言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 2015年 5月 (2)

<<   作成日時 : 2015/05/27 03:17   >>

トラックバック 0 / コメント 0



すべて物語は世にあることの趣き、人の有樣を、さまざま書けるものなれば、これを讀めばおのづから世閧フことに通じ、人の情態(こころしわざ)を知るなり。これ、物語を讀む人の心得なるべし(紫文要領)

ヨーロッパは死んだ、それ故に、真のヨーロッパが蘇るかもしれない。ゴダール「水の話」から五十年後に、「フィルム、ソシアリスム」で、「貨幣と水は公共的善だ」という言葉を語ることになるだろう。新自由主義的市場万能論に対する抗議の声、五十代社会民主主義を再評価する声と解釈できるのだ


Une histoire d'eau
1958, 20mn,35 mm noir et blanc
Coréalisé avec Francois Truffaut
Directeur de la photographie;Michel Latouche
Montage et commentaire ;Jean-Luc Godard
Son;Jacques Maumont
Production; Pierre Braunberger
Avec Jean-Claud Brialy, Caroline Dim

ゴダールの「水の話」(Une histoire d'eau 1958)。五十年後の作品「フィルム、ソシアリズム」Film Socialism 2010)の冒頭で、「貨幣と水は公共的善である」(L'argent est un bien public comme l'eau) と謎めいた言葉を語る。新自由主義的市場万能論に対する抗議の声、五十代社会民主主義を再評価する声と解釈できるかもしれないが、ゴダールのメッセージの真相はなにか?現在のヨーロッパの人々の考え方、ポスト構造主義とポストコロニアリズムの間の思想的論争、芸術哲学の展開を考えなければならないだろう。

この政権はなんという言論統制でしょうか!はっきりと線を越えました。二週間 の旅のあとに全く同じ場所に戻ってきたずなのに、すっかり同じ方向に向き始めていた二つのべクトルー 軍国主義のベクトルと全体主義のベクトル

「沖縄の新聞2紙はつぶすべきだ」!?? またお友達が安倍の代弁ですか。この政権はなんという言論統制でしょうか!今回はっきりと線を越えました。二週間の旅のあとに全く同じ場所に戻ってきたずなのに、すっかり同じ方向に向き始めていた二つのべクトルー 軍国主義のベクトルと全体主義のベクトル



「言葉と物」の英訳がそれほど正確ではないようにおもうときは、英語圏の読者が読みやすいように内容が説明されすぎたときに起きるといえるでしょうか。くらべると、いかに渡辺氏がフーコの文体を生かして書いているのか本当にわかります。心は非常にあつく、頭は大変クール

寺山修司は演劇によって社会科学を揺さぶると言いました。それはいかに芸術を予測不可能性として再構成するかにかかっていたのです。さて政治の経験の入り口付近にたつ二十代の女性たちが愛の当事者性を口にするとき、この言葉で、無視できないなにか決定的に大切なことを物語っているようにおもえて仕方ありません。今日インターネット online dating websides の内部を住処とする<裏切られるのが怖い>の効率的で安全な愛ほど、愛から、偶然性を搾取してしまうものはなかったかもしれません。解決されぬかくもおびただしい無知、かくもおびただしい問いをまえに (Sur tant d'ignorances, sur tant d'interrogations demeurées en suspens)、なにが起きるか分からぬという予測不可能な出来事の真実性を愛すること。フランスの哲学者ALAIN BADDIOUは、愛のほかに、芸術・数学・政治の重要性をあげています。


子安宣邦「帝国か民主か」をいかに読むか ( No.2)

沖縄にとって歴史上大きな意味をもった日付が三つある。それは6月23日、
4月28日と、5月15日である。この三つの日付を抜きにしては沖縄の現代史は’語れないと、本土からの修学旅行生のためのガイドブック「沖縄修学旅行」は言っている。


(子安宣邦、1 沖縄の三つの日付、戦後日本論ー沖縄から見る、「帝国か民主か」より」)



あなたたちね、動かないことには、その足元のつながれている鎖にずっと気がつかないままでしょうけど

" Celui qui ne bouge pas ne sent pas ses chaînes "
Rosa Luxembourg ローザ・ルクセンブルグ



" Celui qui ne bouge pas ne sent pas ses chaînes " Rosa Luxembourg


憲法は通常裁判所に違憲審査権を委ねました。だから憲法判断が可能なのはただ、それが通常裁判所での裁判ー事件性・訴訟性に依るのです。そうして砂川最高裁判決では憲法判断を回避しました。またそこで立法者にあらずと言ったのだから横田裁判官は、黙るべきだったのです。ところが自衛権は国家の固有権などと要らぬことを得意げにベラベラ喋るから、きょう安倍は最高裁お墨付きの集団的自衛権ですぞとデマを飛ばしているじゃありませんか


解放されぬかくもおびただしい無知、かくもおびただしい問いを前にして、あるいは筆をおくべきかもしれない。ここで論述(ディスクール)をおえ、おそらくは仕事をしなおさなければならないのであろう。とはいえ、なお語っておかなければならない二、三のことがある。なぜそうしたことを語ろうとするのか、それを正当化することはたぶん困難ではあろうが、要するにそれは、最後の瞬間に、あたかも手のこんだ芝居の山場とでもいったように、古典主義時代における表象の大きな仕組みのなかにそれまでまったく姿をあらわさなかった、一人の人物を導入することなのである。古典主義時代の表象の仕組みといえば、人はすすんで、あらかじめ存在するその法則を「侍女たち」の絵の中に認めがるかもしれない。そこでは、表象がその諸契機それぞれにおいて表象されているわけであって、その場合の諸契機とは、画家であり、パレットであり、裏返しにされた画布の大きなくすんだ表面であり、壁に掛けられたいくつもの絵であり、みずから眺めていながら自分たちを眺めている人によって額縁びはめこまれている人物たちであり、最後に、表象関係の中央、その中心で本質的なもっともはかない二重化にすぎなくなるほど、はるかに遠く、非実在の空間の奥深く挿しこまれ、よそに向けられているあらゆる視線とは無関係な、反映として ー表象されているものを示す鏡にほかならない。絵の内部のあらゆる線、とりわけ、中心にあるその反映からくる線は、表象されつつ不在であるものそのものを目指している。それは客体であり、ー表象された芸術家が画布の上に写しつつあるものであるからー 同時に主体である ー画家自身をその制作をつうじて表象しながら見ていたのは、画家自身にほかならず、絵に描かれている視線は、王というあの虚構の点に向けられている。が現実にいわば際限もなく交代していくこの両義的場所の主人こそ、最終的には、その視線が絵をひとつの客体に、あの本質的欠如の純粋な表象にと変形していく、鑑賞者にほかならないからだ。

子安宣邦「帝国か民主か」をいかに読むか ( No.1)

「第9章 戦後日本論ー沖縄から見る」の前置きの冒頭の言葉は、「沖縄とは」から始まっている。「中国(清)と日本と政府的には等距離の関係をもっていた琉球」と書いてある。「等距離をもっている」といわれる、ほかならない、この沖縄を語るときに、再び中国から語ることも、あるいは再び日本から語ることも不可能である。そこで、中国か日本かの二項対立から逃れるために、あえて台湾で語ろうとしたことの意義を強調している。これは他者としての沖縄を方法論的に語る上で重要であるに違いない。(本多)

「沖縄とはもともとの日本ではない。中国(清)と日本と政府的には等距離の関係をもっていた琉球が、日本の沖縄県になったのは1879年4月4日であった。沖縄は日本帝国の地理的だけではない、政治的にも辺境の位置を担い続けていた。その沖縄は1945年から現在まで、米軍の極東における最重要な軍事拠点であり続けている。この沖縄を視点としての戦後日本の解読は、現在の「帝国」的世界の解読への換喩的な意味をもつであろう。中国本土に対する台湾の政治的位置をふまえながら、私はあえて日本にとっての沖縄の問題を台湾で語ろうとした。台湾・交通大学社会与文化研究所での講義が行われたのは2008年4月9日である。」(p.141、子安)


「違憲」と言える社会は、「違憲」と言えない社会より民主的だ

最高裁裁判所が「違憲」と宣言できないならば、その最高裁のかわりにだれが「違憲」と宣言するのかという問題が本当は存在したのです。憲法の学者たちに、「違憲」である と宣言することが期待されていたのではなかったかと思います。そして今回彼らは「違憲」であると宣言したわけです。また私は弁護士会の今回の声明を民主的方向に沿った行動として支持いたします。なぜならば、「違憲」と言える社会は、「違憲」と言えない社会より民主的だからです。「戦後70年を迎え、日本国憲法の恒久平和主義に、今大きな危機が迫っている。今般、国会に提出された安全保障法制を改変する法案は、憲法上許されない集団的自衛権の行使を容認するものであり、憲法第9条に真正面から違反する」


寸劇
バカ殿「よの中で一番えらいのはだあーれじゃ、きまっておるがな」
三バカ博士「は、殿でございます」
バカ殿「ばかめ、憲法じゃろうが!わしがそんなに偉いと思うか?」
三バカ博士「は、怖れながら、憲法をいかに殿に適応させるかです」
バカ殿「お前たち全員打ち首にしてくれるわ!」


渡辺先生は安易な他者への共感に警戒していたなー慰安娼婦の方々への共感は軍国主義の日本批判となるが、誘拐された日本人への共感はウルトラナショナリズムとなる


Laughing again, he brought the mirror away from Stephen's peering eyes.
- The rage of Caliban at not seeing his face in a mirror, he said. If Wild were only alive to see you.
Drawing back and pointing, Stephen said with bitterness;
- It is a symbol of Irish art. The cracked loking glass of a servant.
鏡に自分の顔を見ないキャリバンの怒りときたら、とバックマリガンは笑った。ワイルドが生きていたらきみをみせたいな!
スティーブンは身を引いて辛辣な口調でいった。
ーこれがアイルランドの芸術の象徴だ。召使のひび割れた鏡

THE MIRROR & THE MASK

ベーコンはアイルランド生まれで(1909年)、17歳までダブリンにいました。ベケット(1906年生まれ)とたった三歳違うだけです。かれらはともに、主に地主である10%の支配階層を構成するプロテスタントの中流出身でした。1916年のEaster Risin、アイルランドが共和国として英国から独立する契機となった大衆蜂起を、ベーコンは七歳のとき、そしてベケットは十歳のときに目撃することになります。ベーコンもベケットも現代世界における崩壊のテーマを共有していますが、或るアイルランドの文芸批評家によると、ほかならない、このテーマは、(彼らの家庭が属した)、アイルランドのプロテスタントの政治的没落を意味した、1916年の出来事から生まれたのではないかと分析しています。もちろんアーチストの作品は子供時代の経験から説明し尽くすことはできませんけれど、仮に子供時代の経験の影響が大きいとすれば、七歳のベケットよりも十歳のベーコンの方がトラウマが大きかった可能性があり、作品で表現されている崩壊感もベケットよりはベーコンの方が大きいのかもしれません。しかしどうでしょうか?


憲法の近代を読む

ツイッターで時々、昔々悪い王様がいましたが憲法がその王様を縛りましたと説明しているおとぎ話風の絵が流れてきますし、最近AKBのどなたかが「憲法が縛る相手は国民ではなく政府であることを知って衝撃を受けました」とおっしゃっているようです。現在の若者たちが憲法が政府の所有物と考えさせるに至った自分自身の責任のことを反省。「拷問するな!」とこれだけはやめてくれと最低限のことを抗議している憲法の名宛人は、現実に拷問を行ってきた政府です。ところがこれとは正反対の方向に、勝手に憲法を解釈した政府が国民をいきなり縛るのが、解釈改憲なのですね。それは事実上解釈壊権のこと。思い返せば、八十年代のアカデミズムの中心は、政府の解釈が憲法それ自身を壊す解釈壊憲を政治的に批判すべきところを、中立的に、解釈の解釈によっていかに憲法それ自身を保つかに腐心した結果、憲法の言論を壊滅させたしまいました。バカすぎたのは、憲法の言論をゼロにしてしまった当時のローカルな自称リベラルのアカデミズム主流と学生の私でした。しかしこれから始まるのだと思います。


鏡と仮面 THE MIRROR & THE MASK

ピカソはアフリカの仮面を利用して作品をつくりました。ポンピドウ・センターに行くと、それらの仮面が展示されていますよね。ピカソの時代の芸術は、多くのアーチストたちがそれぞれの表現の様態において、鏡と仮面 を利用して肖像画をかきはじめたことに気がつきます。映画のエイゼンシュタインも、シュールレアリスムのバタイユのように、仮面に大きな関心をもっていました。仮面の痕跡は至る所に。誰にも見られない鏡の自己の姿も、誰にも見られない仮面?20世紀の近代の芸術が、仮面との複雑な関係を表現したことにたいして、1930年代のファシズム芸術は反発したかのようです。ファシズムはルネッサンスもどき隠すものがないかのような単純な解剖学的身体像を呈示していきました。が、かえって、どうしようもなく死のイメージを喚起していくことになります。ところで「太平洋戦争」という言い方ですでに日本がアジアにもたらした戦争を隠ぺいしている問題も、この仮面にかかわる事柄かもしれません。戦後において戦争が終わっていないこと。戦争を終わらせていないこと。日本人が自らのひび割れた肖像画を隠す言葉の仮面


佐藤幸治は、「1945年8月15日は、明治憲法下の日本が、大正デモクラシーのような一定の成果を上げながら、どうしてひたすら戦争に突き進んでいったか」を問いている。そうして「戦争は立憲主義の最大の敵」とする理念をもった戦後憲法のもとで、なぜ現在の安倍自民党が戦争に向かうのかを言っている。現在の佐藤の行動と発言は大いに評価するが、ただし近代主義が依存している大正デモクラシー観はそのまま受け入れるべきかというと、そうではないとおもう。この点について箇条書きにすると、
1、日本は事実上自民党の<選ぶ>民主主義しかないことの問題。またそれに対応して国民の方も、「大逆事件」以降、選挙しかないのだと考えてきたことの問題。ヨーロッパでは社会政策の絶えざる見直しが自発的な市民運動と連動して実現しているのに、「日本では市民運動が必ず挫折してしまう」のはなぜか?ひとつの考え方として、「大逆事件」に遡ることで、国家が先取りする形で自発的な民主主義の根を徹底的に取り除いてしまったことをいま一度考えてみるべきではないか。
2、幸徳秋水と大杉栄が民衆が依拠するヨーロッパの市民倫理を打ち出したことに対して、国家の側は危機感をもった結果、統制するために国民道徳で抑え込んできた歴史がある。大正デモクラシーも、日比谷公園焼き討ち事件の暴動を統制するために治安維持法とともに普通選挙権をあたえたこと。ここから、戦争の拡大を望んだ国民のもとで満州事変が起きてくることの問題。軍国主義が大正デモクラシーを中断させたのではなく、統制のシステムであった大正デモクラシーそのものが軍国主義を担ったことで、自ら消滅し尽くしたのではないかという問題。
3、佐藤が言うようには、戦後において戦争が終わっていないこと。戦争を終わらせていないこと。このことの例として、イラク戦争で明らかになったように、アメリカは戦争をしたいから戦争をするだけなのに、自民党の防衛大臣が、「地球の裏」まで米軍にくっついていく正当化を集団的自衛権を禁止した憲法にもとめていること。なんのために戦争をしているかわからなくっていたこの前の戦争と同じで、もうすでに自分たちがなにをしているのか分からなくなっているという問題。内閣支持率でみると国民の半分がこのような安倍内閣に共感をもっていることの問題.


毎日新聞からの引用;「佐藤氏は、神権的観念と立憲主義の両要素を含んでいた明治憲法下の日本が、憲法学者、美濃部達吉の「天皇機関説」の否定を契機に「奈落への疾走を加速させ」、太平洋戦争に突入していった歴史を説明。終戦の日の1945年8月15日は、明治憲法下の日本が、大正デモクラシーのような一定の成果を上げながら、どうしてひたすら戦争に突き進んでいったかについて、根本的な反省を加え、日本のかたちの抜本的な再構築に取り組むスタートとなるべき日だったと指摘した。また、アジアの人々に筆舌に尽くしがたい苦しみを与えたことも踏まえ「悔恨と鎮魂」を伴う作業が必要だったと話した。第二次世界大戦後、各国では、大戦の悲劇を踏まえ、軍国主義を防げなかった憲法の意義をとらえ直す動きが起こったという。佐藤氏はその結果、(1)憲法制定権力として国民が、統治権力による権力の乱用を防ぐ仕組みを作る(2)基本的人権の保障を徹底する(3)「戦争は立憲主義の最大の敵」という考えから、平和国家への志向を憲法に明記するなどの原則が強調されることになり、日本国憲法にはその特質がよく表れているとした。」


Le fascisme n’est que l’expression politiquement organisée de la structure caractérielle de l’homme moyen, structure universelle et internationalisation qui n’est nullement le propre de races, nations ou partis déterminés. Le fascisme est l’attitude émotionnelle fondamentale de l’homme opprimé par la civilisation machiniste autoritaire et son idéologie mécaniste-mystique. C’est le caractère mécaniste-mystique des hommes de notre temps qui suscite les partis fascistes et non l’inverse.
Le fascisme international ne sera pas éliminé par des manœuvres politiques. Il cédera à l’organisation naturelle, internationale du travail, de l’amour et de la connaissance.

Wilhelm Reich
La Psychologie de masse du fascisme (1933)


経済思想
…人びとが不足していた物を移入し、余剰な物を送り出すにつれて、ますます生活の支えを国外に頼るようになったとき、必要にせまられて貨幣の使用が案出されたのである(アリストテレス)



最悪の永遠の零

憲法の解釈が戯れる盲目の言葉、自衛隊が殺し/ 殺される沈黙の映像


これをいうと大袈裟な'と肩をすくめる方々が大勢いるのですが、この国はどうしても、自分たちでなにをしているのかわからないままに40数か国と戦争しなければならなくなった'ふつうの国'に戻りたいようです。当時といまとでは違うでしょう。しかし米国につきしたがってドンパチやってもそのことで自分たちがなにをしているのかを分かる保証なんて全然ないでしょう。



寸劇 ; 安保法制は違憲ではないという学者はたくさんいる...?

秘書「安保法制が違憲ではないと言う学者をみつけて連れてまいりました!古代世界で随一の奇鳥であるカラドリオスΧαράδριοςを祀るカラドリオス教の師です」
師「デシル・ホレズ・エアムス、ホ〜ホ〜、ニャア、ニャア」
官房長官(イライラ)「なんて言ってるんだ?」
秘書「はい。鳥が総理から顔をそむけ、必ず死に至りますが、じっと総理の顔をみつめ、その後太陽に向かって飛翔すると、総理は癒されます。合憲となるそうです」
官房長官(きれる)「つまみだせ!」
安倍「待て!...うまくいくかもしれない」


専門家ではないので偉そうなことは言えないのですけれど、ただどうしても言っておきたいことは、'解釈改憲'という言い方で完全にごまかされてしまいますね、このことです。政府が行っていることは'解釈壊権'である、とマスコミは正しく伝えるべきなんです。実際に安倍も憲法それ自身を壊すつもりで取り組んでいますから。さて'解釈改憲'で繰り返し敗北させられてきました。同じ敗北を避けるためには、なんとか色々と智恵をだしあって、いままで言われなかったあたらしいことを、一人ひとりが市民の立場から発言するときがきたのではないかとおもっています。たとえば、安倍自民党は9条だけでなく25条も無き物としようとしていますから、9条を失えばそれと一緒に25条も自ずから失うことになるのだというふうに訴えていくやり方がもっとあってもいいのではないでしょうか。(事実上社会党があったときは、世界トップクラスの行き過ぎた防衛費のために生活への公的助成が儀性になっていると緊張感をもって言っていたとおもいますが。) グローバル資本主義の時代、貧困が普遍的に拡散しているなかで、憲法第25条は他国とも共有すべき25条として、25条の地域的普遍性を広げていく目標を積極的にもつことがあってもいいのではないかとかんがえています。これにかんして考えておく必要があることがあります。たとえば、アフリカの人々はアフリカで生産された食料を自分たちのために消費できません。食料はアメリカとヨーロッパに運び出されるからです。そのかわりに、西側からは何が来るでしょうか?武器が来るのです。食料と武器とが交換されていますが、そういうことがないかのように、恥じることなく平然と、日本は武器輸出国になろうとしています。この方向は倫理的にゆるされないという根拠を、第9条と第25条との互いに切り離せない繋がりから市民が新たにつくっていくことが大切であろうとおもいます。


Pas les rafales à propos
De rien comme occuper la rue
Sujette au noir vol de chapeaux ;
Mais une danseuse apparue

たしかに、考えさせられますね。社会政策のたえざる見直しが、市民運動との連携のなかで、ヨーロッパはきちんと実現するのに、しかし日本ではきちんとやれていない、結局できていないということを思い至りますね。<日本では市民運動は必ず挫折する、だから結局遅れている日本>という、内部に絡みとられた話に陥ることはできるだけ避けたいのですが、ただ考えておく必要があるのは、大逆事件に遡る歴史に関係したことではないかと。大衆があらわれるのは大正からですが、明治の終わりに、国家権力が、百年先を見通して、社会に起きる自発的な民主主義の運動の根を、徹底的に潰しておいたのではないかということは一考の価値があるとおもいます。とにかく百年前に先手をとられているというか。悔しいですが


自発性というのは、組織的に抑圧されているとおもうのですね。幸徳や大杉がいう直接行動の思想とは、自発性の思想のことなのですが、たとえば、日本人は選挙しかないと考えるでしょう。しかしそれでは、「早く質問しろ」、おまえの質問は選挙と内閣支持率で答えを出す、ということになってしまうでしょう。自発性の思想は、吉田松陰のテロリズムみたいに理解されているのはやはり国家権力の策にまんまとはまっているからだとおもいます。国会は大切ですが、選挙しかないと考えると、自発的に考えようとはならないでしょう。そういう意味で、伯爵がアートとの関わりで行っていることは、自発性に依ることなのですね。それがすごく大切とおもっています。芸能人とか職人は芸の官僚だからこちらばかり受けるのですが、もうここからすでに自発性を失っている(笑)


大江健三郎「舗道のアスファルトを水の薄い膜は覆っているのを疾走する自転車のタイヤがこまかく波だたせ小さな霧のように飛びらせる」(「個人的体験」) と引用した今日の天声人語が、(デビュー時に芥川と比べられたほどの'美しい'文章を捨てた当時の)大江が書いているだけに、自転車が反戦の象徴だったことでも伝えるのかと思ったら、もっぱら道路整備の必要性と安全確保を言うだけなのです。この時代に、どうしたら新聞はここまで非政治化してしまうものなのでしょうか!?


「真摯な謝罪」だって?なにを寝ぼけたことを言っているんだい。つぎは安倍は質問者を軍の銃で撃ち殺すつもりでしょう。かれが手を汚さなくとも秘密保護法がやるさ



美術館にくると、それを「非日常」として語りたがる言葉は、悪魔祓いの一種で、正直苦手におもうことがあります。勝手に、建築の物理的な外壁を境に、外に属する「日常」と、内に属する「非日常」とを分けているようですが、なぜそんなめんどくさい分け方を?みたいな。「日常」に生きているという訪問者が、たとえば、テートモダンのような美術館を「非日常」とラベル張りしても、壁を超えると中には、(あるいは、門から庭を横切て3分後には)、常設展に出会います。一度限りの訪問ならば、「日常」性を意識できないかもしれませんが、(内容が少しずつ変っていくのですが)、たしかに、繰り返して訪ねるときは、ほんとうに常設展が「日常」性としてあらわれます。「日常」と「非日常」との間の境界線なんかないんだという美術館の存在が非常に過剰で面白いところですね。


中島智さんのコメント

「おそらく「美術館=非日常」というイメージへの違和感は、非日常という概念使用の茫漠さから来ているのだろうと思われます。
非日常とは「他者の日常」のことであると、もうすこし想像力を働かせれば、その「他者の日常」は「私の日常」を映し出すものだとわかるはずなのです。
そのための大前提となるのが「作品=他者」という認識ですが、この認識ができていないと「他者の日常」は漠然と「非日常」と名指され、自らの日常で切りとられた解釈だけを「他者からのメッセージ」として持ち帰るだけになります。
そういった倒錯から出るためには、おっしゃるように安易に「非日常」ラベリングをせず、その「非日常」の内実を観ていく必要があると思っています。」


MEMO
1、スコットランドの独立 (ジョイスならどう考えるか?)
2、ダブリンの署名がない「ユリシーズ」は、作家のユートピアが託されたアイルランドを表象した開かれた本
3、モダニズムの勝利と植民地主義
4、68年革命の反スターリニズム、西欧のノンセクト・ラジカリズム、反新植民地主義
5、ポストモダニズム的マルチカルチュアリズムとその限界
・非合理性('われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか'という起源の問い)を みとめつつ知を合理化していくことの限界
ー>が、イラク戦争を契機に、イスラムの排除によって成立したヨーロッパのあり方 (国家の排他的他者への揶揄、再び民族主義。今日ジョイスはアラブ人を主人公とした理由。帝国の排他的他者への揶揄の様相?)
6、グローバル資本主義の分割である第4帝国としての<ヨーロッパ>
ゴダールの<故郷への帰還>、反グローバル資本主義の <ソースィアリズム=ギリシャ=ヨーロッパ> 、ただし帰る条件として豊かさとはなにか根本から語ること

ゲール語の消滅が起きた後に二十世紀にアイルランド語の再建が起きる一方で、どこの国の言葉も翻訳不可能な「フィネガンズウエイク」が現れた。それが<帝国>アメリカのどの国家の固有性に根ざさぬ包摂を代理するとしたら、プルーストとゴダールは忘却によってその包摂から脱出できる時間の道を示した。
ゴダールの映画史は、いかにプルーストを読むのかを問うた映画であった。本で読んで考えるところを、敢えて映画でプルーストを考える意味はなにかとゴダールは問うたのだ。ヒチコックのシナリオは忘れられていくが、ハンドバッグ・砂漠の中のバス・一杯のミルク・風車小屋の羽根・ヘアブラシ・並んだボトル・眼鏡・一枚の楽譜のことは覚えている。映画の事物は永遠に記憶されるみたいだ。なぜ人間は物語を忘れて事物のイメージを忘れないのか?忘れまいとする意志だけでは説明しきれない。消滅しきったかにおもえた記憶が偶然の介入で再びおもいだされるとき、同じ事物が同じようには繰り返されないようにみえる。長い時間のおかげで、事物と物語の直接的結びつきが解かれているからか?一方、吉田松陰・国民道徳・A級戦犯合祀靖国神社などは本当は人々が憎んでいる物語、ただ愛しているふりをしているだけの物語。愛しているふりをしている人々のあいだでも、憎まれているこれらの物語は忘れられていくにちがいない。捨てられていくだろう。未来の互いに愛する人々のあいだでよみがえることは決してないだろう。


ブーメランみたいに戻ってきた「周縁」論について

グローバル資本主義・帝国・日本株式会社からの自立が問われている。全文は読んでいないが、新聞のインタビューで、憲法改正の危機を訴えた作家は「周縁」の意義を言いはじめたようだ。「周縁」で意味されるのは、グローバル資本主義とその分割である<帝国>の「周辺」には属さないでやっていこうという距離のことなのだろうか。そういう意味ならばよく理解できる。これから憲法9条と25条との直接的結びつきを打ち立てることの重要性があるとおもう。作家が新しいことをいうつもりならば、思想的な問題のところで、「周縁」は「中心」を活性化するという、無傷のまま残っている山口的な天皇制構造論を批判せずに済ますむわけにはいかないだろう。「中心」には、日本株式会社と、吉田松陰・国民道徳・A級戦犯合祀靖国神社が位置しているのだとしたら。意図せずして、そのような現状肯定的な「周縁」ならば、柄谷が日本の位置を称えていう(市民なき)「亜周辺」とそれほど違いがなくなってしまう。作家が「新しいこと、きっとある」として「周縁の提起」に託すところで、本当は、<市民からの提起>を言うほかに選択があるのかと言わなければならないほど追い詰められてきたのである、3・11以降は



なぜ謝罪するのかを明らかにすること

最近の映画ではなんとリムリック出身の俳優がクロムウエルを演じるので狼狽いたしますが、17世紀のイギリスを舞台とした、国王・貴族と、反国王のクロムウエルがいた市民階級との争いは、21世紀のコンテクストで置き換えたら、国際資本と大銀行と、国内の中小企業と農産物生産者の対立として大まかにとらえることができるかもしれません。国会主権は、議会が国王から戦争権を奪い (国王が自分の名誉のために他国と戦争するためにいきなりに勝手に課税できるということはできなくなった)、そして国王の最後のよりどころであるかれに排他的にみとめられていた結婚の立法に干渉していくことに至って完成したと理解していいのだろうとおもいます。(これは、戦後憲法が天皇に戦争の死者を主宰することを禁じた方向と比較できるかもしれませんが。) その議会はというと、昔BBCの議会の歴史を扱った番組で、17世紀の議会はこんなだったろうと再現したものを興味深くみたのですが、内戦を避けるために集まることは集まったが、敵同志の間で議題という観念もなく、時間制限なく喋りたい人が喋るという感じで全員がヤジりあっていました。さてここから現在の話ですが、なんでもかんでもヤジを禁じることで言論からヤジ性を奪ったら、それこそ、人間社会の隙間・空白をマニアックに厳格に支配しようとする植民地主義というものでしょう。今回質問を受けている安倍の「早く質問をしろ」は、第三者的なヤジとしてとらえるべきものではなく、意見の違いを説得していく自由な言論を重んじる国会全体への侮辱としてかんがえるべきではないでしょうか。安倍の国会に対する侮辱は、多数決の物質主義を生み出してきた自民党政治の暴力、軍国主義の帰結にほかなりません。安倍は謝罪するといっていますが、ヤジったことを謝罪するのか、それとも国会を侮辱したことを謝るのか、大きな差ですね。安倍内閣に国会の侮辱をみとめさせなければ、それはただちに国会と国民の敗北です。


「エコノミスト」誌の社説は、イラク戦争のときブレアー元首相の米国協力を支持していました。ヨーロッパに十年以上住んでいた私などは、「エコノミスト」誌の風刺画をみると、日本のメディアの息苦しくなってきた翼賛体制のような危機的状況のことよりも、むしろ、アメリカのための戦争のときに、戦争協力をもとめたアメリカの大統領がいかに、イギリスというか全ヨーロッパのメディアを踏みつけてきたかということを段々と思い出してしまいます。そしてヨーロッパがいかにこれに抵抗できたかということも考えます。報道規制がしかれたイラク戦争のときは、ユーロテレビが<ノーコメント>の映像を流し続けたのですが、これはテレビを観る人々に一定の客観的判断を喚起する一つのやり方だったかもしれません。(少なくともその可能性はあった。) 集団的自衛権行使のときの報道規制に抗して、日本のメディアの誰がノーコメントの映像を流し続けるのだろうか?もしそれすら許されないとしたら他の方法はないのか?なにもかも手遅れにならないように現在考えておくべきことはなにかというのが、風刺画をみながら思うことであります

近代の読書人・知識人の自己触発auto-affectionとは、主観性subjectivity又は対自性the for-itselfへの可能性のことです。現象学的にいって、声 (フォーネー) との統一性を前提としたこの自己触発を伴わずしては世界worldが現れることはありません。ナチスがシュールレアリスムを怖れたのは、同様に「資本論」の現代日本の知識人・知識人が「世界史」(唯物史観なき)ピケティを怖れているのは、それらが、近代が住処とする自己触発の世界を脅かすからではないでしょうか?そうすると、問題は、20世紀的思想の呪縛に存します。ナチス<世界>と、「資本論」を再び語りださせている現代日本の読書人・知識人<世界>は互いにそれほどかけ離れている存在なのかという疑問です。(続く )


 「ピケティのこの本がふたたび『資本論』を呼び出し、口とともに頭も軽い評論家どもに『資本論』を語り出させている現代日本の読書人・知識人世界に私はうんざりしている。『資本論』という思想的知的呪縛の中に21世紀のいま依然としているのは、ロシアでも中国でもない、日本の知識人だけではないのか。」(子安氏)


「侍女の間」の画家ベラスケスは、モデルとして描くべき君主、描くべき非合理な存在が、眼の前から消滅してしまいそうで当惑している。鬼神のような非合理な存在を前提とした社会を考えていた思想家の孤独は、スペインの画家のより深くなるであろう。祭祀的なものは人間社会に不可欠だ。そうつぶやいたとき、荻生徂徠は、孔子の人生と同様に、この自分にもまた、仕える君主がいないではないかと気がついて愕然とした。だれにつかえる何のための官僚か、と、徳川家の大岩として仕えていたはずのアイデンティティを自らにいつものように問いはじめた。饅頭かじって寝っ転がっている道端の石ころとしても、遥か過去に存在した制作者の聖人への思いだけはしっかりと保とう。と、廊下で嫌な咳をおさえてそのまま玄関へ行く。家の者に気づかれないように灯りも持たずにここから、海の底の小船の徘徊のごとく、深夜の江戸に、未来を思い出すように、会ったことがない時代、明治にむかって、ルソー的精神が散歩しはじめるときであった...



光州事件を証言した、韓国のアーチストが、反靖国をアピールするために、東アジアのヤスクニズムと称した展示をブレヒト小屋で行うようです。数年前に洪さんの講演会に出ました。東アジアの人々は、靖国神社という日本国家のあり方にたいして事なかれ主義的に目を逸らさずに、批判的に向き合わなければならないと言っていました。ところで、われわれは東アジアのヤスクニズムをみるだけで、われわれはなにもしなくてよいのだろうか?かつて、芸術の側から、岡倉天心がいう「東洋」とは、帝国主義に組み込まれまいとする、アジアにおける非暴力抵抗の平和主義の理念的構成でした。この岡倉の理念を再構築するような、東アジアのノリナガ二ズム(あるいは、東アジアの反ノリナガ二ズム)は不可能だろうか?(中近東を含む)を侵略する戦争体制に抗議する、平和主義の理念でなければなりません。ここで戦争体制とは、集団的自衛権・徴兵制・核武装、また貧困問題を解決せずに再び一国体制的な戦争経済を自立化させていくことに集中する体制です。だがなぜノリナガなのか?本居宣長とは誰かを知る必要があります。天皇の言説の思想性をとらえようとすれば、荻生徂徠から影響を受けたこの人の仕事を無視できません。天皇制を批判するとは、本居宣長を批判することにほかなりません。だからといって、(昭和の天皇ファシズムが近代国家からしか生じないことを無視した)近代主義者のセレブ達がやるようには、江戸時代に生きた、近代国家がなかった、在野の思想家をファシストもどきものとして糾弾するのは行き過ぎた反省でした。当時宣長が中国文明からの自立を唱えたとしても、近代的な意味で、国家の敵対他者に対する揶揄とみなすことに無理がある。宣長の時代には、今日アジアに対する憎悪を口にする安倍とお友達(NHK経営委員会の長谷川)が同一化しようとする国家がなかったのですからね。当時宣長が中国文明からの自立を唱えたとしても、近代的な意味で、国家の敵対他者に対する揶揄とみなすことに無理がある。宣長の時代には、今日アジアに対する憎悪を口にする安倍とお友達(NHK経営委員会の長谷川)が同一化しようとする国家がなかったのですからね。宣長の自立の思想でかつて意味されていた内容を解釈的に問うことよりも、むしろ、宣長が今日生きていたら今日のコンテクストで自立を思想的にどのように発展させていくかを問うことも大切かもしれません。ヨーロッパ・アメリカ・ロシア・中国から現れてくる、グローバル資本主義を分割した<帝国>の権威主義からの自立を訴えたのではあるまいかー平和の共存をのぞむ地球のすべての共同体の自立のために。包摂してくる<帝国>を、共同体の傷つきやすい身体を損なう外敵として表象してうえで、<帝国>の一元主義的全体性の論理を罵ったかもしれません。東アジアのヤスク二ズムが批判する靖国神社といっしょに、近世・近代の伊勢神宮の国体形成の歴史もまた批判的に論じられるべきときです。

What is AUTOPORTRAIT? For what is the space of N-dimensional topological multi-languages in FW ?
Joyce wrote a book emancipated the people's voiceless voices from the fascism looming in 1920's- 1930's. It is considered as the revival of Realism in 1930's, coming after the avant-garde movement in 1920's, among the utopian artists reconstructing Europe's universal mind to the more developed form after the World War I , a great collapse;"Der Unterang des Abendlands"
"Documentarily fictional"or "documentarily fictional", Godard would call FW cinéma comme instrument de pensée. The Godard's "Histoire du cinema", a work with strong autobiographical elements, echoes Joyce's "FW", and resist the totalitarianism in neoliberalism and neocolonialism in 1990's, both of that massacre the Histories of peoples

ジョイスのヨーロッパに定位したトポロジー的多言語空間は、ゴダールならばフィクション的ドキュメンタリと呼ぶだろう。第一次大戦という<西欧の終焉>後に、アバンギャルド芸術期を経て到来した、1930年代における高度な次元でのリアリズムの再生であった。ファシズムから民衆の声を解放するFW


The commentarial study consist in substitution. By substitution people makes a classic productiveness. It depends on the human's distinguished nature that it always abandons the closed interior space of interpretation and traverses to its without. To reduce the relations of paysage to viewer to the relations of book to a reading subject. I love the paysage of voyage, Sessyu ( 雪舟), Rembrand, Mizoguchi,Tarkovsii, Godard

知「か」無知か?これはポストコロニアリズム的風景に置くと、啓蒙か自然か?という大英帝国の内部の問いとしてある。吉本・親鸞的な関係の絶対性として第三極的に知「と」無知に辿る着く依る救いはポスト構造主義的解決とて、アイルランドにおいては教育ある親英的ロマン主義的中流の裏切りでしかない。啓蒙「か」自然か?と問いを立てても、大英帝国の知の支配からは脱出できぬ。この問いそれ自身が帝国の内部の問いとしてあるからだ。では啓蒙「と」自然で脱出できるか?この問題をポストコロニアリズムが分析する以前に、ジョイスがマーテル塔の中でゲール語を喋るイギリス人という問題を呈示していた.
ジョイス文学はモダニズムの金字塔。そのジョイスがポストモダニズムの先駆者として再発見されるのは、デリダの影響下に「ユリシーズ」翻訳が普及した八十年代から。ところでデュラスの文学が''はやすぎたポストコロニアリズム'と評されるが、これはジョイスについて言わなくてはならない言葉だった


風景鑑賞の奥義、ふくろねこ流注釈学的方法とは?ホー、置き換えの技、即ち、自然と鑑賞者の関係を、古典と読む人の関係に還元することニャリ。古典を豊かにするのは人間なり。これは、自立した閉じた解釈を打ち捨て、常に外部性を持ち込まんとする人の奇妙な性質による。旅の風景画を好むー雪舟の如し

テートモダンに展示してあった
デシュアンの「泉」の前で
詩をこしらえようとした
泉は弱腰の発言する黒板だったから
それほど無言の映像ではなかった
近づいて、泉のなかを覗く自分に
この阿呆!と、
盲目の言葉が雷の如く降下してきた
ジョイスの本の中の
砂漠に湧いていた泉だったんだ

3・11は、渡辺一民氏に、思考させ語らせました。5人ぐらいの少人数で行った市民大学の講座は、三年間つづきました。毎年四回ぐらい。思い返すと、粗雑でレッテル張りのようだと反発と非難を受け、私のほうも自分の至らなさに絶望的な気持ちになったものでしたが、三年めには褒められることもありました。この僕がこうして一生懸命構築してみせた説を承認しない'うるさい'奴がいると(笑)。しかし「君の問いには虚を衝かれたよ」という素直な驚きからは、先生の知的な喜びの方を感じることがありました。健康を心配したご家族の反対もなくはなかったようですが、大雨だった昨年末の納会の後で三鷹まで同乗していけと誘っていただいたタクシーの中で独り言を言って悦に入っていました。家で本を読んでいたよりは、ほら、やっぱり、他人の前で考えを語ったことの方が得られるものがあったじゃないかと。これは、私が聞いた最後の言葉となりました。渡辺先生、どうもありがとうございました。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
2015年 5月 (2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる