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zoom RSS 起源としての大和言葉を想定することに根拠がない理由 - 挑発してやまない子安宣邦氏のデリダ的問題提起

<<   作成日時 : 2014/01/29 01:50   >>

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「論語」の<音>はどこに消えたのか?

訓読みとしての日本語はいかに自立していくのか?

仏教の音読主義に対して、儒教は解釈を重視しました。

子安宣邦氏のデリダ的問題提起に即して、この儒教の解釈主義からなにが認識できるかをここで考えたいとおもいます。

話の前提として、「論語」は朝鮮人はまず古代中国語で、古代日本人はまず古代朝鮮語で音読したことを知らなければなりません。そのあと、テクストを解釈するために、朝鮮の訓に対応した'てにをは'の訓を配置した漢文の読みが続きました。(今日学校で習うのは訓読みです。) 訓とはすなわち依存でした。

日本語の始まりとして、この訓が自立していくのは、奈良から平安初期にかけてのことだといわれています。さて大事なことは、日本語とは、(漢字という)書記言語としてしか存在し得なかったということです。

日本語の書記言語としての成り立ちによって、話し言葉がなくなったといえるのです。つまり、(私の理解するところでは)、日本語の書記言語としての成り立ちは、構成的なものです。つまり、'構成的'とは、それまでの話言葉との連続性を断ち切ったという意味で、'構成的'ということです。

こうして、子安氏の大胆な問題提起からは、(今日日本語が過去に向かって連続的に遡ることが可能な) 起源としての大和言葉ー共同体における古代の音声の体系ーを想定することには全く根拠がないことが積極的に結論されてくるのです。

最後に、挑発という形容が不適切ならば、脱構築と言い改めたいと存じます

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