言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年四月(2)

<<   作成日時 : 2014/04/13 13:00   >>

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イラク側は第三者の英国科学者調査団を受け入れていた。「大量殺戮兵器」は確認されなかったが、米国はイラクを攻撃した。結局米国も「大量殺戮兵器」を発見できなかった。安倍はこの歴史的事実を消し去ろうとしている。更に米国のイラク爆撃が国連安保理決議に基づく集団安全保障だと大嘘をついている

あらためて「ヘーゲル法哲学序文」、「ユダヤ人問題」、「経哲草稿」、また「ドイツ・イデオロギー」を読み調べていくうちに、文学者ジェイムス・ジョイスはかなりの程度所謂青年マルクスの思想を利用して、彼の小説「ユリシーズ」を書くことができたんじゃなかっただろうかとやっといまごろ気がついた

反植民地主義復活の68年的課題として、ポスト構造主義は脱近代的に書くことの歴史を書いて、またポストコロニアリズムも反近代的に歴史を書くことによって、帝国主義文化論的言説(戦う国家とそれを祀る民衆史)を批判した。ポジティブに、ポストモダニズムのモダン化は二つの思想に猿轡を咬ませるか

ポストモダニズムのモダニズム言説が目立ってきた。厄介なこの言説は、ポストコロニアリズムから影響を受けながら、ナショナリズムを色濃く含む。(本来ポストコロニアリズムは第三世界の数十か国の事例研究、歴史に通じているが、そういうものではない。)「左翼」という名の保守主主義は気持ち悪いよ

柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?
ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (4)

世界史は本当にそれほど世界史なのか?それは産業革命を経た英国と仏を中心としたヨーロッパが語る近代史でしかあらじ、それなのに、なぜ、人口から言って世界の圧倒的少数派が語るこの歴史を、普遍的な歴史として語らなければなたないのか?と、ヨーロッパの外からこの問いが立つとき、歴史概念の政治的な発明が始まっている。柄谷行人の「帝国」概念は、かれの「世界史の構造」というタイトルの本で言及されはじめたことも、ここにかかわる。柄谷の「帝国」概念は、彼の夏目漱石論に遡る一貫した大テーマだったとしたら、彼はロンドンから帰国した漱石と共に中国を考えている可能性があろう。そしてこの概念において理念的に何が言われているのかを読み解くだけでは足りず、言説としてこの概念によって柄谷が何に関わるのかという政治もみなければならない。
ところで、フーコ「言葉と物」が、近代主義者の思考はいかに起源の表象に絡みとられるかを暴いている通り、たとえば、近代は靖国問題を'民族感情'とするが、その問題が戦後における言説のあり方に存する点を隠蔽してしまうものなのである。宣長に('前近代的'な)'民族感情'をみる丸山においても、起源の表象に依存した近代知の構造が反復されている。さて近代は'前近代'を乗り越えよと言えば足りるか?否である。自己肯定するためには、他を否定しなければならない。そうして近代は国民国家としての近代国家が誕生する以前の近世をネガティヴに捉えてきた。本来柄谷の交通概念に、この近代知の構造から自立することが託された。が、交通概念が帝国概念に依る言説を伴うとき、交通を再び起源の知の構造に分節化していく危険が生じるのだ。
最後に、交通概念は構造から自立するために何処へも行ける。が、帝国概念に包摂されてしまっては、天安門事件を証言した「08憲章」において現実化した小さな人間たちの大きな人間を正そうとした抵抗が全くの無となってしまうのである。I'm more interested in what can't be resolved and what is irreconcilable(Said)




ポストモダニズムのモダン化 - 実践的にというか、不気味なほどにポジティブに、「左翼」を名乗るキモイ保守主主義者たち




編集



2000年に入って、ポストモダニズムの所謂モダニズム言説が目立ってきました。厄介なこの言説は、ポストコロニアリズムから一定の影響を受けながら、ナショナリズムの言葉を喋っています。第三世界の数十か国を見渡したポストコロニアリズムのアカデミックな研究とは違う。実践的にというか、不気味なほどにポジティブに、「左翼」を名乗るキモイ保守主主義者ーなかには帝国主義擁護者も出てきたーは、非歴史的な文化論に定位するものです。そもそも、反ー新植民地主義復活の68年的課題として、ポスト構造主義は脱近代的に<書くことの歴史>を書いて、またポストコロニアリズムも反近代的に<歴史を書くこと>によって、帝国主義文化論的言説(戦う国家とそれを祀る民衆史)を批判しました。一応そう整理していいと思います。さらにポストモダニズムのモダン化というのは、この二つの思想の停滞を打ち破るものとして現れてきたと思うのですけど、異議申し立ての思想に猿轡を咬ませるとしか考えられないのです。ポストモダニズムの所謂モダニズム言説は、脱政治化の世界的傾向を指摘しています。例えば議会政党が国家の部品になり下がった現状に不満を持ちます。しかし別の見解も可能です。(既成の)政治が脱政治化したことは、市民社会が政治化するチャンスだともいえないでしょうか。<われ=われ>が立つとき

…la pensée …est parfois plus proche d’un animal qui meurt que d’un homme vivant, même démocrate. Gilles Deleuze



世界史は本当にそれほど世界史なのか?それは産業革命を経た英国と仏を中心としたヨーロッパが語る近代史なのに、なぜ人口から言って世界の圧倒的少数派が語るこの歴史を、普遍的な歴史として語る根拠があるのか、と、ヨーロッパの外から問いが立つとき、歴史概念の政治的な発明が始まる事だけは確かだ

世界史は本当にそれほど世界史だったのか?それは産業革命を経た英国と仏を中心としたヨーロッパが語る近代史なのに、なぜ人口から言って世界の圧倒的少数派が語るこの歴史を、普遍的な歴史として語る根拠があるのか、と、ヨーロッパの外から問いが立つとき、世界史概念の政治的な異議申し立てが始まる


'前近代'を乗り越えよと言えば足りるか?自己肯定する為に他を否定しなければならぬ。そうして近代は国民国家としての近代国家が誕生する以前の近世をネガティヴに捉えてきた。交通概念はこの近代知の構造から自立する。が、帝国概念に依る言説を伴うとき、交通を再び起源の知の構造に分節化していく

フーコ「言葉と物」は、近代主義者の思考がいかに起源の表象に絡みとられるかを暴く。近代は靖国問題を'民族感情'とするが、その問題が戦後における言説のあり方に存する点を隠蔽する。宣長に('前近代的'な)'民族感情'をみる丸山においても、起源の表象に依存した近代知の構造が反復されている


柄谷の「帝国」概念は、彼の夏目漱石論に遡る一貫した大テーマだったとしたら、彼はロンドンから帰国した漱石と共に中国を考えているのかもしれない。この概念において理念的に何が言われているのかと読み解くだけでは足りず、言説としてこの概念によって柄谷が何に関わるのかという政治をみることだ

柄谷の「帝国」概念は、読者は知らなかったが、柄谷の夏目漱石論をにさかのぼる一貫した大テーマだったかも。そう考えてみることも面白い。ロンドンから帰国した漱石と共に中国を考えている、と。理念的に何が言われているのかということよりも、現実に何に関っているのかを読み取ることも要求される。

寸劇

厚生大臣の心の中のA「年金支給年齢を75歳まで引き上げられないか」
心の中のB「85歳。95歳ならば財源問題は解決」
心の中のA「支給年齢は秘密保護の対象にしよう。質問者は逮捕!」
心の中のB「OK!お前,悪党だな」
心の中のA「あんたには負けますよ!」


千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏@plateaux_bot · 5時間
戦争機械とともに、そして遊牧生活において、数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数は「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである。――(下)p89

映画は考えられないことを考えるためのもの。文化は考えることができるものを考えるためのもの。

ゴダールでは、文化とテレビは同一視されている。そして、浅田彰が東との最近の対談で、そうした文化のテレビ的画一化が構造にほかならないという。構造とは文化論的言説のこと。さてこうした構造から逸脱していくのが、芸術であり、(「思考」と翻訳されている)思想である。芸術と思想は、ゴダールにおいては区別がない。したがって、映画の歴史というとき、映画と歴史で意味するものはそれぞれ思想と思想史である。だから映画史は思想史。その課題は、ネガティヴな批評性であり、(考えることができる)ポジティヴな文化を徹底的に否定していくところにある。文化のテレビ的画一化に反抗して、映画は考えられないことを考えるためのものなのだから。Le cinéma est fait pour penser l'impensable.

<肯定性 positif はわれわれが生まれたときからわれわれに与えられている>と、あのかわいそうなフランツは書いているー彼は友人のマックス・ブロートに、自分が書いたものはすべて焼き捨ててくれと頼んだのだが、友人はそれに従おうとはせず、従ってわれわれはカフカの作品に親しむことができる。そして「変身」のこの作家はこう付け加えている。<今度はわれわれが否定性négatifをつらぬかなければならあに>と。
そしてこれこそ、まずネガをつくるというところにこそ、映画術 cinématographieの起源の独自性 l'originalité de l'origine がある。これはエディソンがしなかったこと、そして、カメラを発明する前に映写機を発明した、オーギュストとルイがしたことだ。まさに、この世に行く前にこの世に来る必要があるのだ。 Il faut bien venir au monde avant que d'y aller そうではないだろうか。そしてわれわれは、世界に対するわれわれの権利はーそうしたものが存在するとしてー、その存在を世界に対するわれわれの義務にだけ負うているということを理解しなければならない。nous render compte que nos droits sur lui, s'ils existent, ils ne le doivent qu'à nos devoirs

<Le positif nous a été donné notre naissance>, écrivait le pauvtre Franz - qui priason ami Max de détruire tous ses livres, mais l'ami désobéit et c'est ainsi que nous connaisons l'oevre de Kafka. Et l'auteur de La Métamorphose ajoutait ; < A nous de faire négatif>
Voici donc l'originalité de l'origine de la cinématographie; faire le négatif d'abord.Ce que n'a pas fait Edison.Mais Auguste et Louis, qui inventèrent le projecteur avant la camera. Il faut bien venir au monde avant que d'y aller, n'est-ce pas. Et nous render compte que nos droits sur lui, s'ils existent, ils ne le doivent qu'à nos devoirs.
Godard ( JLG/JLG autoportrait de décembre)


スターリニズム、天皇主義、軍国主義

労働を称える近代の神話は、芸術家を'暇人'、思想を'普通でない人'の空論と嘲笑う。芸術は一代限り思想も弟子が不可能だ。労働価値説からは、再生産の循環に入らぬ芸術と思想ほど、自然の豊饒な繁殖力に対立するものもない。根底に, 感覚的苦痛である労働が無いから、「価格」はあっても「価値」なしとされる。スターリニズムは芸術と思想を対象としてもたない。だからそれらにスペースを与える、労働に還元する言説が先行する必要がある。芸術と思想は感覚的苦痛即ち汗と血を欠けば無意味と烙印をおされる。労働として天皇的に祀られる芸術と思想の表現だけが私の感覚から公の舞台へ移ることができるとされるが、これでは軍国主義に限りなく近づく言説だ


民衆史

繰り返し'普通の人'という言い方と、いかに思想が民衆に影響を与えるかを疑う傲慢は、本当に腹立たしいものだ。正しい近代に向けて改革する主体に届く程度に従って思想の価値が決まるとする民衆史とは、'民衆感情'と同様に、近代の言説が自らのために構成した言説でしかない。問われるべきとしたら、なによりも、民衆史の思想の従属性それ自身が、思想において問われるべきなのである


「後」に何も残さないほど消滅させてしまったような結末を考えるとは、かれらの抵抗のやり方は、憲法を世界文化遺産にしようというスローガンと同じぐらいに依拠できないモデルでありましょうが。言論によっては変えることができない程の権威主義を前にした、かれらの怒りは理解できますー3・11以降の市民的敗北に生きる現在から。無関心ではないのですね、もはや3年もたちましたから。代表主義の政治は相変わらず原発推進派が占めていますが、この体制に抵抗することに敗北した結果、逆らうことに怯え始めているようにみえます。注意深く観察する必要がありますけれどもね。ここで書いた市民的蜂起は、オキュパイ運動の流れの中にありますから、座り込んで動かないとか、街頭教室で学んでいくとか。68年型のような奪取を目的としていないので、平和的に撤退したときは、現場で学んだことを一般市民に伝えていくということで、現実にそういう運動が台湾学生によって起きましたが、今回マスコミは民主主義の運動としては伝えませんでした。事実上無視。国内のことも、先月代々木で行われた、毒にも薬にもならない(失礼!)、大江の集会ではあります。が、デモはデモ、数万人あつまりました。しかし、朝日新聞は一面では伝えませんでした。五面とか六面で気が付かないくらい小さな囲い記事でした。記者は頑張っても、デスクとか編集する権力がね、きっと検閲しているのですよ。長くなり恐縮ですが、幸か不幸か、兎に角、一人が逆らうことを許さないぐらい不寛容に神経質なほど日本ファシズムは比類なき全体性の広がりをもっていますから、孤独な一人ひとりの逸脱が他の先進国の場合と比べて非常に有効な意義をもっていくのだろうと思います。楽観的に、頑張りましょうと悲観的におもっています!


1989年の5月に10万余の学生たちが天安門広場に、中国に〈もう一つの政治〉を願って集まった。その願いは6月4日の戦車と銃声によって踏み消された。25年目の6月4日を迎えるいま、中国ではその日を追想することも許されない。なぜなら6・4とあの願いとは二度とあってはならないからだ。〈6・4〉の記憶を党政府とともに消しながら、だが〈文革〉の記憶をなお毛とともに持ち続けようとするのは汪暉であり、これをもてはやす日本の中国研究者どもである。明日、この汪暉批判を早稲田でやる。獄中の劉暁波を思い、〈6・4〉の犠牲者たちを思いながら。子安宣邦


民主主義を排除する同士、求め合う「敵」同士?

異邦人か孤児か、兎に角、戦後はゼロから出発すべきでした。が、共和主義理念の構築が乏しい以上、戦前との連続性を断ち切る妥協として、天皇を縛る憲法に寄ることになりました。'内なる天皇制'という言葉は、戦前天皇制ファシズムは終わったが、天皇としての日本自民党が始まる歴史を隠ぺいした疑いがあります。天皇としての日本自民党は、それほど'内なるもの'ではありませんから、例えば、安倍にたいして'思いやり'や'暖かさ'を求めても全く無駄なことです。さて八十年代以降顕著となりますが、今日ほど、皇帝としての中国共産党の代補的寄生として、天皇としての日本自民党が己の非民主的支配を、恥じることなき露骨な資本主義の歌とともに、有利に正当化できた時代もなかったといえないでしょうか。マスコミを利用した、右翼的な中国パッシングで対立を演じていますが、よく注意深く観察すると、陰険な別のものがみえます。つまり、地下茎では、求め合う「敵」同士の欺瞞的な構造が働いている可能性のことです。真の意味でグローバルな相互依存に寄り、民主主義を中心としたより普遍的な信頼関係の構築を求めるまさにこの時代に、両方の政府によって、われわれの側はわれわれだけ、かれらの側はかれらだけという境界線が引かれてしまっています。こんな民主主義を排除する同士、求め合う「敵」同士から、脱出を!




「天安門事件」1989年のその後はあまり報じられることがありません。また、オキュパイ運動の流れの中で展開し始めた台湾学生の民主主義運動が事実上黙殺されています。報じても経済の話に縮小しています。こうしたなかで、アジアでどんな民主主義的声があがっているかを知るためには、他者の言葉、すなわちこの場合、劉暁波Liu Xiaobo が2008年に提唱した 08憲章を徹底的に読むしかないという思いです。彼は問うています。普遍主義的ヒューマニズムはなにか?08憲章の抗議とは一体なにでしょうか?まだ2008年は金融バブル崩壊のロンドンにいましたから(翌年2009年はG20ロンドン開催抗議デモの年)、恥ずべきことに、これにかんしては私はあまり関心を払っていませんでした。今回天安門事件研究者達が当局から拘束を受けたといいます。この機会に、当時インターネットで公開された08憲章の日本語訳と、今回パリの本屋で手に入れたフランス語訳を読みはじめております。


ストライキ

ロンドン滞在中地下鉄のストライキがあったので、これをBBCがいかに伝えるか注意深く観察いたしました。交通の混乱・混雑に対する街の人々の不満の声。ストライキの意図が労働組合が期待するようには理解されていないギャップ。しかし権利の行使にたいして日本のマスコミが合唱するように「みんな」の「迷惑だ」という言い方をする者は皆無でした。さてFbの友人が「小選挙区化、連合の登場、社会党の解体が、日本をうんこにしました」と歎いていました。たしかに。そこから、うんこでもうんこなりの最大の抵抗を行うしかないのですが、3・11以降顕著となったのは、市民的蜂起の大手マスコミの警戒と恐れ、またあたかも警察主催のデモに従う市民自身も自らの蜂起を恐れているということ。最新の世論調査で「9条改憲、反対62%に増 解釈改憲も半数反対」という数字が出ましたが、しかしこの数字に大江健三郎のようにはそれほど楽観的になれません。3・11以降の市民的敗北の現実をみつめますと、安倍自民党にとっては、この程度のバランスなどはうんこのうんこんみたいなものとしてあざ笑っているのではないかと危惧します。地球の裏側までいく集団自衛権を推し進める安倍に向かって、怒りの特大うんこを投げるのはいつか、どうしたらいいのか!?



ストライキ

ロンドン滞在中地下鉄のストライキが。これをBBCがいかに伝えるか注意深く観察した。交通の混乱・混雑に対する街の人々の不満の声。ストライキの意図が労働組合が期待するようには理解されていないギャップ。しかし日本のマスコミが合唱するように「みんな」の「迷惑だ」という言い方をする者は皆無だった



ダブリンのパブはやはり、日本の居酒屋と同じ雰囲気で、どちらかというとソフトな右翼的な、でも自分では左翼と思っている、愛郷精神が食ったり飲んだりしています。ジョイスの労作「フィネガンズ・ウエイク」は、そのダブリンの居酒屋を舞台としておりますが、そこでは五十以上外国語が沸騰していて、どちらかというと、インターナショナルな、スターバックス型反居酒屋空間。とはいっても、現実のスターバックスの方は、中流のアメリカ的の、ハイフン付きマルチカルチャリズム(アフリカ系アメリカとかという意味の)のカッコつき異空間ほどの凡庸な似非コスモポリタン。さて懐かしいロンドンのスターバックスは、ユダヤ教の司祭が、信者になりたいアフリカ系の労働者をテストする場所でもありました。
「きみはね、たんに、おなかが減っていて、それでユダヤ教徒になればシナゴーグでただ飯を食べれると思ってるんじゃないだろうね?」
「ユダヤ教の教えがカッコイイなあと、惹かれているんす」
「ふーっむ・・・」
「この俺、無理すか?ダメなんだ」
「いやいや、誰でもユダヤ教徒になれる。ただね、手続きが。簡単に考えてもらっちゃ困る。三か月テスト期間をもうけるから、毎日ここにきて、何を感じ何を学んだか、私に三時間言いなさい。その様子をみて私が上司に報告するから」
「三か月って、ローンの返済期間みたいすね?」
「まだだ。その先上司がテストする。さらにその上司が。やはりきみは、たんにおなかが減っていて、それでユダヤ教徒になればシナゴーグでただ飯を食べれるとおもっているんじゃないだろうね。そうでなければなぜなんだろうか?」(と、思索は続くのでした・爆)


オペラ

オペラを観劇したことがないかもしれませんが、難しいものではありませんよ。寧ろ非常に気楽で筋も頗る単純で、幾分荒唐無稽で、映画の19世紀的な精神に先行して、オペラがありました。ミュージカルよりは知的であります。ところでもし明日、オペラ「論語」を書いてくれといわれたら喜んでお引き受け致します。「論語」というだけで窮屈に響きますが、観客には、泪する人もいれば笑う人も是非いて欲しいですね。さて私が書くオペラ「論語」の世界では、弟子達は自分たちの師が大切な事を喋っていることを確かに知っておりますが、理解できないままに無駄に時間を過ごしています。その弟子達といえば、あるがままの現在がそれほど重要な価値があるとは信じていません。だから古の言葉に依拠する師の言葉から、束縛された現在から自立せんとする未来の声を聞こうとするのです。オペラ「論語」の世界の歌手は、黙して慎重に意をくみ取るソプラノ、師の話を利用して勝手に自分のことを喋るアルト、師の言葉を全部逆さまに理解するテノール、誰が師か分からず師の代わりをするバス。師の言葉は、子供たちによる合唱隊が歌うことになるでしょう!


この頓馬は、もっと自分の言葉で喋れ!どこまで腹話術師安倍の人形なの?
自分の言葉で考えていけば、自ずと、公正公平原則が、NHKの自立のためにあること、市民が政府をただすために依拠できるためのものだと理解できるはず
ー> 4月30日のNHK理事会で、籾井勝人会長は、ひとつひとつの番組やニュースで公平原則を守るべきと発言した模様。消費税への不安のニュースを取り上げ、政府の負担軽減策もとりあげないとニュースにならないという趣旨のことを言い、理事会は紛糾した。


ニースNiceの海の色は空のと同じ。エズ Ezeの前に、永劫回帰の思想はあったはずですが、これを詩で書くというニーチェの構想が誕生したと思います。地平の曖昧な境界からも、夜空を覆う深い青からも、深い詩的な印象をえました。ニースにきたノアールも皿の中に、図柄を覆う色として使っています。青といえば、マチスの切絵の色。今回ロンドンのテートモダンでの特別展で実物を見てきましたが、戦後のイブ・クラインとニキの表現に、このマチスの人間的の青を超えていくものを感じました。旅の途中でパリで珍しく現れた巨大な虹の内部の中から、ニースで見たような青が。私の中に向かって繰り返された、私をとらえて離さない、そんな青を学ぶ旅となりました。(下のパンフレットの表紙は、パリオペラ座での「トリスタンとイゾルデ」のもので、オペラの中で、Peter Sellarsによる実験的な映像表現をみることができました。大変勉強になりました。芸術の学びに終わりがありませんね)

The balance sheet of Fascism ( 14 items)
Facist regimes were superficially varied, drawing on different histories and traditions. But they had some or all of the following in common.

1, A political philosophy which was a cpmpound of radical ideas and mysticism, of left-wing-sounding slogans and conservative policies.
例、90年代以降日本ポストモダニズム知識人の国家主義化

2, A strong state with a powerful executive which did not require democratic consultation before acting, combined with a hatred of boureous democracy.
例、安倍自民党の秘密保護法制定。麻生の「ナチスの手法」発言

3,Hatred of Communism and Social as political movements based on the idea of class differences and class antagonisms. Against this idea, Fascism aimed to substitute a corporative state that denied a divergence of class interests between capital and labour.
例、原発体制(政財官司報)。都知事選の連合と公明党における舛添支持

4,The formation of a mass party on paremilitary lines which drew its recruits in part from the discontented and disenfranchised working-class.
例、元自衛隊幹部(田母神)の軍国主義のアメリカンドリーム

5,Admiration of power and the deed which found expression in the cult of violence. Training for war and violence gave free rein to sadistic and pathological characteristics.
例、南京虐殺の歴史的事実の国営放送経営委員会による否定。

6, Authoritarian programmes whic emphasized conformity, descipline and submission. Society was militarized and directed by a messianic leader.例、安倍の靖国公式参拝

7, The cultivation of irrationality - the impulse was more important than logical thought. Irrationality led to a cult of death -witness the Spanish Fascist slogan; Arriba la Muerte ! - Long live Death!
例、特攻隊の国営放送経営委員会(百田)による美化

8, Nostalgia for the legendary past. For instance, in Italy's case , the Roman Empire. In Germany, an appeal to primitive myths of Nibelungen.The initials SS were written in Runic letters from Viking times. Japan resurrected the medieval code of the samurai.
例、戦前・戦中の歴史の抹殺。復興幻想としてのオリンピック

9, Aversion to intellectuals whom Fascism accused of undermining the old certanities and traditional values.
例、自民党の国体的な方向での憲法改正

10, Fascism claimed to honour the dignity of labour and the role of the peasantry as providers of the staples of life. with this went an idealized picture of rural life - the healty countryside versus the decadent city
例、国策としてのネオリベ的労働政策

11, Machismo. women were relegated to traditional female roles as housewives, servants, nurses, and as breeders of :racial pure" warriors for the state war machine
例、国営放送経営委員会(長谷川)の女性の差別

12, Fascism was frequantly subsidized by big industrialists and landowners.
例、財界が煽る領土ナショナリズム

13, Fascism's electoral support came overwhelmingly from the middle-class - in particular the lower middle-class affected by economic crisis
例、安倍自民党とアベノミックスの支持

14. Fascism needed scapegoat enemies - "the Other" on whom to focus society's agressions and hates
例、元東京都知事(石原)・大阪知事(橋下)や在特会によるマイノリティーの差別

柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?
ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (2)

ライプニッツの「モナド」は'窓'が無い。これが大問題だ。そこで、「モナド」間の'交通'を実現する、任意の一つのモナドが、柄谷がいう「帝国」の'モナド'である。成程見事に、'交通'が'窓'に代わるというわけだ。ライプニッツのモデルは西田幾多郎を経て柄谷において完成することになった、と喜ぶのは早い。柄谷は「日本モナド」については言い忘れたからだ。この「日本モナド」も'窓'が無いことを好都合に、「帝国モナド」において生じてくる専制政治を見ない。なぜか? <あちら>の専制政治が一層専制化させていく方向が、<こちら>の自らの専制政治(安倍自民党体制)を一層濫用できる方向と一致するからだろう。そうして結局、21世紀には専制政治の内部をもつ、陰険に暗黙に助け合う二つのモナドがわれわれの前に現れてきた。具体的には、<あちら>の'帝国'の発明と<こちら>の歴史修正主義、この両者は東アジアにおいて互いに切り離しえない関係を展開している。しかし"交通'とは本来そういうものか?柄谷はライプニッツと西田を呼び出したけれど、それは、国家と国家との関係を打ち立てる「統整原理」だけのための言説。ここからは、多様的東アジアにおいて平和に生きようとする人々がいかに交通を打ち立てるのかがみえてこないのだ。その意味で、真の交通を問う可能性をもつのは、台湾学生の<太陽花運動>の方かもしれない。この占拠運動(オキュペーション)の流れを汲んだ街頭民主主義の意義に、私は注目しているのだ。最後に、現実には柄谷の「交換様式」は、述べてきた「世界=帝国」的な起源としていうものとなっている。なにもかも交換様式に還元していく思想の倫理性が問われることはないのか。(終)


柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?
ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (3)


禁書であった「歎異抄」は、近代以降に発見されていくテクストであった。われわれは原初テクストを読むことができない。ただ日本近代知識人達がいかにこの読めぬテクストを読んでしまったかを読むだけだ。「歎異抄」の読みの読みから、近代の言説が曝け出されてくるというのが、われわれに与えられる収穫だ。さて柄谷行人に向けた批判も、この彼がいかに読めぬ孔子を読んだかを読み直すことにかかっている。柄谷は「儒教」を定義しない。それを固定された実体として定義する必要がないからだ。つまり、「帝国」という統整原理からは、「儒教」とは、他の思想・宗教(「法家」「老荘思想」「仏教」「道教」)との、互いに重なり合う類似性のネットワークを形づくる項の名前に過ぎない。しかしそのような原初的テクストの言語ゲーム的再構成はそもそも知識であり、「信」ではない。が、ここは一応素直に、柄谷が言うことに従って、かれの語りを最後まで追っていこう。そうすると、柄谷は「論語」から、近代の言説が依存する'民衆史'を読みだしているのが分かってくる。民衆史の近代において実現したはずの解放のユートピアを実現していく主体の物語が、討議 <帝国・儒教・東アジア>に貫いていることに注意したい。ただし柄谷的民衆史によれば、どの国家も中心を占めない「帝国」の時代にあっては、国家こそが解放を推進する主体と言いたいようである。そうして国家間の中心なき諸国家の、'存在としての共通性'もどき世界が言語ゲーム的「儒教」の統整原理と共に描き出されてくるのだ。ここに、日本知識人の思想のあり方が映し出されている。しかしその「帝国」的存立と新「儒教」のあり方は、現実には、周辺の<帝国主義>的な同一化と経済と知識の一元支配を進める体制なのではないか?台湾学生の行動が真実を証言しているではないか?


子安宣邦

久し振りに論語塾の準備をした。先進篇に面白い章を見つけた。孔子の弟子たちのネガティブな批評が端的にされている。「高柴は愚だ。曾参は鈍だ。子張はうわべ飾りだ。仲由は粗暴だ。」ここには「子曰」が落ちているが、孔子の言葉としていいと思う。しかしこれは孔子の言を教訓とするものを困らせる。だがこの章は孔子の学園が実に多様な弟子たちによって構成されていたことを教えている。「孔門の十哲」と後世が称えたりする賢哲ばかりでは決してなかったのである。そして孔子も弟子を称して、「あいつは馬鹿正直だ」「ほんとうにのろまだ」とか「がさつものだ」と歯に衣着せずいっていたのであろう。孔子がそういったからといって弟子を見放したわけではない。粗暴をいわれる仲由(子路)を、その横死に至るまで孔子がいかに愛したかは『論語』にある。私は先進篇のこの章によって孔子学園の素晴らしさを見る。鈍だと称された曾参が、「夫子の道は忠恕のみ」と孔子の真髄を捉え後世に伝えたのである。

居酒屋の
レモン・サワーで
深まった
芸術の
孤独かな


(解説) ロマン主義芸術家にとっては、芸術が要求するのは、外部の領域との関係性だけではない。芸術は自由の理念性をも要求する。連なる感嘆詞で、芸術を称えるだけで、肝心な、自由の概念を伴わない、その空虚なお喋りが、人間においては、限りなく、かくも排他的にある抑圧的暴力として感じられてしまうのは、やはり、人間の人間である所以だからだろうな、と、この説明で足りるのか定かにあらず。


連続的に自然の内部の中に在りながら、そこに依存せぬような自己のあり方を構成することなど可能なのか?現実的に起きる必然的な事柄だ。なぜなら、人間は内部に定位する息苦しさから、外部へ出る方法を必死に考えるものだから。こうして、ロマン主義芸術家にとっては、芸術が意味するのは、外部の領域との関係性だけではない。それは自由の理念性をも意味する。芸術を称えるだけで、肝心な、自由の概念を伴わない、その空虚なお喋りが、人間においては、限りなく、かくも排他的にある抑圧的な暴力として感じられてしまうのは、人間の人間である所以である。と、この説明で足りるのか?



好きな空間とはなにか?

街の空間とか舞台の空間とか、デモの空間とか、あるいは、おもちゃ箱や本箱の中の配置や油絵や文章の連なりでも言えることかもしれないんだけどね。ほら、折角、<ぎゅっ>としていても、その結果もし自ずと<ごちゃっ>としていたとしたら、それは凡庸に当たり前というか、面白くない。そこで、立ち止まることさえできない同じスピード、一方向の同じ記号が繰り返されていたら一息苦しくなる。これとは別に、この<ぎゅっ>とした内部の中で、一個二個....N個と次々にどれくらいの数の隙間をつくることができるか?何個めの隙間まで、その'ぎゅっ'がぎりぎり保たれ得るのか?と、考えながら彷徨できちゃうそんな空間が好きだ。空間とは何か?自分が依拠できる空間とは、外側から来た人々をそれらの隙間に侵入させ、と同時に、内部に定位していたこの自分を脱出させてくれる空間。この交通によって、そのつど一回一回、空間が絶えず自身の性質と方向を変えていくような空間

柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?
ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか

他者との関係をいう「交通」の概念。マルクス「ドイツイデオロギー」に出てくるこの概念を、柄谷行人はマルクスの可能性の中心に置いた。そうして、たとえば、柄谷氏の「資本論」の読みでは、交通は「交換様式」として投射される。しかし現実には彼の「交換様式」は、デリダが言う「起源」としていうものとなったのではないか。そうするとテクストの読みから交通が失われてくる。柄谷氏の'交通'は、帝国の'交通'に置き換えられていく。つまり他者に開かれた交通性は、他者を閉じ込め同一化していく〈世界=帝国〉性となってしまう。子安氏が指摘するように、日本知識人による「〈儒教〉の〈世界=帝国〉性の主張は、東アジアの多様的文化、知識を一元的〈帝国〉的文化として包摂して行く〈帝国〉的イデオロギーの先駆的主張である。」これは、柄谷言説から影響を受けてくる現在の思想空間が、<一>でしかない<一的多様体>に依存していく言説の形成とパラレルとなっている事態で、これがいかなる危険性を孕むかについては多くの言を要しない



子安宣邦氏による体験的報告より (昭和思想史研究会)

「運動をリードする学生たちの言葉も、われわれの耳底になお残り続けている、あの孤立したエリート学生たちの独りよがりの絶叫ではなかった。立法院の学生による占拠という実力行使的行動も、国家のゲヴァルド的行動ではない。それは政府によって割愛され、拒否され、立法院自身も放棄してしまった<審議>を、もう一度徹底的に隠すことなく行うべきことを要求する学生たちによる議会内的座り込み(オキュペイション)であった。これは立法院における民主主義を要求する<民主的な決起>なのである。したがって立法院が放棄した<審議>を民間において取り戻す<公民審議>という街頭教室であったのである。非暴力的座り込みと<公民審議>とはこの<太陽花>運動の特色である。私も立法院外の路上で行われた「街頭民主主義」に立ち会った。それは台湾市民の情報管理をめぐる深刻な問題を含む<電信服務>貿易協定を主題とするものであった。数百人の学生・市民が路上の教室に座り込んだ。台湾人の情報の管理をめぐって深刻な問題を提起する<電信服務>協定について立法院では審議らしい審議はなされていないという。専門家による解説的講義の後に参加者たちは10数人単位のグループに分かれ、疑問を出し合い、討議し、そのい結果をレポートにまとめていく。それらのレポートは意見書に集約され、立法院や行政府に送付される。この街頭教室による<公民審議>の過程はインターネットによって流される」https://sites.google.com/site/twdstreet/



ロンドンのTATE MODERNでウィットゲンシュタインのテクストを利用して表象批判するワークショップに参加した。ロマン主義的大芸術家の称賛に留まるのが多数派英国人中流。表象批判できるのは労働者階級出身のイギリス人と外国人。表象批判する思考はイギリス人の性質からは説明できない

丸山は'正しい心をもつ人々が正しい人々'と考える。ファシズムを支持した'正しくない人々'が正しくない心をもつから永遠に'正しくない人々'なのだ。が、'正しい心をもつ人々が正しい人々'というファシズム的観念に依存していいのか?ファシズムがファシズム自身を批判することは不可能であろう


ファシズムとはなにか?(1)
ー表象の問題

ロンドンのTATE MODERNで、ウィットゲンシュタインのテクストを利用して表象批判するワークショップに時々参加した。このテーマの意義を理解できずロマン主義的大芸術家の称賛に留まるのが多数派英国人中流。表象批判できるのは、労働者階級出身のイギリス人と外国人。もちろん、表象批判する思考は、イギリス人の性質とは関係がない。そもそも表象とは何か?簡単にいってしまえば、表象とは、例えば、'正しい心をもつ人々が正しい人々'というような観念の結合である。そうして、丸山真男は、'正しい心をもつ人々が正しい人々'と考えたのであった。かれによると、ファシズムを支持した'正しくない人々'が、正しくない心をもつから、(永遠に)'正しくない人々'なのだ。しかし、'正しい心をもつ人々が正しい人々'という観念そのものが、ファシズム的観念ではないだろうか?丸山的言説のように、ファシズムをもってファシズムを批判できるかという疑問がある。結局丸山が行った天皇ファシズム批判程度では、天皇ファシズムを批判したことには全然ならなかった。丸山「日本の思想」からは、せいぜい、'正しくない心' (「内なる天皇」)を反省しなさいと説く国民道徳的教化しか出てこない。結論。ファシズムは日本人の性質に還元することができない。そういう表象は批判しなければならない。むしろ、日本ファシズムは、ハンナ・アーレントが行ったように、ドイツやイタリア、イギリスのファシズムと比較した上で普遍的に分析してとらえてみるべき事柄なのである。


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「ファシズムになりやすい精神構造の分析は本居宣長の考えにあることを、丸山自身が指摘」。ニーチェ的宣長観は丸山と加藤周一は同じですが、これは疑問です。特にファシズムの神話は近代国家と一体ですが、宣長には近代国家がないのです、徂徠とは違います神を外部化していく宣長と平田の影響を受けるが、国体の青写真がでてくるのは後期水戸学派です。宣長よりも徂徠の方が近代天皇制国家のヴィジオンを持っていたという説を支持します。丸山の可能性は福沢の読み。智の強調は将来の靖国的祀りに対する反定立。丸山は自分の福沢諭吉を徂徠に読み込んだ可能性があります。大切なのは、福沢を徂徠から切り離すこと。徳川日本が近世だからといって需者達には近代国家の概念が不可能だったとは決めつけられませんね。統治の根拠を人々の'安心'に求める政治神学的議論を徂徠はしていますよ。私の理解では、ファシズムというのは客観的な政治にかかわることです。ファシズムが敬愛と奉仕とかいう心の問題ならば、本当に簡単です。反省しさえすればファシズムを解決できるということになりますから。が、わたしは同意できません宣長と平田とは違うとご指摘したのはよかったです。あなたが単独者がかかわっていく思想の自立をご理解なさっている証拠。丸山のようには、ヨーロッパのモデルを基底に、仁斎から徂徠、宣長と平田という思想家たちを構造の配置として読んでしまうことはできそうにもありません。30年代の宣長的言説がいかに戦争体制とかかわっていたかは勉強すべき。(変なことを言うようですが)、そのためにも、宣長の思想がいかに読めないかを明らかにしたい。(私一人の力では無理ですが)。この読みによって、戦争そのものの言説の正体が浮き彫りとなるからです。心の問題は簡単と書きましたが、その意味は、心理学的な内面だけに依存する心の問題は、他者の関わらぬ純粋故に簡単。元々「日本政治思想史」は戦中に執筆。厳しい検閲を逃れる為に、中立的に心理的な「心」を強調せざるを得なかったという意見もあり

Now a great problem is that how the existence itself of Chinese <Empire> invents its own <Imperial> ideology. The histotical consideration may lead to the reconstitution of concept of Chinese <Empire>,


性愛の闇ののなかで互いに愛し合っていくトリスタンとイゾルデ。ワーグナーが描くように、どちらがどちらであるかわからないほど。しかし、そうすると、ジジェク曰く、「どちらか相手を殺さなければならない。」「それを避けるには、二人の間のは同性愛になるしかない」(謎)。結論。(ステレオタイプの)中華帝国の「中国」に回帰しつつある中国と、(本当は攘夷と名指されていたのに)幕末には自らを「中国」と名乗ったところから錯綜的に近代のナショナリズムを打ち立てていく日本。愛し合うこの両者が互いに殺し合わないようにするには、ジジェクがいう同性愛が必要 !(謎謎)。共通の概念づくりのまえに、日本には「性転換手術」していただきたいです。勃起している靖国の柱を取り除くのです(謎謎謎)

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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年四月(2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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