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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年一月後半(2)

<<   作成日時 : 2014/01/26 10:59   >>

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原発問題を外すと簡単。経済的自由と個人的自由とで整理できてしまう。宇都宮は伝統左翼の位置へ(経済的自由<小>>個人的自由<大>)。舛添は伝統右翼の位置へ(経済的自由<大>)・個人的自由<小>)。細川はポピュリズム的に、経済的自由と個人的自由の組み合せの曖昧なヴァリエーションに行く

原発問題はこれをいかに捉えるか。社会からか?政治からか?経済からか?伝統左翼は原発問題を福祉の問題、即ち社会の問題と位置づけるが、環境系ポピュリズムは政治の問題という認識だ。右翼にとっては、(連合労組と創価学会の期待に沿って)、原発問題は専ら雇用と生活の問題、即ち経済の問題である

ニュースキャスター「小泉神話に陰りが?原因は何ですか」
政治記者「神話は飽和状態です、色々と靖国神話とかクールジャパン神話やらふくろう猫神話やらで。小泉神話は相対的に薄まった可能性があります」
ニュースキャスター「ふくろう猫神話って何ですか?」
政治記者「... (ホホ〜ニャ)」


この頓馬は、石原に劣らぬ女性差別主義者。これを知事にしてしまう東京は、差別を発信しつづける、'ノーマルじゃない、異常'な、国際孤立都市
ー>舛添「女は生理のときはノーマルじゃない。異常です。そんなときに国政の重要な決定、戦争をやるかどうかなんてことを判断されてはたまらない」

日本の悪口だけでなく、アイルランド時代はアイルランドの、英国時代は英国の悪口を言った。渡辺氏が映画を再発見したときは、戯曲の限界と理性の限界について語ったが、これも悪口としたら、主体の理性は、失った外部の代償として、理性の内部からどうしようもなく理性に対する悪口を語るのではないか


Engels_

近代国家は、その形態がどうであれ、本質的に資本主義的な機関であり、資本家の国家であり、観念的な総資本家である。近代国家が生産力を自分の所有に移せば移すほど、それはますます現実の総資本家になるのであり、ますます国民を搾取する(空想から科学へ)


子安宣邦

福島第一原発の実状は日本が国家的総力をあげて取り組まなければならない危険な事態であることを世界は知っている。それを見せまいとしているのが日本の政府であり、それを見ようとしていないのが日本の国民である。この巨大なウソの上に安倍の国家主義的政権がある。

都知事選はわれわれがこの世界と国民にウソをつく政権に加担するものではなく、地球的な危機を生み出しつつある福島原発の現状を直視し、それに責任をもって対応しうる国民であることを世界に示す大事な選挙である。


So Awful is the real condition of the Fukushima first Nuclear Power Plant that the world really knows it is the dangerous situation Japan has to control with concerted efforts. On the one hand it is the Japanese government that won't show its real condition, on the other hand it is the Japanese people that won't see it as it is. Cunningly the Abe's nationalism lies against this hypocrisy.
The election for governor of Tokyo should leads us to a real understanding of the present conditions of Fukushima nuclear power generation bringing about the crisis of contamination global-scale, rather than taking part in the government that tell this world and us a big lie.This election is really decisive. Can Japanese express their idea that they have responsibility for their serious mistake ? Never fall in the self-deception any more !


No, 1 In the screen is a silver pine-cone porous enough to contain a man. It came from the silent world of giants and Godard's fortress

No.2 If you had gone into the square of any my poem, you would hardly have known where you were any more than you would in an airport today

No.3 I am Caravaggeschi ; the human narrative

No.4 However in history all points of supposed perfection have a hint of menance, we see nothing but image of the control of our human faculties


[p・o・e・m] x [t・h・e・a・t・r・e]

In the screen is a silver pine-cone porous enough to contain a man.
It came from the silent world of giants and Godard's fortress ?
If you had gone into the square of any my poem,
you would hardly have known
where you were any more than you would in an airport today.
I am Caravaggeschi ; the human narrative.
However in history all points of supposed perfection have a hint of menance,
we see nothing but image of the control of our human faculties

ファイナンシャル・タイムズですら(失礼!)、今回の都知事選の意義として、脱原発を望む一方、原発推進の政党を支持するジレンマを解消する最後の機会と伝えていたものだ。もはや東京だけの問題ではないことは明らかだ。が、はじまってみると、都民の原発問題に対する関心はそれほど高くなく、もはや脱原発の争点はそのままメインの争点としては成り立たなくなってきた。この間、期待していた海外が受け取ったものといえば、驚くほど非常に少ないのだ。いやらしく、安倍と彼のお友達のNHK経営委員達が次々に発する、国家主義ボケの差別発言だけだ。高慢な靖国公式参拝のことも含めて、毎日恥ずかしく、やりきれない思いと苛立ちのなかにいるのは、このわたしだけではないはずだ。付けくわえて言うと、残念ながら、言論の自己規制と堕落も一層進んできたようだ

Q, 多孔空間にただ<ひとつ>の戦争機械が覆うことがファシズム、とドゥルーズは見抜いていますね。しかし最近の日本のドゥルーズ学者は、それが靖国の問題と関係があるかもしれぬと言うことができないのですか。少なくとも分析がありません。数学とネットの身体感覚しか関心がないようですが?

A, 難しいでしょう、かれら自身が靖国的なら。日本人が勝手に命名した'フランス現代思想'ではありますが、肝心なのは、これを利用して日本の暴力の問題を明らかにしてみせるかにあります。現在直面している日本の暴力の問題を無視しておいて、ドゥルーズたちが分析したヨーロッパのファシズムの問題にしか関心をもたないというのは、なにゆえ正当化できるのでしょうか?大いに疑問ありです。


Q,多孔空間にただ<ひとつ>の戦争機械が覆うことがファシズム、とドゥルーズは言いますが、最近の日本のドゥルーズ学者は、それが靖国かもしれぬと言うことができないのですか。

A,難しいでしょう。かれら自身が靖国的ならです。日本の暴力の問題を無視してなにか語っているつもりなのでしょうか

To live together in the world means essentially that a world of things is between those who have it in common, as a table is located between sit around it ; the world, like every in-between, relates and separates men at the same time. - Hannah Arendt ;'The Human Condition'
世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人びとの真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。ハンナ・アーレント「人間の条件」


福沢諭吉の'脱アジア'は明治以降の主張です。福沢の'脱アジア'は、新しく成立してくる明治国家を、アジアから切り離そうという革命的決心でありますが、逆にいうと、それを言わなくてはならないほど、江戸時代はアジアの中のアイデンティティに依拠していたと読み取ることも可能です。江戸以前は、アジアのどの国もそうですが、帝国としての中国 = 朱子学思想の普遍主義、(今日で言えば、アメリカ = 民主主義 のようなもの) に依存していました。ところが、宋から清の時代に入ると、(圧倒的とおもわれていた) 中国の権威の没落が意識されてきますと、これを契機に、(学問と文化をになっていた) 京都の朱子学者たちの間で、中国に定位していた普遍主義が二極化していくのですね。(中華帝国から自立した形で) 理念化を徹底化していく方向と、(明治維新に至る)ナショナリズムの方向です('中国'という名称が消え、'支那'‘満州'という言葉が使われるのはこの頃といわれています)
幕末の福沢諭吉はおそらく、(中国朱子学の解体のあとに) 徹底した理念化の方向に沿って未来を考えた、江戸最後の思想家として位置づけることもできるかもしれません。ご存知の例の、学問のすすめのなかで、「道徳」批判によって、明治国家が陥るかもしれない行き過ぎた神権的ナショナリズムの方向をあらかじめ批判しておく必要を直観していたのですね。「徳」にかわる「知」の意義を提唱しました。<祀る国家、戦う国家>ではなく、イギリスの立憲君主制をモデルにした民主主義を求めました。福沢による「道徳」批判の言葉は、今日の靖国公式参拝に走り傲慢にも象徴天皇制を壊しても構わないとする安倍たちが襟をただしてまず聞くべき言葉ではないでしょうか。


エピクテトス的にいえば、

自発的なデモー>「意見や意欲や欲求や忌避、一言でいって、およそ私たちの活動であるものは、私たちの権内にある」

選挙 ー> 「私たちの権内にあるけれども、肉体や財産や評判や公職、一言でいって、およそ私たちの活動でないものは、私たちの権内にはない」


もろもろの存在のうち、あるものは私たちの権内にあるけれども、あるものは私たちの権内にはない。意見や意欲や欲求や忌避、一言でいって、およそ私たちの活動であるものは、私たちの権内にあるけれども、肉体や財産や評判や公職、一言でいって、およそ私たちの活動でないものは、私たちの権内にはない



ホホ〜、テレビを見ながら油絵はね。ラジオならばOK。人々が見る政治家は、隣人に話しかけぬ現在の観客が見る映画如きものニャリ。カフェで上映したリュミエールの映画の前では人々はもっと自由に喋った。黙り始めたのは、映画が世界の風景を見せるようになってからニャリ。美しい風景は、喋る民主主義キラー (kira,kira ではなくて、Killer ですので、あしからず)


ホホ〜、じんせーい、楽ありゃ苦もあるさ。気がついたら、苦だらけニャリ、現在の江戸は。ドラマ的には、助さん角さんが小泉細川コンビで、黄門が宇都宮としたら、娘を手籠めにする代官はもちろん舛添。でも娘は、わたしとあなたなの?海外で大ひんしゅくの妄言癖の安倍は、シー、静かに!とりあえず、こいつは、マスコミの嘘のナレーション鵜呑みの、人のいいテレビの前の視聴者のなかにでも放り込んでおくことにしようか。それにしても厄介だぞ、この難しいパズルは!?

公の世界、私の世界、侵犯する芸術の世界

朝廷の公式の仕事である歴史の編纂は、例えば「日本書紀」のように、貴族社会においては男子に属する公の世界であった。公の世界は漢字で書かれた。一方これと相補的に成立していたのが、私の世界である。歌の世界である。天皇が私的に太安万侶に命じた「古事記」、「万葉集」など和歌などの歌集本がその例である。 後に生まれてくるひらがな文学を含めて、女子に属する私の世界として存在した。( 秘密に、公の世界から、女の私の世界で書く男子がいたことは当然。) 歴史を見渡すと、常に二つの世界 (「公」と「私」)が成立してくるし、常に二つのエクリチュール ( 漢字とひらがな)が成立してくる。しかし事柄はそう単純ではない。子安宣邦氏が指摘するように、「平家物語」「太平記」に、すなわち私の世界であった文学のなかに、公の世界から漢字が入ってくるからだ。これは、境界を侵犯する出来事として画期的なことだ。例えば、謡曲について注目しよう。室町時代の滅びの世界を舞台とした、男が女の世界を回想した謡曲とはまさしく、<歌の漢詩>にほかならなかった。つまり(間違いを恐れずにいうと)、公の世界は、(歌という)私の世界がなくしては成り立たなくなったし、同時に、私の世界は、(漢詩という)公の世界からの介入によって生まれ変わっていくのである。ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルが共に極めた映画のモンタージュの芸術に先行して、遥か中世において、相異なる<二つのもの>の間の交差の運動が成立していたことは書き記しておこう


本当に二つの悲惨な大戦があった二十世紀は終わったのだろうかという疑問。終わっていないとしたら、いつ二十一世紀がはじまるのか?

ヘーゲルの客観的精神objejektive Geistは、自由の実現のための客観的精神を算出する精神である。このような条件となるのは自由な人間関係・社会関係や自由な共同体である。ここでは、精神が根本的に共同体的精神であるとされる。さて問題にしたい主観的精神subjektiver Geist の方は、人間相互の関係を度外視して、自然との関係で捉えられた精神である。ところで江戸の儒学者・荻生徂徠は、古代においては物と名が一致していたが、近代では物と名が分裂していくと考えていた。ヘーゲル的にいえば、精神のなかの物と名の分裂、即ち、客観的精神と主観的精神との分裂であろう。ここに、知識人とはなにか?とラディカルに問うことを止めない思想史の成り立ちがある。「二十世紀精神史」は、客観的精神と主観的精神の亀裂の内部のなかで、知識人の精神としての自立を問うた。知識人は精神として共同体に関わる存在とはいえ、共同体の内部から内部に即して語ることが許されない以上、二つの舞台、二つの他者、フランスと韓国・朝鮮をもつことになった。渡辺一民氏はラディカリズムの思想だった。晩年は、映画という内的リアリズムに信頼を置くようになっていったという印象がある。演劇であれ映画であれ、ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、マルクスが看破したとおり、人間にとっての根本は、人間自身である。( Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen.Die Wurzel für den Menschen ist aber der Mensch selbst.)そうして「二十世紀精神史」が依拠したのも、他ならぬこの人間だったことだけは確かだ。恐らく「二十世紀精神史」は、知識人はいかに民族主義から自立するか、と問うはずだったのだ。その答えは、人間に依拠するあり方と関係してくることだけは確かだ。われわれひとり一人は人間に立脚する以上、人間の疎外を押しすすめてきた靖国神社の民族主義に再び依拠することができないと自覚するとき、これが二十一世紀の始まりとなるのではないだろうか


エンツェンスベルガー Enzensberger

キリスト教も封建性も絶対君主制も、資本主義もファシズムもコミュニズムも、そろってプラトンの理論を応用した。ぼくらの時代のもっとも自由な国々のなかでさえ、プラトンの処方によって、毎月のように詩が告発されている――神聖冒涜とか風紀紊乱とか反国家的とかの理由で。 『現代の詩と政治』

ハンナ・アーレント ‏hannaharendt

人間の共同性が失われ、敵味方に分かれて争っているに過ぎない時、言葉は何も明らかにせず、“正体(who)”の暴露は行為そのものからやってくるだけである。そしてこの功績は他人と異なる行為者唯一のアイデンティティを暴露することはできない(『人間の条件』24)

仁斎の注釈は、「礼は理なり。羊は物なり。礼盛んなるときは、即ち物賤し、礼汚るるときは、即ち物貴し。云々」とある。この朱子学の理気論における体用二元論的言辞を思わせる仁斎の言葉を、子安氏はこう訳した。「礼は実としての道理であり、羊は形としての物象である。礼の内実が失われていくと、物が貴ばれるようになる。礼が盛んなときは、義理にしたがって、牛を用いることができなければ、羊を用い、羊を用いることができねば、豚を用いたのである・・・人はただ物をもって礼を知るだけにいたる。礼はわずかに物によって残存する。羊を残すことが、わずかに礼の記憶を留める所以である。」これに関しては、荻生徂徠は、物と名が一致している古代のあり方を指摘した。古代の礼は、前述したように、「実としての道理」のこと。この礼は、形、物に関係づけられる。つまり「形としての物象」である。子安氏によると、この習俗儀礼(礼ー形ー物)は、ヘーゲルならこれを客観的精神と呼ぶだろう。一方、仁は名と関係をもつ。名とは概念や定義のこと。これはヘーゲル的にいえば主観的精神のこととして捉えることができよう。徂徠は古代においては物と名が一致しているという。こうして、物と名の一致から、客観的精神(礼ー形ー物) = 主観的精神(仁ー名)、というふうに整理することができよう。ちなみに、客観的精神objejektive Geistは、自由の実現のための客観的精神を算出する精神である。このような条件となるのは自由な人間関係・社会関係や自由な共同体である。ここでは精神が根本的に共同体的精神であるとされる。主観的精神subjektiver Geist の方は、人間相互の関係を度外視して、自然との関係で捉えられた精神である。さて再び荻生徂徠に戻ると、かれの考えでは、古代においては物と名が一致しているが、しかし近代では物と名が分裂していくのである。ヘーゲル的にいえば、精神のなかの分裂、すなわち、客観的精神と主観的精神との分裂である。そうして。礼についてはその形は分かっていても、仁とはなにか?がわからなくなっていったのである。つまり仁とはなにか?という議論が起きてくることになった。仁の概念と定義が問題となってくることになった。(概念としての、定義としての名が問われることになった) ここに徂徠は儒学者の成立をみたのである



「二十世紀精神史」は、知識人の精神としての自立を問うた。知識人は精神として共同体に関わる存在とはいえ、共同体の内部から内部に即して語ることが許されない以上、二つの舞台、二つの他者、フランスと韓国・朝鮮をもつことになった。晩年は映画という内的リアリズムに信頼を置くようになっていった


「論語」の<音>はどこに消えたのか? 訓読みとしての日本語はいかに自立していくのか?仏教の音読主義に対して、儒教は解釈を重視しました。挑発してやまない、子安宣邦氏のデリダ的問題提起に即して、この儒教の解釈主義から一体なにを認識できるかをここで一緒に考えたいとおもいます。話の前提として、「論語」は朝鮮人はまず古代中国語で、古代日本人はまず古代朝鮮語で音読した事実を知らなければなりません。そのあと、テクストを解釈するために、朝鮮の訓に対応した'てにをは'の訓を配置した漢文の読みが続きました。(今日学校で習うのは訓読みですね。) 訓とはすなわち依存でした。さて、日本語の始まりとして、この訓が自立していくのは、奈良から平安初期にかけてのことだといわれています。大事なポイントは、日本語とは、(漢字という)書記言語としてしか存在し得なかったという点です。 日本語の書記言語としての成り立ちによって、話し言葉がなくなったといえるのです。つまり、日本語の書記言語としての成り立ちは、構成的なものです。つまり、この'構成的'とは、それまでの話言葉との連続性を断ち切ったという意味で、'構成的'ということです。こうして、子安氏の大胆な問題提起からは、(今日日本語が過去に向かって連続的に遡ることが可能な) 起源としての大和言葉ー共同体における古代の音声の体系ーを想定することは全く根拠がないことがバサリと結論されてくるのです。最後にもし挑発という言葉が不適切ならば、脱構築といいあらためたいと存じます


NHK職員は各自、目をつぶって心を静かにしていれば自ずと災害も過ぎるとでも思っている?でもね、目を開けたときは、too late、すでにNHKが民営化の皿の上にのせられていてどうにもならない時かもしれない。これで幕引きということはなく、飢えた企業達が公共放送の肉に食らいつく第一歩


ホホ〜、昔ね、小学校の先生からは、'みんな'のことも考えなさいと叱られたニャリ。この'みんな'はルソーの理想からはほど遠いが、公立学校の先生の場合は自身に宛てた戒めの言葉であることは確かニャリ。教育は貧富の格差から中立なのだ。また若い人が口にしたがる。'一生懸命'という言葉も、必らずしも嫌いではないニャ。他人が「一生懸命に読んだ」本ならばこれを読んでみたいからねー。しかしだよ、'みんな一生懸命'は、どうだろうか?こいつは、'みんな特攻隊'、にしかきこえない。最悪だ、ホ〜

演劇というのは、どんな時代にもどこかに存在している。
演劇としての、'武士道'の成り立ち

戦国動乱の時代、武士は功績に応じて報酬を求める一種の契約関係にあった。徳川幕府成立の六十年後、武士は固定化されてくる。安定期の平和の時代に殉死が起きる。(とくに一六六〇年家光が死んだとき多数の殉死者が出たことで、殉死禁止令が施行される。) 武士社会が官僚社会に変質していく中で、小役人になった彼らは、武士的エートスをいかに残すかを問うたのである。子安宣邦氏が指摘する、演劇としての、忠臣蔵な武士道の成り立ちである。忠臣蔵の「忠」とはなにか?忠といえば、中心。つまり真心をもって相手に対すことをいう。その相手とは君子。ただし、絶対的な臣従関係は中国には無く、日本だけのものである。日本は忠が教育勅語に行き着くほど隷属的である。「君は君でなければ臣は去る」(孟子)は一種契約の相対的関係で、これは例外的に、鎌倉時代の武士にあり得たかもしれない

エンツェンスベルガーbot ‏Enzensberger
映像のテロルは、見るものをテロリストにしないまでも、その観客にする。ぼくらはこうして誰もかれも、永続的な恐喝にさらされた状態にいる。というのも、目撃者にされてしまったひとは必ず、きみは見たものにたいしていったい何をする気なのか、という非難にみちた問いを、つきつけられるのだから。


古代ギリシャと古代中国 ー 古代の人々はいかに、詩をつくったのでしょうか?詩はリズムとか音楽とかかわることが大切だったのですね。
ハンナ・アーレントHannah Arendt はこう言ってます。「 詩の場合、記憶、つまりミューズ神の母であるムネーモシネーは、直接記録に変形される。手段はリズムであって、そのおかげで詩はほとんどそのまま記憶の中に固定される。」
一方中国はどうでしょうか。「詩は志を言い、歌は言を永くし、声を永きに依り、律は和す」(詩とは心に思うところを言葉にし、歌はその言葉を伸ばして詠じる。永くした言葉によって旋律を付け、楽の音は旋律に調和する)<書経・舜典>。伊藤仁斎はこれを、「詩は音楽の本である。もし詩を読んで、その思うところをよく感得するならば、自ずから音色もまた感じ取られるであろう。」としました。子安宣邦氏によると、「詩とは人情を道(い)うものなり」というこの仁斎の言葉は後に、'物のあはれ'と本居宣長がいうものと全く同じものです

ただイメージだけで、どこの大学も労働法という学問は危険視されてきた。事実上労働法は二つの大学しかなく、東大が体制側の労働法を、私がいた私立大学が反体制の労働法を支えていた。MEイズムの80年代には、すでに協調主義大企業組合の労働法(財界法?)しかなくなっていたし、労働法のゼミで、そんな財界のための労働法など勉強をしようとも思わず、当時まだ総評の顧問弁護士をしていた教授のもとで、カント「純粋理性批判」やヘーゲル「精神現象学」、「経哲草稿」等の初期マルクス三部作、マルクーゼ、廣松の資本論研究を読んでいた時代。儒学者の荻生徂徠が名と物の分裂を指摘した通り、労働法の名でいったい何を表すのかは解釈する必要があるだろう。東大で労働法学ばなかったから連合労組から学びたいという舛添は、労働法からファシズムを学ぶつもりでいる。ほんとうに愚かな!

先行するのは、視線か、観念か?柄谷の近代日本文学史を読まずとも、西欧美術史の豪華本をめくれば、自然への視線に先行して、自己意識の観念が存在した歴史が分かる。ルネッサンスの後、画家が自己を描いた肖像画がなければ、風景画は現れなかったのだ。風景の後に、啓蒙とロマン主義の間の闘いが続く

海外の大島研究の問題は、サルトルやゴダールの窓から整理したこと。日本の特殊性を強調した人類学的アプローチも出てきたが、映画はいかに、民族主義から自立するかという大島の取り組みがみえなくなる。ちなみに日本人の大島像は、インテリの証明写真の如き土着的であればよいとした対抗的な自己投企

サーチライトを利用した「日本の夜と霧」が捉えるのは、自己意識である。が、大島渚の映画も風景がある。「鳩を売る少年」「少年」「儀式」、韓国の記録映画、「戦場のメリークリスマス」。少年を描いた映画では風景が呈示される。疎外された精神としての風景が際立つのは「愛の亡霊」「愛のコリーダ」


公共放送はいかに、NHKから自立するか?

NHK新会長に籾井が、経営委員に百田尚樹、長谷川三千子が 就いた。一体これは何を意味するか?いまNHKが安倍の私有財産として奪われつつあるという事態を認識しなければ、このまま取り返すことが不可能になってくる。もうすでに遅いのかもしれない

知識人はいかに、民族主義から自立するか?

NHK会長と経営委員は、籾井、百田、長谷川の極右翼的民族主義者に占められた。NHKが安倍の私有財産として奪われつつあるという事態は実は、イタリアのマスコミ界よりも深刻だ。知識人は沈黙しているのは、かれらが民族主義から自立していないからだ

現地大使館で公私混同にただで飲み食いして、自分ほど自由な'世界人'はいないとばかり「俺が日本を売ってやる!」みたいなことを本気で毎日のたまうくせに、引退すると次の日から超国家主義者になるから驚きだ。大きな力を自分の能力と勘違い、人生を世渡りと勘違いする迷惑な知性なき俗物が、昔私物化した昔の大使館の代わりに、今度はNHKをみつけた。もう大使館スタッフを召使にできないから、NHKの職員を召使にするつもりだろう。ふたたび公私混同に貪欲な腹を満たすつもりだ、この安倍の召使は?


映画の魔力というのは、金を盗むコソ泥にむかって、'がんばれ、見つかるな!'と心の中で思わず応援してしまうこと。ツイッターの言葉で正す人はいない。本を読むときもこれと同じ事が起きる。吉本隆明とて、彼の本を読んでいる間は、'がんばれ、(原発偶像の姿を)見つかるな!'と必ず思うのである

NHKの経営形態のモデルは、イギリスの国営放送BBCにあると専ら指摘されるところです。たしかにBBCは信頼されています。イギリス人たちの間では、受信料の値上げについては賛否両論がありますが、BBCが担ってきた公共放送の意義を疑う人は恐らく一人もいないと思います。それほどの信頼はどこらか来るのか?です。BBCは政府から独立しているから可能となったという (イギリス好きの日本人が臣民的に鵜呑みにする)見解にたいしては、否定はしませんけれど、全部承認することには躊躇いを感じます。たしかに、フォークランド戦争のときサッチャーからの攻撃に耐え抜いたBBCではありますが、まさか身内の労働党(ブレアー)から民営化構想を持ち出されたときには、深刻なアイデンティティー危機に陥るのですね。ほんとうの意味で、政府から独立した立場があるかが試されてくるようになったのは、最近のイラク戦争からはじまったことではないかと思います。言論の自由のたたかいとは常に、現在進行形にほかなりません。言論の自由に関して、参考になってもただし究極的な正解をもつ外国などないですし、また自国においてノスタルジックに依拠すべき過去なども存在することはありません

原発ゼロという社会は、かれらにとっては、なにか、弱い国家を反射的に思い浮かべるのでしょう。それで、国家がなかった江戸のイメージが反射的に重なるのだと思われます。江戸時代というのは、漢字文化圏のアイデンティティー、アジアの中のアイデンティティを意識した時代でした。安倍みたいな国家主義ボケがありがたく尊ぶウルトラナショナリズムの国体論は、江戸時代のマジョリティーからみると、異常な事柄とみなされていました


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