。したがって戦争。アイルランドにかんしてですが、これはイギリスから輸入されてきたマッチョイズムなんですけど、若い時は、スポーツ、スポーツと、肉体を消耗させられるようです。どうしてですか?ときくと、そりゃー、フランス文学を読んでマスターベーションできないほど疲れさせるのさと皮肉の答えが。ま、それはわかりませんが、一つの現実逃避の形でしょう。そういうものは、ジェイムスジョイスが鋭く描き出しました。「ユリシーズ」。


最近気になり出したのは、駅のホームとか街頭とかで歩く人たちの靴音です。凄い大人数ですが一定のスピードでザッザッと歩くのは、体育の訓練みたいです。嫌なのは、自分たちが作っているその音をきいて明らかに酔っているようです。マゾヒズム的無表情から読み取れます。昔はそれほどではなかったです。デモの列からお年寄りが歩道に休むと、若い警官が怒鳴ります。「列に戻れ!」。息を切らした彼らを無理やり押し込むつもりですかね?カメラをお向けたりするとやめますが。速度を管理する健康のファシズム、それが東京。舛添か田母神が知事になったら、立ち止まって考える人間をギロチン送りにしますよ


ニ十世紀に存在したあらゆる映像論演出本をまとめてしまったのが、まだ映画と出会うこともなかった十九世紀前半に、それが映画であることを知らないまま、すでに「映画」という主人公の旅を決定的に書いてしまったヘーゲル「精神現象学」。あるいは、意識 Bewusstseinという主人公の旅


右翼というのは、対象の自立性について幻想をもつ。左翼はそれを破壊していく欲望をもつ。さて原発を推進する右翼が反原発といい、戦争をしたい右翼が自らを絶対平和主義者をいう。現在起きていることはそういうことだ。厄介なことに、あらたに、左翼は、<他>である'自分自身'を破壊し乗り越えていかなければならなくなった。これは自己意識という舞台でのタフなたたかいと言ってもよろしい。事柄の性質から言って、この問題は、演劇によって明らかにされるべき問題である。演劇のなかでも、政治を貫くこの問題を適切な形で取り扱うことができた演劇がどれほどあったのか、私は正確なことを知らない

中曽根首相の靖国公式参拝は遡ること、1985年であったが、まだ1980年代は身体に戦争の痕跡があった。京大在学中に中国の戦地に行った叔父も生きていた。手榴弾発の熱で火傷した大きな瘤が両手にぶら下がっていた。子供のときは一緒にお風呂に入ったが、叔父は背中をわたしに決して見せなかった

ー>「スカートまくりあげたからな」。父親がフルートの様な声で喋りだした。「スカートまくりあげたからな、あのむかつく女が」。それを実演して見せるため父親が寝間着をぐいとまくりあげたので、太ももに戦争のとき受けた傷が見えた。『判決』カフカ

Deux routes s'offraient à lui :
celle de l'infini dehors,
celle de l'infime dedans.

Artaud

二つの道が彼に与えられていた、
無限の外部への道と、
細々とした内部への道である。


Too long a sacrifice
Can make a stone of the heart.

W. B. Yeats

人粒で
電車ギュー
おにぎりの

この頓馬は、なぜ死の商人がそのように呼ばれているのか真剣に考えたこともないし、外交の意味すらも知らない。死の商人は、貧しい国に武器を売るだけではない。武器を売った金で、貧しい国から食べ物や原材料を買うのだ。こうして死の商人によって、豊かな国には食べ物と仕事がもたらされるが、一方貧しい国には武器と血と飢餓だけが残る。死の商人は、前者から後者を差し引いた差額を投資金にしてで再び武器をつくる。これをはたして「外交交渉能力」というのか?

->「いま安倍内閣がやろうとしている武器輸出の解禁は正しい方向です。武器輸出を死の商人とか言って悪い事のように言いますが、武器輸出をしないことは、外交交渉能力を弱める馬鹿なことです。武器輸出解禁は我が国自立のための第一歩です。景気が悪い時には武器の開発製造は景気対策にもなります」(田母神)。

内向きになったというのは、外からどうみられているかという意識がなくなってしまう事態。と同時に、百年後の人々からがどう見られていくかという意識も廃れてしまう事態もいうのでしょう。歴史は、真実を映す鏡として、現在進行中の軍国主義したがって差別主義を発信する都市として、この東京を記述し記憶していくだけです。神のように振る舞うタカ派の政治家の声しかきかぬ、東京のうぬぼれの狂気を考えると、''誇り'も糞もあったものではありません。ただ虚しさと恥ずかしさしだけです。古代ギリシャのコロス(合唱隊)も、あの神この神を呼び出し、讃歌を歌ってほめたたえるしかないほど、実は無力に打ちのめされていました。オリンピア競技の民族主義ですらなんの解決にもならなかったのですが...



目が覚めたな。高校時代の同級生のお父さんが日航パイロットで、当時最高級の数百万する高価なオーデイオ一式を息子に買ってやっていた。よく夜中に都電で行って、持参したウイスキーを飲ませるかわりに、これで好きなクラシック音楽を聴かせてもらった。この同級生のために、屋根から出た大型アンテナつきの通信施設やら、飛行機を設計するほどの高度なコンピュータやらを買って与えていた。かれのお父さんは給料を貯めることを絶対にしないのだという。その理由に、戦争中同期2千人全員が特攻隊で死んだことが関係していた。最後に同級生のお父さんだけが一人 モデルパイロットとして生き残ったのだという。深いトラウマがあったのだ


目が覚めたな。高校時代の同級生のお父さんが日航パイロットで、数百万の高価なオーデイオ一式を息子に買ってやっていた。夜中に都電で行って聴かせてもらったが、戦争中お父さんの同期2千人全員が特攻隊で死んだ。最後に彼だけが モデルパイロットとして生き残ったという。トラウマがあるようだった

下品なうぬぼれ鏡が頓馬な鏡について評しているぞ
ー> 石原前都知事は田母神氏の立候補を「特攻隊」と評した。


都知事選では勝ちめはないでしょうが、選挙期間中の影響力が大変心配。極端な人が票を集める世の中とは、わたしたちには異常で極端にみえる場合でも、'普通の常識'と受け止める人々が段々多くなってきたということ。この自分がこの場でできることといえば、敵の言葉の間違いを指摘していく言葉ですね

"They are a nation of anxious people. And they could do nothing individually. So they went mad, in mass" -Nagisa Oshima

「欲求不満な人たちの国なのだ。そして一人ではなにも出来ない。だから揃って狂ってしまった、国全体で」

大島渚;「戦場のメリークリスマス」より


この頓馬は、憲法が政教分離の原則を定めていることすら知らないのか?林景一駐英日本大使は、憲法がない土人の国の大使として振る舞うな!安倍首相などは平和について5秒も考えられない。たんに思いあがった虚栄心から、「恒久平和への誓い」したこの自分様を称えよとはしゃいでいるだけなのにね

ゴダール「映画史」が「映画」という主人公の旅ならば、ヘーゲル「精神現象学」は「意識」という主人公の旅。仁斎と親鸞を考えている「意識」がこのヘーゲルの読みに関わることは避けられぬ。「宗教」から 「絶対知」への展開は、「論語」的自力救済から「歎異抄」的他力本願への展開と重なるのである


佐藤なんとかは、立ち読みですけど、ロシアについての知識からなんでもかんでも説明してしまうんです。例えば、困ったことに、アイルランドなんかの独立を民族主義者が行ったと明快に解説するんですが、数の問題で民族主義者も重要ではありますが、ほんとうは第二インター系のアナーキストや労働組合が牽引した独立なんですよ。50年代以降、マルクスは共産主義という普遍主義に'微妙に'疑いはじめました。アイルランドの対英闘争に期待し始める時期があります。が、世界革命の切り口となるナショナリズムという特殊性も'微妙に'疑っています。「ますますアイルランドのナショナリズムに確信をもちはじめた [my full conviction]」と言っているところが、かえってかれの疑いが隠されていると読むポストコロニアリズムの論客がいます(笑)。バクーニンとの関係も、ゲルツエンとの関係も'微妙'ですね。実はエンゲルスとの関係もそれほど透明ではなく、これらは全部「資本論」第一巻に反映されているでしょう。


ええ、ネットの書き込みのようにですね、語る人の欲望が反映されるテクストではあります。'解釈をつくる欲望'、これがわたしの「資本論」論なんですけどね、あまり編集者が関心をもってくれないのが残念です。その結果、成り行きで、なぜか、いま「論語」の注釈ブラックホールから出られないままなんです(笑)

思い出しました、あの的場昭弘さんね。あの「資本論」訳は、問題がないんですか?リズムよく訳していますが、マルクスが使い分けている副詞(ドイツ語では思い出せないのですが、英語ですとeach other とone another。全然違う意味です)を、同じ日本語で繰り返しているんですね、たとえば、「たがいに、たがいに」というふうに。知ってはいるのでしょうが、これは間違いです。向坂はきちんと訳し分けています。ちなみに、each other は'外からみたお互いに'、one anotherは'内からみたお互いに'。価値形態論では、本当に精緻に書いていますからね、マルクスは。ひとつの副詞でも大きな意味のアクセントをもっています。







いま、'国民が死に絶えてTPPが残ればいいか?'という言葉についても考えています。あらためて、国破れてほんとうに山河はあるのか?という問い方をたてますと、保守の答えは、'山河無し'なのです。つまり常に'故郷'の風景のことを考えているのが保守ですね。つまり、国家=故郷=平和と民主主義+核武装、とまとめてしまうことができるかもしれません。厄介なのは、国家の起源を'仲間'にみる考え方。したがって、国敗れて仲間あるか、という立論です。この'仲間'は民族を意味しているようです。ですから、'国家と民族が死に絶えてTPPが残ればいいか?'ということを言いたいのだろうと思いますが、TPP反対の結論には賛成ですが、結論に至る考え方に対して私は警戒しています。



憲法は上から目線じゃないんだ。
むしろ憲法は最低限度これだけはするな、と抗議している抗議文。
拷問をするな!と憲法が規定しているのは、なぜか?
この国で現実に拷問が行われていた過去があるからだ。
拷問をするなと憲法が抗議している相手とはだれか?
拷問したひとだ。つまり内閣だ。政府のことだね。
憲法はこの者に対して、どんなときでも拷問だけは絶対にするな!と抗議している。しかしそれなのに、彼らはこんな最低限度のことすら守るつもりがないとばかり、憲法の改正を行う準備をしている。つまり、あなたやあなたの友達やわたしを拷問する準備をしているのだ。

(参考) 戒能通孝「憲法の改正を論議するのは、本来国民であります。内閣が国民を指導して憲法改正を企図するということは、むしろ憲法が禁じている」


人間は動物的なものにも神的なものになることがある。例えばゴシック時代後期に人間は神の姿に似せて表現されている。ところで近代天皇制国家は18世紀近世の儒学者荻生徂徠の「天祖」概念に負う。ここから、靖国的のいわゆる「神」の形態が生まれたのは、人間の諸力が、(本居宣長と平田篤胤の影響を汲んだ)、後期水戸学説における神の発見と組み合わされるようになった19世紀のことである。この単一起源の語り、<日本人はどこから来たか、死後どこへ行くのか>という想像力の変容として、柳田国男の民俗学があり、京都学派の近代の超克と和辻哲郎の国民道徳があったのだ。一応私はこのように整理している。 さて京都学派であれ和辻であれ、歴史を彼らの側ではなく、われわれの側から開かれた問いとして立てたことだけはみとめてやろう。人々が自己を思考する為に常に乗り越え突き抜けなければならないものが歴史である。西欧とは異なる近代があってもいいのであり、ただしそれにとどまらずそれを乗り越えていかなければならない。近代靖国参拝の神々の神話とは他の歴史、人々が自分のために語る歴史を思考できるどうかにかかっているのではあるまいか。自己との対話の歴史。他者の側に委ねていく歴史。





「靖国神社が軍国主義の象徴であるかのような誤解がある」と、安倍首相が海外メディアに弁解しているのは、全く転倒していると言わざるをえません。なぜなら、そもそも、安倍首相は首相として、靖国神社に参拝するその行為によって、まさに靖国神社にたいして軍国主義のシンボルを与えているのですから。

どんな宗教でも差別とたたかいますが、ところが、靖国神社は死者を差別している疑いがあります。とくに靖国神社では、中国で敵を殺して死んで帰った兵隊が神として崇められましたが、殺された沖縄の人々は祀られることは決してありません。こうして死者を差別する靖国神社があり、一方で、生者を差別してやまない現在の政府がありますね。靖国神社は、貧富の格差など生者の間で差別を再生産していく現在の国家の形と同じなのは、恐らくたんなる偶然ではないでしょう。靖国神社に国家が積極的に関わっている現実があるからこそ、この両者はお互いに似てくる必然性があるのです。つまりその現実とは、首相の靖国公式参拝のことです。


ル・モンド紙 (Le Monde diplomatique 12月) を記事を読んで (2)
'Créer de la richesse, pas de vla valeur' par Jean-Marie Harribey

Le travail n'est donc pas l'unique source des valeurs d'usage qu'il produit, de la richesse matérielle. Il en est le père, et la terre la mère, comme dit William Petty. Karl Marx, Le Capital (1867),

労働力の他に、自然がなければ、富としての使用価値は生産できません。しかし労働力だけが価値を生産するというのがマルクス的言説です。この言説によると、富は交換価値である以上、貨幣に還元され、資本に帰属する。そして、その資本を私有するのは、個人か国家か?という議論となります、しかし果たしてそうでしょうか?最初に言いましたように、自然がなければ、富は生産できません。労働は経済の価格としてありますが、自然は政治の価格ではないでしょうか。そうならば、政治価格に関しては、所有という概念は不可能なはずです。結局どんな富も、自然を媒介としていますから、自然に対する政治価格が介入しているということ。この考え方を利用して、ここから、技術革命時代の知識の所有についての問いをたてることになります。等しくアクセスできる理性をつくる人間精神こそが、社会的に知識を生産するあり方に介入しています。人間精神が介入してきた知識の生産。ところが資本主義的生産はこの知識を自身の所有にしてしまおうとするのです。しかしここを問題としなければなりません。

人間精神による知識や認識を生産する社会性は、技術革命におけるその極限において、企業所有の私的性質とついに共存できなくなるのです。恐らく現在から遠い話ではないでしょう。またマルクスの次の予言?も非常にリアルになってくるのです。すなわち、労働生産性の増大とともに労働価値の減少が起きるが、(知識と認識を社会的に生産していく)極限においては労働価値はゼロである。言い換えれば、極限においては、労働は価値を生産しない、と。最後に、人間精神とはなにか?その知識とはなにか?と、定義によることですけれども、ただいえることは、、もはや再び国家の所有には委ねられないが、かといって、1%と99%を分けるネオリベ的な個人私有にも望みを託せないこの深刻な状況のなかで、公的でも私的でもない所有のあり方が問われてきているということです。空間的に離れ離れでも誰もが自らを再生産できることを可能にしてくれる、技術と知識と(第三項としての)所有とはなにか?この問いは、技術革命の時代がもたらし、人間精神が介入した知識の生産からリアルになってきたことだけは確かです。富と価値とを混同してきたのは、マルクス主義の経済学だけではありません。実は大英図書館でかれが依拠した経済学から発展した新古典派の経済学も、したがってネオリベの経済学も同じです。再び根本的に考えていくことが求められています

労働力の他に、自然がなければ、富としての使用価値は生産できない。しかし労働力だけが価値を生産するというのがマルクス的言説。富は交換価値である以上資本に帰す。その資本を私有するのは個人か国家か?が、労働は経済の価格とて、自然は政治の価格だ。政治価格に関しては所有という概念は不可能だ


どんな富も、自然に対する政治価格が介入しているということだ。この考え方は、技術革命時代の知識の所有についての問いをたてよう。等しくアクセスできる理性をつくる人間精神こそが、社会的に知識を生産するあり方に介入している。この生産の社会性は、企業の所有の私的性質に対して矛盾の関係にたつ


人間精神が介入してきた知識の生産。資本主義的生産はこの知識を自身の所有に帰す。知識を生産する社会性は、技術革命におけるその極限において、企業所有の私的性質とついに共存できなくなる。労働生産性の増大とともに労働価値の減少が起きるが、極限においてはゼロである。労働は価値を生産しない。

人間精神とその知識の定義によることだけれど、ただ、もはや再び国家の所有には委ねられないが、かといって、1%と99%を分けるネオリベ的な個人私有にも望みを託せないこの状況で、公的でも私的でもない所有のあり方への問いが、人間精神が介入した知識の生産からリアルになってきたことだけは確か

小田実

「現場」を離れて書斎のなかでばかり考えていると、世界はすべてお見通しになって、自分がとてつもなくえらぶつであるように思えて来ることがあるにちがいない。『人間みなチョボチョボや』1985




お正月の楽しみ;朝売店で全部の新聞を買い、そして各紙の世界情勢に沿った大局観を比較してみること。が、もうこれはノスタルジー?天皇が何を考えてるなんて書いてある。なぜ新聞はこんなに空ろになったの?今日は寒い気持ちで久々にルモンド紙Dを買った。労働価値説批判の骨太の記事から大いに学ぶ

ドゥルーズ、フーコ、ゴダール、紛争地をテーマにした現代アイルランド演劇の戯曲、マンデラ、江戸朱子学と歎異抄の近代、街頭抗議の映像、海外の映像 ー 昨年FbとTwitterに投稿したもの。諦めを隠しつつ、方法としての文化に期待がないわけではない。が、実体化していく文化論に激しく反発

ホホ〜、昨年FbとTwitterに投稿したものをみなおす。諦めを隠しつつ、方法としての文化のカオスに期待がないわけではない。が、ひたすら実体化していく文化論の秩序に対して激しく反発している自分の姿がみえてくるニャリか

ホホ〜、ドゥルーズ、フーコ、ゴダール、紛争地をテーマにした現代アイルランド演劇の戯曲、マンデラ、江戸朱子学と歎異抄の近代、本、詩、絵画、街頭での抗議をとったビデオ映像、海外の映像 ー 昨年FbとTwitterに投稿したもの。諦めを隠しつつ、方法としての文化のカオスに期待がないわけではない。が、ひたすら実体化していく文化論の秩序に対して激しく反発する自分の姿がみえてくるニャリか


反原発運動のメインストリートは生命をテーマにした結集。'命を守れ!'が紋切型になると、ナショナリズムに収斂していく危険性があった。タカ派の側から領土問題が出てくるのと、脱原発をいうタカ派政治家への期待感が出てくるのは一緒だった。領土を取られるな!強い国家を取り返せ!と叫んでいる。





ドゥルーズ、フーコ、ゴダールについての話題、紛争地をテーマにしたアイルランド演劇の戯曲、マンデラ、本、江戸朱子学と歎異抄の近代、街頭での講義活動の映像、海外の映像 ー 昨年はFbとTwitterで投稿したものをみると、反権力的な事柄について関心がない人とは共通の場がないと分かった

People sometimes wonder why Godard in 1960', with his intelligent curiosity, didn't make more of a contribution to the history of thought.
The reason is that the most profound thought of the time was not expressed in words (as his writing of a criticism of films in 1950's), but in visual imagery.
Relying on word (scenario) had been aesthetically criticized as sort of reliance on transcendence such as God. Scenario, the order of words and things, was politicaly considered as the interior of Imperialism.
I think Godard could stand at the forefront of an attack as long as he had had the outside; Algeria, Vietnam and Palestine.
The rule of game changed in 1970's. After his outside was vanishing, Godard really tried to produce many references to image and sound to speak another order behind the World capitalism order on-go-ing.
In 1980' the new definition was given to cinema as 'thinking form of cinema' spun by the ominipotence God-like-perfection.
God-art means King Lear, the solitary crown of the World ?
The true form of what seemed to be God-art is 'Socialism'



お正月の楽しみ;朝売店で全部の新聞を買い、そして各紙の世界情勢に沿った大局観を比較してみること。が、もうこれはノスタルジー?天皇が何を考えてるなんて書いてある。なぜ新聞はこんなに空ろになったの?今日は寒い気持ちで久々にルモンド紙Dを買った。労働価値説批判の骨太の記事から大いに学ぶ


ゴダールといえば、'言葉の力'。しかしこれは八十年代以降の問題意識だ。六十年代は寧ろ、言葉(シナリオ)への依拠は、神とか超越性への依拠として批判された。ゴダールは外部(パレスチナ)から、これを内部から内部に即した意味の帝国として告発できたといえる。が、外部がなくなった七十年代以降は、言葉を紡ぐ主体の内側から映像と音に即して、現在の秩序とは別の秩序を思考し始めた。ゴダールの'思考としての映画'、である

ゴダールの言葉の力は、八十年代以降の問題意識だ。六十年代は寧ろ、言葉(シナリオ)への依拠は、超越性への依拠として批判された。外部(パレスチナ)から、これを内部として告発できた。外部がなくなった七十年代以降は言葉を紡ぐ主体から、映像と音の内側で、現在の秩序とは別の秩序を思考し始めた

ドルイドはローマ帝国時代にいた祭司ですね。 ここで書いたのは、ドルイドと絶った、8ー11世紀のローマ・カトリックの僧侶です。バイキングの大混乱で、大陸の古文書が北アイルランドに避難してきました。寧ろドルイドの後継者は、二十世紀文芸復興運動の文学者達でしょうね。文字で書かれた歴史は勝者の歴史かどうかは、三日間話し続けても足りないテーマです(汗)。ただこれは19世紀的問題でしかありえないというのが私の理解です。あまりにも古代に遡ってしまうと分からなくなりますね。今年はこれを描いたフリールの戯曲を投稿しようとは思ってます


ホホ〜、(コスプレ・ロリコンではありませんが、たぶん)、たしか、昔たまたま、セーラームーンというアニメをぼんやりみていたとき、「お天道さまに誓って」というまじないをきいたことがあるような気がするニャリが、あれも室町・戦国時代からきた武士の類なんでしょうか?ホ〜


なぜ、アイルランドの古い教会の敷地には高い塔があるのかご存知ですか?正解なら、ダブリンの観光バスガイドが親切に教えてくれます。この塔にのぼった古代ケルトの僧侶達は略奪してくるバイキングを見張ったのです。学問僧であった彼らの頭の中には情報がずっしりと入っていましたが、この頭蓋骨は、いとも簡単にバイキングの棍棒による一撃で砕かれてしまいました。その度に、古代文明の知識が何千冊分が失われたわけです。古代の書物は惜しみなく焼かれました。僧侶たちは必死で古代の書物を保存しようと書き写しました。
歴史家に叱られてしまう大胆な比較ではありますが、戦国時代の武士たちが、織田信長とかが、天皇・貴族・寺社を焼き払ってきた歴史のあとにどんな時代を準備することになったかについては、この野蛮なバイキングのことを考えるといいでしょう。近世にはいって、江戸時代ですが、天皇・貴族・寺が独占していた学問(儒学)は、町民をはじめ民衆に解放されてきます。これは、僧侶と瞑想を憎んだ武士の文化の影響から離れては成り立ちませんでした。例えば、室町・戦国時代の武士の天道(おてんとう)信仰が、江戸朱子学に与えた影響は見逃せません('お天道に誓って')。ビデオにある、伊藤仁斎の古義堂のもとに、大阪のブルジョアジーと京都の貴族をはじめ三千人を超える人々が学びにきました。この数は今日の思想の雑誌の販売数や市民運動の集会のことを考えれば侮れない数ですね。織田信長を例に人殺しを職業とした武士達ですが、江戸時代は武士は学んだのです。
イギリスの美術史家ケネスクラークがいうような野蛮化から文明化へ昇化していく女性化という方向と比較できる歴史です。 ちなみに古義堂と張り合っていた、山崎闇斎の塾の方は、武士を中心に6000人がきました。朱子学派、神道派、史学派の3分流れとなって、尊王攘夷の源流を形成していきました。驚くべきことに、江戸時代初期に、明治以降の近代の歴史を決定していく非常にラディカルな知の運動が京都においてダイナミックに展開されていたのです。



人殺しの野蛮なバイキング船の原イメージは、中世の時代には、神(他者)の前に平伏す女性的男性、顕著なロマネスク的曲線の文明化に昇化されていくことは、クラークが指摘した通りです。

吉本隆明が念じる思想詩のテレビとは、

恫喝であり(テレビのまえで「知」を捨てよ)
独善であり(「知」と「信」は両立しない)
恍惚である(テレビを信じ切っている者はもう救われているのだ)


「言葉と物」のフーコは、ヘーゲル精神現象学について言及していたっけな。フーコはどうヘーゲルを読んだかということを知りこれを一言でも他人に伝えること。たったこれだけのことだが、これを価値ある媒介の行為とおもうことができるかどうかだ。吉本隆明だけができたのだろうか?いやそんな筈はない


Anger !

The territorial issue can not be solved only by war. But the hawkish Abe Government never learn this. If Japanese really want to solve the problem of the territorial issue results in nationalism with colonialism, they have to know it impossible to deeply rely again on the State Shinto in the form of Yasukuni Shrine that had ever promoted both of nationalism and colonialism at the cost of many lives.
Attention! It is quite a forged cultural concept to refer to its origin being traced back to remote antiquity. Because the Ysukuni itself had belonged to the State since 1869. This is the reason why the Yasukuni Shrine never worships anyone but the State wars. Wake up and never play tautological nightmare.

by takashihonda



PROPOSITIO XVI. Ex necessitate divinae naturae infinita infinitis modis (hoc est, omnia, quae sub intellectum infinitum cadere possunt) sequi debent.

定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。


BBCのアンケート調査によると、日本はイラクと並ぶ世界第五位となった。ヤバいね、この数字は。英国は戦後も,この前のイラクやアフガニスタンまでずっと戦争に関わってきたからね、戦争に鼻がきくのさ。が、英国が1パーセントというのは変。英国は必ず米国とともに戦争に行くので24%でなければ

アンケート調査によると、日本はイラクと並ぶ世界第五位となった. ところで委任大使だった大蔵官僚の父のせいで、このわたしなんかは子供時代に行ったオーストラリアでは、戦争記憶が生々しくある、しかも白豪主義の最後の方の年に、そりゃー、お友達の誕生日partyでは「お前は悪魔の国からきた子供だから帰れ!」と追い出されたり、そういう体験話を沢山もっている者です。四年間いたイギリスの琵琶湖放送、いや、BBCでしたか、そのアンケート調査は、(偏見のない完璧は望めないでしょうが)、日本の現実をリアルに読んだ結果だと思ってもいいのではないでしょうか。(日本とは大違いの)第四の権力ともよばれるほどの政府に従属していない信頼できる国際報道と高い教育がある国の世論調査は参考になります。打ち明けた話、イギリスは戦後もこの前のイラクやアフガニスタンまでずっと戦争にかかわってきましたからね、戦争に対して鼻がきくんですな。比べると、大抵は日本人は、上にある12か国についてなんの戦争の原因をもっているか全然分からないでしょう。マスコミが騒ぐその国しか分からないことがありますね. このグラフのなかで、イギリスが1パーセントというのはおかしい。イギリスは、アメリカとともに戦争するので、ほんとうは、24パーセントなんですけどね。

Which country do people around the world think is the biggest threat to peace today? とかいてありますから、全世界の人々にきいたアンケート調査ですね。国際報道だからこれができるといえるし、これをもっているイギリスのイメージがやはり高くなるのでしょう。

身体の痕跡として古を蘇させる儀式 ー>'学校へ行くと、「習字」というものがあった。まず姿勢を正せ。スズリはこうやってするものだ。ペチャペチャしゃべるな。無言でスミをすりながら、精神の統一をはかる。という様なことを先生が厳めしい顔で講釈してやるものだから、全く「習字」嫌いになった'(小田実)

海外で日本の文化を知ってもらう文化交流のイベントでは、日本語を学び始めた外国人に習字を体験させる。英語ができない習字何段の日本人の中には、「言葉で説明しなくとも、私が言いたいことを彼らは心の中でちゃんと分かっている筈だ」と言う。この勝手に思い込んだ以心伝心こそは一人よがりな愛国心

小田実と共有するものといえば、習字嫌いとなった学校での体験。子供ながら、国体的?身体の技に反発をもったんだな、気がついていなかったけれど。そういうことにしておこう(笑)

小田実と共有するものといえば、習字嫌いとなった学校での体験。子供ながら、国体的身体の技に反発をもったんだな、気がついていなかったけれど。そういうことにしておこう。 ところで、昔は'青い空'とかだったが、最近スーパで掲示されている優秀作品は、'税金申告'の字。やはり国体概念だ(笑)


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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年 1月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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