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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年1月 (後半)

<<   作成日時 : 2014/01/14 01:00   >>

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公共放送はいかに、NHKから自立するか?

NHK新会長に籾井が、経営委員に百田尚樹、長谷川三千子が 就いた。一体これは何を意味するか?いまNHKが安倍の私有財産として奪われつつあるという事態を認識しなければ、このまま取り返すことが不可能になってくる。はっきりいってもうすでに遅いのかもしれない。

この頓馬は、国家主義ボケ。人の気持ちがわからないこの無感覚な言い方が世界を呆れさせていることにまだ気がつかない。

ー>NHK籾井新会長「従軍慰安婦、どこの国にもあった」


世界が呆れているのは、自分がアジアの国際的緊張状態を作り出している張本人であるのに、第一次大戦前の欧州の政治状況との類似を公然と外国報道者を前に口にする安倍の無恥と政治的鈍感さに対してだ。通訳のせいではない。彼は国家主義ボケだ。この国の政治を国家主義ボケにまかせておいてよいのか。子安宣邦



九十年代以降日本の現代アートは自己のコミュニケーション能力の低さをテーマとした自虐的な作品を売り物にしてきました。これと瓜二つなのが、安倍首相。この男は、機械的に、ひたすら問いを問いでかえすというグロテスクな同義反復に酔っています。横柄ともいえる、'良識'に耳をかさぬ幼稚な態度に。さて、前者は、マーケットでの金の話題はあるけれども、私の知る限りでは、海外ではそれらの作品についての批評をきいたことがありません。(宣伝は溢れてますが。) 一方安倍首相を称えるのも世論の支持率のみで、海外からは軽蔑されているだけですね。厄介なことに、これが、現代アートの‘日本人"を伝えるステレオタイプを商業的に助けていくという悪循環。この代償としては、やはり、ステレオタイプに刷り込まれた (つまり'思い込んだ') 多くの外国人を前に日常的に話ができなくなってしまうという息苦しさが。とくに、海外に出た女性達からのこの種の不満を沢山ききましたよ。英語が下手とか文化の差とかそういう事情では説明しきれないのですね

日本の現代アートは自己のコミュニケーション能力の低さをテーマとした自虐的な作品を売り物にしているように、安倍は問いを問いでかえす幼稚な同義反復に酔う。前者は、金の話題はあるが、海外では作品についての批評は殆ど皆無だ。安倍を称えるのも世論の支持率のみで、海外では軽蔑されているだけだ

この頓馬は、小さな幸福の囚われ。現在のわれわれと将来のかれらの真ん中にあるテーブルがまだみえません。人々が危険な原発にNO!と言い始めたのは、人々が自分がもっているあるもの、他者と共有しているものを、地上における自分の生命よりも永続させようと望んでいるからです。家族でもなく、民族 (日本人)でもなく、また強い国家でもない、公的領域の空間が独立して存在することを、3・11を契機に気がつきました。まだ気がつかない人々もいます。でも時間の問題。この公的領域の空間が、テーブルがその周りに座っている人々の真ん中に位置しているように、現在のわれわれと将来のかれらの真ん中にあることを知ることになるでしょう。

ー>舛添「自分たちの生活、日々の生活、家族の命、皆さんの財産・生命、これが一番大事なんです」


The asset to the USA is coexistence of different values. The asset to Europe is accomplishment of planned public wealth as the social security. And the plus asset to the Third World is to have got the right of self-determination in the process of struggling against the colonial rule. Not only Japan has the negative asset, but any nation does it. Therefore I think it important for any people to set themselves right. What Japanese has to do is, however menacing the other nation may be seemingly, to resolutely bring up the pacifism that it has ever got by overcoming its minus asset to own plus asset after the Second World War. (Makoto Oda, "Never kill but understand them'1994, trans.by takashihonda)

それを言うなといわれても何度でも言うさ。忘れてもらっては困るよ。日本経済はね、3・11前まで不況の底に向かっていたんだ。だから'原発無くして経済成長なし'は大嘘だ。そして現在、脱原発の公約も、最後に杭を打たれて死んだのか死ななかったのかはっきりと分からぬ二流、三流のドラキュラ映画のようではいけない。別に、科学を捨てろと言っているわけではない。言いたい事は、科学に属さないものも必要とされているということだ。つまり、科学とは自らを実験と数学の真実性に託すのに対して、政治的に決めることは、他の生命を尊重する理性の内部から理性に即して決めることである。もはや安全ではあり得ぬと政治的に決めた原発に、また原発推進の一体構造<政財官>の腐敗に対して、理性からの決定的な一撃を!

ミシェル・フーコー ‏
エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない。−主体の解釈学−



Ce qui définit précisément les machine désirantes, c'est leur pouvoir de connexion à l'infini, en tous sens et dans toutes les directions. (D+G,L'ANTI-OEDIPE)

ドゥルーズが相撲について語っている珍しい文章です。

相撲の力士が進み出るときの動きは目にとまるには遅すぎるし、技を放つ瞬間は目にとまるには速すぎ、あまりに唐突だ。C'est comme les énormes lutteurs japonais don't l'avance est trop et la prise trop rapide et soudaine pour être vues

(コメント) JIM JARMUSCH (ジャームッシュ) の新作 'Only lovers left alive' で描かれる吸血鬼も「無限の遅さ」'これからなにが起こるんだろう?'という謎めいたカリスマと、「無限の速さ」'いま、なにが起こったのだろう'と分からぬスピードで血のボトルを取り上げています。「無限の遅さ」「無限の速さ」は、ゴダールの80年代作品「勝手に生きろ」(表題の英訳は 'slow motion') において切り開かれた表現領域でした。「映画史」はその結集。と、実はこれこそが、運動は本質的に知覚しえぬものと関係することをテーマにした、映画の新しい方向といえるものですね

La movement est dans un rapport essential avec l'imperceptible, ile est par nature imperceptible. C'est que la perception ne peut saisir le movement que comme la transition d'un mobile ou le développement d'une forme. Les mouvements, et les devenirs, c'est-à-dire les purs rapports de vitesse et de lenteur, les purs affects, sont en dessous ou au-dessus du seuil de perception. San doute les seuils de perception sont relatifs, il y en aura donc toujours un capable de saisir ce qui échappe à un autre; l'oeil de l'aigle... Mais le seuil adèquat, à son tour, ne pourra procèder qu'en function d'une forme perceptible et d'un sujet perçu , apercu. Si bien que le movement pour lui-même continue à se passer ailleurs; si l'on constitue la perception en série, le movement se fait toujours au-delà du seuil maximal et en deçà du seuil minimal, dans des intervalles en expansion ou en contraction (micro-intervalles). C'est comme les énormes lutteurs japonais don't l'avance est trop et la prise trop rapide et soudaine pour être vues. (...) Il faudrait atteindre au seuil photographique ou cinématographique, mais, par rapport à la photo, le movement et l'effect se sont encore réfugies au-dessus ou en dessous.
(Deleuze=Guattari, L'ANTI-OEDIPE)


天皇陛下万歳とかみな言って八月十五日になったら泣いておったという人は、みな左翼になったんだよ。私みたいにブラブラしているやつはならへんの。それが非常に大事なの。ブラブラして箸にも棒にもかからんやついるやろ。これが社会の中核になると、それは市民なのよ。『都市と科学の論理』1999年

さて、 NHK経営委員会委員の服務に関する準則 第2条では、経営委員会委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って・・・誠実にその職責を果たさなければならない、とあります。そこで、(経営委員のくせに田母神氏を支持するというツイートをしていいのか?という数多くのツイートの問いにたいして) 百田氏は "いいんだ'と答えています。この人の中には、"いいんだ"がある以上、一応 "だめなんだ"もあるんでしょうから、すくなくとも、公の場では中立の立場を守る義務があることは知っているはずです(そう望みます。) どうも、ツィッターがその公の場であるとは思っていないようですね。つまりプライベートの空間としかみなしていません。恐らく彼も承知していなければならないように、実際は、ツイッターで発信した言葉は名誉棄損の対象にもなるのに、です。つまりプライベート<かつ>公共というのがツイッターというネットでの約束事なのですが、しかしこういう人物に深く蝕んでいるのは、ひたすら、敵<か>味方、という二者択一。結局そこから、単純に、目の前には、敵しかいないという直接主義的、特攻隊的視野が。それにしても、言論の危機が叫ばれている現在の状況のことを考えると、これは、大きな悪とはいえずとも、見逃すことが許されない小さな悪ではないかとおもいます。<安倍の'集団安全保障体制'><危険な原発を輸出する>という巨大な悪よりも、百田氏に顕著な、'いいんだ'という小さな悪の集積が「誠実」を腐敗させていくとわたしは心配です。ちなみに今回のことに関しては、私が知る限り、保守リベラルなんかが真剣にもっと声を上げるべき事柄と思いますが、わたしが知る限り、完全に沈黙していますね。どうしたのでしょうか、死んでいるんでしょうか?

この頓馬は、都知事選の特定候補者への支持をtwitterで公表している。NHK経営委員としての誠実さを全くもっていない。ところで他のところでこんなことも言っているのには呆れた。'敵軍の撤退'の前に、この人の仲間から、後ろから、ズドンと撃たれてしまいそう。 "いいんだ"と
ー>「戦争になったら9条信者を最前線に送り“下がれ!こちらには9条があるんだぞ!”と叫ばせればいい。敵軍が撤退したら9条は本物」(百田尚樹)

ホホ〜、'ポストモダニズム'もニャ

'アヴァンギャルドという概念は啓蒙を必要とする。'エンツェンスベルガー Enzensberger 『現代の詩と政治』

ひとつの大きな悪よりも、小さな悪の集積が「誠実」を腐敗させていくかもしれない。大きな悪と闘う人々の傍らで、今小さな悪が行われている ー>NHK経営委員会委員の服務に関する準則 第2条 経営委員会委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って・・・誠実にその職責を果たさなければならない

大きな悪よりも、小さな悪の集積が民主主義を腐敗させていくものだ。都知事選挙を前に、大きな悪と闘う人々が見逃している、小さな悪がある。ー>NHK経営委員会委員の服務に関する準則 第2条 経営委員会委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って・・・誠実にその職責を果たさなければならない

99%は、映画といえば、化粧とコスチュームと制作費。他に、観た映画について思い出す語り口は大抵、旅行者のそれと似てくるから不思議だ。外国は自分の国とは「逆さ」だったから驚いたという例のお土産話のこと。おそらく、もっぱら自分の国の優越感から対象について語るので「逆さ」になっている。語る人は自分では気がつかないものなのだ。これが99%の意識。さてもしあなたは照明とか編集とかの話をしたら、あなたはマイナーな1%に属している。さらに、あなたが映画には歴史があったと変な話はじめたとしたら、間違いなくあなたは一人ぽっち、すなわち、ゴダールである!


99%は、映画といえば、化粧とコスチュームと制作費。他に、観た映画について思い出す語り口は大抵、旅行者のそれと似てくるから不思議だ。外国は自分の国とは「逆さ」だったから驚いたという例のお土産話のこと。おそらく、もっぱら自分の国の優越感から対象について語るので「逆さ」になっているのだが、語る人は自分では気がつかないものなのだ。これが99%の意識。さてもしあなたは照明とか編集の話をしたらマイナーな1%に属する。さらにあなたが映画には歴史があったと変な話はじめたとしたら、間違いなくあなたは一人ぽっち、即ち、ゴダールである!


ホホ〜、一日何回きいたんだろうね?十代のときは、高校生のときは、これに超はまったニャリ。ブルックナーは、これでもかこれどもかと反復するところになにか哲学的瞑想を見出す人たちが多いんだけど、それよりも、自分的には、都会的なワグナーが響いてきたり詩的な流離のマーラが忍び込んできたり色々と変化に浸ることができるのが楽しい。(よくわからないが)、カトリック神秘主義の啓示みたいな方向にまとめられてくる感じに高まってくると、あかん!息苦しく退屈で逃げ出したくなるけどね。(ドゥルーズ読みとしては、シューマンとかヴェルディはOKでも、やはりブルクナーの話題は出せんよなー) Abbado の冥福を祈ります。

千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏
つまり人間が動物に<なる>のは、なんらかの手段と要素を使って、動物の微粒子に特有の運動と静止の関係に組み込まれるような微粒子を放出する場合にかぎられる。
彼らが犬との関係においてあらわしているのはオイディプス型の象徴的関係というよりも、むしろ非人間的な共謀であるということだ。[(中)p237]


ホホ〜、ルードヴィッフもそうだったが、自分が観る映画はなぜこうも観客が少ないのかえ?昨日銀座で観た、八十年代が漂うジャームッシュOnly lovers left aliveは、追い遣られた文化スノビズムと評するには、ロックしかないしね、アメリカの文化は、それはそれで立派なんだけどさ。ゴダールの如き'ヨーロッパ'を観ると16世紀から来た旧大陸の吸血鬼にみえるんかと深読み的に勘繰ってしまったが。Youtubeの若者には二時間は長い?嗚呼、スターバックス隆盛の時代に、映画は消滅していくことになるのかな、と、さむーい帰り道にブツブツと考えたニャリ

エンツェンスベルガーbot ‏@EnzensbergerBot 2分
「すべてのイギリス人はウソつきである。だが、それを言っているのが私であるとすれば、どうなるか?なにしろ私はイギリス人なのだ。とすれば、私もウソをついていることになる。だが、そうなると、さっき私は『すべてのイギリス人はウソつきである』と言ったが、それがホントウではないことになる。」



公共放送の経営委員である者が、
このツイッターの場で、
特定の候補者への支持を発表することについて、
倫理的な問題を構成しないのだろうか?

定理二〇 神の存在とその本質とは同一である。

PROPOSITIO XX. Dei existentia eiusque essentia unum et idem sunt


定理一九 神あるいは神のすべての属性は永遠である。

PROPOSITIO XIX. Deus sive omnia Dei attributa sunt aeterna.

定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない

PROPOSITIO XVIII. Deus est omnium rerum causa immanens, non vero transiens.

千のプラトー:資本主義と分裂症
つまりあらゆる種類の分子や微粒子のあいだに、運動と静止の、速さと遅さの関係が認められるだけなのだ。ここには<此性>や情動や主体なき個体化の他には何もなく、これらがさまざまな集団的アレンジメントを構成する。発展するものは何もない。ただ遅く、あるいは早く到来するさまざまな要素が、その速度の組み合わせに応じてなんらかのアレンジメントを形作るのだ。主体化をとげるものは何もない。ただ、主体化されざる力能や情動の組み合わせに応じて、さまざま0な<此性>が形作られるだけだ。(…)このような、経度と緯度、速度と<此性>しか知らないプランを、われわれは(組織と発展の平面(プラン)に対立させて)存立ないしは構成の平面(プラン)と呼ぶ。[(中)p220-221]
プランは組織の原理ではなく、伝達の手段なのである。いかなる形態も発展することがなく、いかなる主体も形成されることがない。たださまざまな情動が循環し、さまざまな生成変化が射ち出され、それがブロックをなすのだ。[(中)p224]



エピクテトス

「わたしは名誉のない人生を送る、つまらない馬の骨だろう」といった考えに悩まされないようにせよ。もし名誉のないことが悪であるにしても、きみは他者による悪には関与しようがない。そして自分の権内にある物事においてひとかどの人物であるきみが、どこにいても馬の骨だということがあるだろうか?

死や追放や、その他恐ろしく思われるすべての事柄をいつも目の前に思い浮かべよ。とりわけ死を。そうすればきみは決して卑しい考えを受け入れないし、度を超えて欲望することもないだろう。


この頓馬は、<凡庸な悪>の右翼的トートロジー。秘密保護法(国)を守る為には秘密保護法(国)を守る、と同じことを繰り返している自分の絶望的な思考停止を「自信」と思い込む
ー>長谷部恭男 (秘密保護法に賛成した東大教授)「国を守るためです。なぜみなさんは、そんなに自信がないのですか」

エンツェンスベルガー Enzensberger

ブレヒトの描写は、例えばレームのような、ぎりぎりのところでゲーリングの様な伝統的な暴漢のタイプには、あてはまるかもしれないが、しかしハイドリヒやボルマンやヘスといった連中に対しては、いかにも古臭い。後者の様な連中は、遥かに抽象化された構造をもつ社会「秩序」の存在を前提としている。



語りたくない個人的体験

昔、酷いリウマチを長く患った母に付き添って行ったその民間治療の道場は、九段下にあった。ある日待合室で、母が、先にきていたある人物を指さし、ひそひそと熊本県知事だと小声で告げてきた。それがどうした?と興味もなかったが、その整体道場の創始者野口氏が駆け落ちしたのが近衛文麿の娘で、その姉妹の子供だと母はいう。ますます整理がつかない。しかし当時、今日のように、応仁の乱の話を持ち出されていたとしたら、間違いなくなにがなんだか分からなくなったことだろう。今日、安倍の<祀る国家、戦う国家><原発輸出する国家>を批判するためには、応仁の乱まで遡る必要もないのだ。むしろ、近衛の昭和研究会とは何か、と、問う方がずっとリアルで役立つとおもう。ときは、1930年代後半。もう中国で戦争をしていた時代。三木清がいた東亜協同体論について反省してみると、排他的なナショナリズムの超克の主張はそれなりに意義があり無視することもできないが、日本の中心的役割を過大評価すれば大東共栄圏に陥いる必然のことも忘却できないのである。反復してくる悪夢からいかに目覚めるか?


この頓馬は、放射能汚染のコントロールできていなかった重大な事実を隠して「五輪」を盗んできた迷惑の方がよほど悪質だとすら気がつかない。返上して騙した罪を世界に償うたいぐらい恥ずかしいのにー>「今から(原発)ゼロなら、五輪を返上するしかなくなる。世界に対して迷惑をかける」(森元首相)


七十年代ラディカリズムの思想。ドゥルーズ的にいえば、'生産'とは、概念の'生産'のことさと言おうとしているんだろうね。概念の'登録' 、概念の '消費' は各々、'書くこと'、'参照すること'。概念の生産によって、同じ概念に留まらず絶えず乗り越えていくことがポイント。'エクリチュールそれ自身' (デリダ) なんか何の役に立つのか!という声がきこえてくる->「...すなわち生産はそのまま消費であり、登録なのである。登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。だから、すべては生産なのだ」 (訳がなあ...)
Tout est si bien production que les enregistrements sont immédiatement consommés, consumes, et les consommations directement reproduites. Tel est le premier sens de processus; porter l'enregistrement et la consummation dans la production même, en faire les production d'un même procès


朱子学 (儒学)は、帝国としての清朝を支える帝国としてのイデオロギーでした。いわゆる中華思想。まったく知らない著者なので、ここに示された一文だけから判断するしかないわけですが、「統治のために族長を長官(ベク)として任命し、法律事件はイスラム法により処理」したとあるように、清朝は帝国である以上、ナショナルなものとはかかわらなかったと読めるとおもいます。イスラムに関係があるようにみえる、そのナショナルなもの(19世紀的なナショナリズムとは同じではありません)はどうでもよかった特殊な利害関係ですー帝国の統治の普遍主義にとってはですね。ところで、イエズス会士が初期儒教を受け入れたのは、天の信仰がテーマとなってくる十六世紀的同時代性のことを考えさせられ興味深い話です。

これに関しては、訳によるとおもうのですが、その国家が近代国家を意味するとすれば、19世紀的なテーマに言及している可能性があるとおもうのです。ところで、中国を中心とした東アジアに属していた徳川日本に例をとりますと、18世紀の本居宣長のように、儒学の普遍主義をみとめない思想家がでてきます。すでに18世紀京都の朱子学者からは、中華思想に属さないナショナルな意識をもっています。ピラミッドの頂点に位置する帝国の中国を一国家として格下げして、その帝国イデオロギーを'国家儒教'と水平的にみなす言い方ですね。(19世紀な国家概念はまだあらわれませんが)。ちなみに、ヨーロッパのメディアが注目しているところですが、中国とイスラムは共にあった長い歴史があるんですね。現在関係もわるくありません。世界史に詳しかったアフリカ人の友達が言ってましたが、中国はいまはアフリカとつきあっているが、将来はかならずイスラムをペアにしていくだろうと。中近東も、アメリカだけのプレー・グラウンドではなくなてくることでしょう

陪審員制だけでなく、やはり法曹一元化が必要でしょう。裁判官と検事と弁護士のあいだに、mobilityがあることが大切とおもうのです。というか、もうそれしかないでしょう。あと、免田事件をあつかったときの経験から、倉田弁護士は、犯人が分からない場合に被害者を援助していく法体制が必要と言っていたことを思いだしました

ホホ〜、ふくろうはふくろうであり、猫は猫です。そして弁護士は弁護士ニャリ。弁護士としての実績に訴えたところでは、都知事としてのアイデンティティーになにも加わることはありません。それよりもいまもっと大切なのは、都知事の再定義を行うことではないでしょうか。都知事とはどうあるべきか?なにができるか?そしてもちろん宇都宮自身はなにを望むかです。訴えたことが記憶されれば、美人投票の如きテレビ選挙ゲームを超えて、選挙後にあらわれる、真の、影の都知事として存在してみせることだって不可能ではないでしょう。わたしならこの方向で

倉田弁護士が嘆いていたんですが、研修のときの試験は、限られた時間のなかで、膨大な資料(弁護側・検察側の証拠資料)を読んで判決文を書かなければならないんだそうです。結局検察が出した証拠を読むのが精一杯なんですが、それを読んでいればとりあえず書いた判決文は合格点。弁護側の証拠資料まっで読んだ人はまず判決文が書く時間がなく大抵は不合格となる、と。わかりますね。こうして、検察の言うなりの若い裁判官たちが製造されていくことになることが。弁護側の証拠資料を軽視していく、冤罪の原因のひとつです。ベテランの口の悪い弁護士は、日本ノ刑事裁判は、検察官の起訴状が証拠とされていると指摘します

ホホ〜、経済はデフレ、「えらいさん」はインフレ

"彼ら(政治家・官僚・評論家…)は、つまるところ、「思想人」でもなければ、「イデオロギー人」でもなく、「現実人」であった。そこのところで、「えらいさん」ということになっていたのだから、現実の認識と判断がまちがったのなら、これはもうひきさがるのが当然でしょう" 小田実

オリエンタリズムとはなにか?

ヨーロッパがアジアを語るとき不可避的に制約されるのが、オリエンタリズムだ。例えば、アジアは純粋な理性がなく想像力と宗教に根づくとする言説がオリエンタリズムの類だ。(帝国主義の時代は、だからこそ、完全な理性をもつヨーロッパが、子供のように不完全な理性しかもたぬアジアを監督し代理するという結論が導かれた。アメリカはこの理屈で、'政府'がないとして中近東を勝手に支配してきたし、これからも力に訴えて支配し続けるだろう) さてそのオリエンタリズムは現在、日本のアカデミズムが描く中国の風景に介入している。ヨーロッパのオリエンタリストがアジアを語るように、日本の知識人は中国を語り始めた。例えば、官僚資本主義というには、<資本の純粋な運動すらなく官僚も孔孟倫理に立つ>とするオリエンタリズム的解釈だ。海外ジャーナリズムは'儒教と資本主義のポストモダン的融合'と揶揄されているけれども、<反資本主義の政府の官僚達は孔孟倫理に立つとする>この言説が日本の知識人を捉えている。厄介なのは、だからこそ、その政府を批判する人々は資本主義の側だとネトウヨ的に単純に決めつける思い込みが伴う。天安門広場の人々に、反反資本主義(即ち資本主義)のレッテルを一方的に貼り付けている。竹内好的中国観に影響されている者もいる。これは考えさせられる問題だ。実はこれは柄谷的オリエンタリズムの意味の病にほかならない。

ヨーロッパがアジアを語るとき不可避的にオリエンタリズムに制約される。アジアは純粋な理性がなく想像力と宗教に根づくとする言説だ。そのオリエンタリズムは現在、日本のアカデミズムが描く中国の風景に介入する。官僚資本主義というには、資本の純粋な運動すらなく官僚も孔孟倫理に立つとする解釈だ。

海外ジャーナリズムは'儒教と資本主義のポストモダン的融合'と揶揄するが、反資本主義の政府の官僚達は孔孟倫理に立つとするこの言説が日本の知識人を捉えているのはやはり驚きだ。だからその政府を批判する者は資本主義の側にちがいないと単純に決めつける思い込みは、竹内好的中国観に影響されていても、柄谷的オリエンタリズムの意味の病である


小津安二郎監督は、日本人の清らかさと慎ましさを愛したといわれます。この評価は、それ以上でもそれ以下のことでもなく、その通りだと思っていましたが、それが徹底して道徳を映画に求めた態度というポイントは全く見落としていました。徹底して道徳的であることとは、力を中心とした政治から逃げること。言い換えると、徹底して道徳的であることとは、かつて戦争を推進してきた国民道徳とは相容れない<他>のものです。戦争体験をもった小津監督は、トラウマがありました。戦争が、その対極にある、道徳としての映画の領域に小津を避難させたということにわたしはやっと気がつきました。遅し!


小津監督は、日本人の清らかさと慎ましさを愛したことはその通りと思っていたが、それが徹底して道徳を映画に求めた態度というポイントは見落としていた。徹底して道徳的であることとは、力を中心とした政治から逃げること。戦争体験が小津監督を、道徳としての映画の領域に避難させたという考えに同意

反権威的左翼とは理念的なもの。反権力の左翼とて反権威的とは限らぬ。権力を持ちたい欲求の対抗的裏返しとして反権力であるが、話をきく限り、この人は反権威的な右翼かなと疑ってしまうことがある。自分的には、外部的に周辺に向かって動くことが望ましい。動かずでは、やはり反証の精神が眠りこける


子安宣邦

仁斎の古義学とは『論語』の方法的に革新された読み方である。彼はそれを「古人の正方」だとした。この正方をもって経典テキストに対した時、無物の地に忽然として物が有るかのように見えてくるであろうという。「昨日既に読む所、今日又始て読むが如く、言言新たに、句句新たならん。」(『童子問』)

『思想史家が読む論語』の中国語版の序の文章を書き始めた。簡単ではない。『国家と祭祀』や『アジア論』の中国語訳に際しては、中国の読者のためにいうべきことをすでに私はもっていた。だから殆ど書き迷うことなく中国語版の序の文章を私は書くことができた。だが『論語論』については同様ではない。

私の『論語論』の中国語訳の話が出た時、若い中国の研究者はいった。「この翻訳が出ても、結局は中国の国学(儒学)意識を高めることになるだけだろう」と。ほらこの通り『論語』は世界的なのだという中国人の自国意識を強めるだけだというのだ。その推察はよく分かる。その通りかもしれない。

だが中国の編集者は日本思想史家としての私のいわば〈外部的〉な『論語』の読みを評価してくれたのである。『論語』の本家である中国に私の『論語論』がもちうる意味を認めてくれたのである。私はこれに応えなければならない。どのように応えるか。


私は市民講座で『論語』の講義を伊藤仁斎によりながらしてきた。ある時期から私にも『論語』が読めるように思われてきた。それ以来、私は『論語』を読み、それを語ることの喜びを知るようになった。日本思想史家におけるこの『論語』体験の意味を、私はあの序の文章として真っ正面から書くしかない。



脱原発こそが日本という悪夢を終わらせる、と、真実を告げる候補者はひとりもいないのか!?





私は学者ではないので、間違ったことを要領悪く書いてもどうぞご勘弁していただきたいと申し上げた上で、二つ書き留めておこうとおもいます。最初に、たとえば、バレンボイムが強調する点で、べートベンの「第九交響曲」は独立してあるわけではなく、たまたま出版社の事情で切り取られた部分が「第九交響曲」と呼ばれているに過ぎないのであって、本来はその部分は全体の中で評価すべきだと。同様なことは、「資本論」についてもいえるかと思います。われわれの「資本論」(!)で「自己増殖する価値」と規定しても、マルクスの他の本で、国家もその資本と規定していると解釈できるような記述がないのかという点です。わたしはいまは分かりませんが、全部を読み返したら、きっとあるだろうと思っています。ところで、私は長年、産業革命がなかったアイルランドにいました。こんな産業革命がなかった国は、ヨーロッパの一部を除いて世界の多数派なんですよ。またイギリスなどから、法律によって、民族資本の成長の可能性が徹底的に取り除かれたこともあります。ちなみに、ポストコロニアリズムの研究には、労働者が殆ど存在しなかった(資本家もいないのですからあたりまえです)アイルランドが、ソビエトと中国のモデルになったという分析があります。が、詳細は省きます。色々なパターンがありますが、そういう国々は、新しい国家が資本主義の条件を創り出していったことはおなじです。長くなりましたが、ここで、もうひとつの点についてお話できるのですが、現在の中国に関していうと、共産党のエスタブリッシュメントの孫たちがどれだけの数がいてどれだけの国富を持っているかよかったらぜひ調べてみてください。おそらく中国の官僚資本主義の側面がより具体的にみえてくるのではないかとおもいます。これは理論というよりは、調べられる範囲の事実の話です。そして、もし「公益の認識で動いている」というのならば、なぜ、天安門広場で人々の抗議があったかという問題です。柄谷行人は、それを非政治的な出来事として解釈をしていますが、まさに、その解釈が政治的だと言わざるをえません。(余計な話ですが、それにしてはですね、野心家の柄谷は中国になにかあると思っていてずっと書いてますねー日本に決定的ななにかをもたらす政治でしょうか)

月に二回勉強させてもらっている子安宣邦氏は東大助手だったときは、この溝口雄三が中国研究の教授だった時期でした。昨年は、溝口氏が中国共産党のVIPとなっていることを大変嘆いていました。現在の中国が官僚資本主義としてあることについては、もはや異論を唱える者は世界に存在せず、(ル・モンド紙もそうですよ)、ただそれが帝国主義かについての論争があるだけです。ところが、日本の知識人だけはこれに背を向けています。自信たっぷりに、天安門広場の抗議者を無視するその態度は、嘗て原発安全神話を押し付けてきた国の態度と瓜二つ、ホントですよ。子安氏は、劉暁波擁護のために、岩波書店を告発しましたが、まったく論壇から無視されてしまい、孤立する中、結局ツイッター世界にきました。三年前わたしはビックリしましたが、大歓迎。以来、月に二回の勉強会で親しくさせてもらっています。


ヤバいね、この国の「公共哲学」とやらは。フェースブックで、中国における官僚資本主義のあり方について書いたら、溝口雄三の論文を読んだ者からこんな反論を受けた。曰く、'中国社会の知的部分において、社会主義の理念に対する支持は意外にある。それは孔孟思想にねざすと言ってもいい。中国のエリート土着の理念に親和性が高いから。天安門事件の契機となった民主化運動は、「民主」を主要スローガンとし、「自由」は登場しなかった。ニューヨークの「自由の女神」を模した粗末な像も「民主の女神」と名付けられた。中国の成金たちは、「自由」が大好きで、こういう知的土壌が、中国最高指導部をして、彼らを意識的に資本主義に向かわせることをためらわせているのだと思う'。

現在の中国が官僚資本主義としてあることについては、異論を唱える者は世界に存在せず、ただそれが帝国主義かについての論争があるだけだ。が、日本の知識人とその読者は全く孤立している。天安門広場の抗議者を無視するその高慢な態度は、嘗て原発安全神話を押し付けてきた国の態度と瓜二つ、ホントよ


イギリス軍を明日取り除き、ダブリン・キャッスルの上に緑の旗を掲げたとしても、社会主義共和国を建てなければ、諸君の努力は無駄となる。イギリスは、この国に植えつけ、我らの母の涙と殉教者の血で育てられた、資本家、地主、金融業者を通じて、諸君を支配し続ける。-ジェームズ・コネリー

ローザ・ルクセンブルグがポーランドを、トロツキーはアイルランドを注目していました。ダブリンでの大衆運動である、1916年のイースター蜂起に大きな期待がありました。'緑'の革命ではなく'赤'い革命でした。が、運動のエネルギーが宗教に吸収され民族主義が起きてくる結末に失望しました。この結末を冷静に判断したのはレーニン。ロシアでは大衆運動ではなく、前衛主導の革命でいくことを決めたといいます。アイルランドの独立を描いた通俗的な作品(ニール・ジョーダン「マイケル・コリンズ」)にも描かれますが、独立を早く承認したのがソビエトだったのは決して偶然ではありません。ラディカルな神秘主義の宗教は国家という宗教に転位しなければならぬというヘーゲルの認識があります。これは、アイルランドに即して考えますと、1970年に南アイルランドがEUに加盟し外国資本導入を決めた歴史ですね。具体的には、アイルランドはイギリスからの経済的支配に依らずして、ドイツとアメリカから経済的な支援を受けることを決めました。(ソーシアリズムの独と、市場主義の米国の間にいるという大変難しいバランスです) さて、南アイルランド政府はそのために、六つの州を除いたイギリス領の北アイルランド紛争地の超カトリックの民族主義者と関係を断つと発表しました。これは、国家は、宗教と民族主義から独立することによってしか、成り立たないという例ではないでしょうか。そこから、(あくまでも私の理解ですが、アイルランド的な) 市民社会とヘーゲルがよんだ経済システムが成り立つということです。こうして、国家として南アイルランドは、平穏な経済的繁栄('ケルトの虎')を享受していくことになりますーリーマンショックの世界金融カオスまで。ただしこれは、宗教・民族紛争のアイルランド問題を切り捨てたところで成り立つ繁栄ともいえました。また市民社会といっても、イラク戦争のときに限界に立ちました。なぜなら、アメリカは投資だけでなく、爆撃機も運んでくるからです。その結果、アイルランド人たちが誇りにしていた<中立>が事実上なくなったと考える声もでてきました。アメリカによるい爆撃を抗議すべく、わたしも参加できた十万人の反戦デモはアイルランドの歴史上、規模において最大のデモとなりました.
再びヘーゲルに帰りますと、国家の理念的な成り立ちには、政教分離が欠かせません。アジアのなかで、EUのような国家を超えた共同体ができてこないひとつの理由に、民族主義が、たとえば、靖国問題のように宗教によってエスカレートしていく民族主義を断ち切れないという問題があるとおもいます。



関係の絶対性といえば、分割線。対立し合う東の英国と西のアイルランド。分割線は固定されない。アイルランドの内部にも東(ダブリン)と西(ゴルウエイ)との間の分割線がある。そもそも文化的にいってアイルランドは西に属さないのは、チェコが西に属さぬことと同じ。両国とも「西」側世界の「東」だ


吉本は自ら定義することなく独自の概念を使用する。それをどう定義するかは読者に任されている。「関係の絶対性」もその一つだ。私は世界内存在としての人間に不可避な認識上の制約としての党派性と解した。そう解することで、今私が感じている言論上の抑圧は「関係の絶対性』に由来することを覚った

私は何となく目に見えない線が引かれていると感じてきた。私はそれを年齢上の抑圧と思い、年齢差別の不当をいってきた。だがどうも違う。それは吉本のいう「関係性(党派性)」に由来する抑圧であるように思われてきた。恐らく私の「中国論」から来る問題である。事は深く、面倒だ。

だが私が感じている抑圧が、私の年齢から来るものではないことを知ることは私には救いだ。年齢から来る抑圧は私をペシミストにするだけである。〈関係性〉から来る抑圧と知れば、私は今まで通り言論上で戦っていけばよいのだ。吉本を読むことはしんどい作業であったが、私には意味もあった。

ホホ〜、これは初耳。

なんと、ますぞえ猫は、

3年前からずっと脱原発の側に存在したという。

これは量子力学にかんする画期的な学説ですニャリ


脱原発|ますぞえ猫> + 原発推進|ますぞえ猫> = 0


(ただし、ゼロは、'阿呆'と解釈できる)


ふくろう猫の寸劇変態オペラ、絶好調

小泉「殿、弁護士の頭が公開の討論を申し込んで参りました」
細川「庶民の分際で、身分をわきまえよ!」
小泉「殿、学者くずれの者も脱原発と言っております」
細川「庶民の分際で、猿ぐつわをかませよ!」
小泉「殿、民が殿を選びましたぞ」
細川「庶民の分際で、全員打ち首じゃ!!」


We first broke the law in a way which avoided any recourse to violence; when this form was legislated against, and then the government restored to a show of force to crush opposition to its policies, only then did we decide to answer violence with voilence



Creative madnessという言い方があるが、その創造的狂気といえば、ヴィスコンティーのルードヴィッヒ。かの作品に圧倒されない人はいないが、比べると、最新のルードヴィッヒ映画は地味だがそのかわり史実がよく分かる。バイエルンの王がとった平和主義の文化戦略の意義について考えた

最近の映画レストランのメロドラマコースは、コスチュームと化粧では足りずツーリズムも必要。が、たとえ芸術性に乏しくとも、やはり映画である以上、映画は気がつかずに、毒を盛り込んでしまうものなのだ。やはり例外なく、映画が描き出すルードヴィッヒの'城'は、'城'以上のなにかを物語ってしまう。そのなにかは、即ち、イラク反戦以降の左翼の夢。救いは、外部の平和世界から来ると信じる一方、内部の福祉で徹底的に解決すべきだという思いである。意地悪い現実主義者'ビスマルク'たちからは国頼みのジレンマにみえる。(そのビスマルクの現実路線の延長に、ヒトラーのカオスがあったことは見逃されてしまうのだが)。なんといっても、王が城の外での群衆の声を聞く王の姿は、観客の意識に訴えるものなのだろう。と同時に、民主主義の中枢に、王や貴族が居座っているという現代の欺瞞もあらわしている。なににせよ、最新のルードヴィッヒ映画は、娯楽映画とて、ウオールストリート以降の映画としてあらわれてきたことは確かなことだとおもう

改憲反対56% 脱原発6割超 (東京新聞、世論調査)。それなのに、なぜ自民党の舛添に対する支持が一番多いのだろうか?これはジレンマ、はっきりいってしまうと、民主主義を回復する機会を溝に捨てる自己欺瞞の類

成人式なんかやめなさいよ。ただ、20歳になったひとたちに、パスポートを支給すればいい。世界を見て来いよ

送られてきた山積みの商品カタログ本をみる。なんでもあるというから、安売りのキャンバスと油塗料をさがすが、やはりどの頁にもどの項目にも自分の欲望が本のなかに存在しなかった。「集合」という概念について実感をもったのがせめての慰め。商品世界しかないのに世界を描こうとするのは芸術は滑稽だ

大島渚の映画作品はまとまって上映されるが、かれが制作したテレビ・ドキュメンタリティーについては放映も上映もされることはない。イタリアでは、かれの映画作品だけでなくテレビ・ドキュメンタリーも全作品を上映した。例えばイタリアの人々は、日本人が見ることがない「忘れられた皇軍」をみたのだ


講座派の平野は大政翼賛会的だったかどうか勉強しないとはっきりとしたことはいえまん。私の思い違いとはおもうのですが、現在は脱原発の立場ですが、ある時期まで共産党は原発に反対はしていなかったのですね。大学時代たまたまお酒を一緒に飲んだ、NTTの共産党系労働組合のひとも、原発推進派でした。共産党と講座派の関係は正直わからないのですが、両方とも、原発推進に結びつく生産力神話を共有したのではないか、と、これは根拠のない勝手に憶測ですけど、あしからず。ところで、まえから指摘されてはいる点ですが、共産党は決して民族主義を非難しないのですね。原発推進の民族主義から、脱原発の民族主義へと転位したということもあるのではないでしょうか。しかしこれはあくまであやふやな仮説です。


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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年1月 (後半) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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