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<<   作成日時 : 2016/03/06 00:23   >>

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反知性主義というのは何でしょうか?知性主義の反対物?その場合、知性主義イコール理念性、反知性主義=反理念性、ということでいいのですが、ただしこの等式が必ず成り立つとはかぎりませんよ。厄介なことに、反知性主義の側の一見理念的構成される奇妙なものが出没してきました。ポストモダンのモダニズム化にみられるような、理論の反動的前衛化、のことですね


▼2000年に、浅田彰氏 AKIRA ASADAが「ニューレフト・レビュー」誌に寄稿した論文のために呈示されたいわば日本左翼年表。思想史的に、文学史的に、日本左翼を整理している(ヨーロッパでは哲学者がもつ知識人的位置を日本では文学者がもっている)。▼ここには、柄谷からの影響によるが、理念的構成を重視する思想家達の名前が書きとめられている。この年表は日本共産党創立の年1922年から始まるのはその理由からだ。浅田氏はその約50年後に、日本赤軍と石油危機の後の73年に、自らのポスト構造主義しての思想的位置づけを行う。70年代が重要であるという認識によると思われる。▼68年パリ革命の運動は、理念的構成を脱構築し経験知を重んじた単独性の思想に伴われた。ドゥルーズ&ガタリ「アンチオイデプス」「ミルプラトー」、フーコ「監獄の誕生」といった重要な仕事は68年以降に出た。▼他方で、70年代ポストモダニズムの批評精神は、80年代の消費主義によって骨抜きになり次第に消滅に向かった。グローバル資本主義が本格化する90年代から、その対抗として国家主義・民族主義の反知性主義の側で復活された一見理念的構成の言説が広まることになった。ポストコロニアリズムの思想が十分な成果を出す前に、ポスト社会主義の思想?として、ポストモダニズムのモダニズム化という奇妙な現象が出てくるだけでなく、教科書問題や靖国問題などの、イラク戦争以降に顕著となる、戦前の国体的権威主義もそのままの形で復活してくることになった。▼浅田氏の日本左翼年表は一応2000年までであるが、2016年の現在を考えると、「日本左翼が定位する内部的な無の場所」は、「世界史の構造」「帝国の構造」の言説(反動的な理論的前衛)によって、「破綻しつくした戦後思想、その無の可能性の中心」となってしまったかのようにみえる。しかしオキュパイ運動以降、白紙の本を一行一行書くように、市民たち一人ひとりが自ら政治を語るチャンスが来た時代はもう後戻りできないようにおもわれる。





岩井克人「不均衡動学」(1989)を読む

▼マルクス「資本論」をシェークスピアを通して分析した、経済学者・岩井克人氏の「ベニスの商人の「資本論」」に到底及びませんが、最後の審判の日の「不均衡動学」というような切り口で、演劇というものを経済学批判の視点から読み解くことができないかというのがここでの私の目的。▼岩井「不均衡動学の理論」をホルヴァートを通して分析したいと思います。▼この「不均衡動学の理論」は、経済学の「学」に向けられた言説批判というか、「これは、まさに合理性というものの逆説にほかならない」という口調で「逆説」という言葉が氾濫しています。▼われわれに教えるその逆説は、効率性と安定性の二律背反に関わるものです。そして「市場経済とは、まさにその外部によってその内在的な不安定性から救われているのであるという逆説がここに存在している」と言われるのですが、この二律背反こそがネオリベ経済学に対するアカデミックな反論の視点をなします。▼つまり簡単にいえば、(マクロ経済学においては)効率がよくなればなるほど不安定性が増大するという関係がみられるということですね。
▼さて演劇ですが、ホルヴァートが「愚かしさのようなものほど、永遠性を感じさせるものはない」というとき、この「愚かしさ」とはなにかとかんがえるとき、それは、「外部性」の概念に関係しているのではないかとおもうのです。▼なぜ「最後の審判の日」アンナはトーマスフーデツをあれほどかばったのかという問題があります。これなんかは、外部性としての愚かさという切り口からとらえることができないだろうかと思うのですね。▼アンナはなんらかの意味での人間的な硬直性をもっていたように感じました。後期近代21世紀において極まる、効率の果てしない追求と怖るべき安定性の拡大、差別されていく精神の空洞化。これはすでに1930年代にさかのぼりますが、われわれの現代に必然的に直進していく体制にたいして、その外部に立とうとするアンナ。列車衝突事故に帰結しましたので、愚かにみえますが、それは事後的にいえることで、キスは、アベミックスのような市場至上主義の経済合理性の立場からみれば「非論理的」であるが、社会的な存在としての共同体の立場からみれば「一見したほど非論理的ではない」と私は考えます。▼時間を均質化していく機械仕掛けに進行する合理化と危機的な不均衡に巻き込まれていく人々。トーマス・フーデツに、アンナは人間性の意味を回復しようとしていわば経験知としてのキスというごとき言葉の光と闇を与えました。ホルヴァートは、近代にたいしてなんとか巻き返していこうとしたプロセスがあったことを、ほかならない、二人共同体を通して舞台で表現したのではなかっただろうか。



感想文ー東京演劇アンサンブルのホルヴァート「最後の審判の日」(1936)

▼「最後の審判の日」(1936)の上演を、2016年の日本で行う意味はなにか。演出家の公家義徳氏が現代社会のストレスやヘイトスピーチの問題との関連性を言及していた新聞記事を読んだので、今日の政治家が率先して行っているようにみえる、「戦争する国家」が敵対的他者を揶揄するヘイトスピーチというものについて考えながら、この芝居が書かれた1930年代が先行していた歴史を念頭にブレヒト小屋へ向かった。▼戯曲家のホルヴァートは、「私のすべての作品の戯曲における根本主題は、意識と潜在意識とのあいだの永遠の闘いなのです」と言っているが、舞台における「意識」と「潜在意識」とのあいだを垣間見たという思いに駆られている。探偵のようになって、自らの「意識」の覗き穴から、「エデンの園」を喚起する「トーマス・フーデツ」と「アンナ」の性愛キスを契機に滑稽に展開する人間心理ドラマの喜劇を楽しんだ。と同時に、この芝居がたんに列車事故の犯人探しの物語に隠ぺいできないような不気味なものに覆われていると感じながら、どの場面にも住民たちが覗いている姿が存在するという、国家が国民生活の隅々まで監視する国民総力戦前夜の息苦しい不気味さを目撃していた。そして、万歳三唱する男性たちに囲まれた、三唱の渦から外れた無気力な女がかわるがわる相手を変えながらダンスをする場面は輪姦を想起させて戦慄が走る。▼「私のすべての作品は悲劇である。それが喜劇的となるのは、不気味だからにほからない。この不気味なものが存在しなければならないのである」舞台の進行に伴い、キスがもたらした悲劇である「列車衝突事故」の犯人さがしの「意識」と、聖書の物語のごとく罪を問う「潜在意識」のあいだを呈示していく。そうして、描かれる市民生活の日常が、喜劇的に「不気味なもの」、つまり、読み解けない徴の連鎖と変容していく。「トーマス・フーデツ」が死者の魂との神学の教理問答というべき拷問に絡み取られていく「最後の審判の日」に、祖国の罪なき無垢なイブ(国民)を殺戮しようとする外部からの侵略者アダム(他者)がスケープゴートとして呼び出される、という潜在意識の構造が繰り返される歴史を目撃する。▼「フーデツ夫人」、「アルフォンス」、「トーマス・フーデツ」の三人が登場する二幕冒頭の会話は、「人間性は闇のなかの弱々しい光でしかない」というホルヴァートの言葉を彷彿させる。「アンナ」の殺人の嫌疑で追われる身の「トーマス・フーデツ」はもはや登場人物としての「駅長」ではなく、ファシズムの時代に亡命を余儀無くされたホルヴァート自身のごとき知識人として現れているのではないかと想像する。そこには追い詰められ孤立しているがゆえに、「人々に自分自身を認識してもらうために書く」ことが可能な知識人の孤独の力が表現されたのではないか。主題の取り組みと表現のバランス。役者のエネルギーと方向性。チェンバロの生演奏による音楽。照明、舞台美術衣装と振り付けのアイデア。全体がすべて面白く調和し非常に洗練された作品ができあがった。日本初公演というこの舞台は、三年前の野心作である「忘却のキス」を超えたかのようにみえる。




▼時枝誠記は、ソシュールの言語理論を批判し、独自の言語観に基づき、言語過程説を唱えました。言語過程説は、言語を「もの」ではなく、人間の表現活動であるとみる言語理論です。ここでは、非専門家の私の関心ですから、「国語学原論」(1941年)が切り開いた言語学的成果を問うことよりも、彼において何が言われたのかという思想的なものに関係したことがらを問うことにあります。▼時枝は、言語の存在条件として、主体(話手) と場面(聴手そのほか)と3素材の三角形を提示します。「この三者が存在条件であるということは、言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)について語ることによって成立するものであることを意味する」といいます。

「画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描くところの主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるということになるのである。言語の場合においても同様で、「私が読んだ」といった時の「私」は、主体そのものではなく、主体の客体化され...たものであり、「私が読んだ」という表現をなすものが主体となるのである。主体は「私」という語によって自己を表現しているのでなく、若し主体の表現それ自体を知ろうとするならば、「私が読んだ」全体を主体的表現と考えなくてはならないのである。主体の本質は以上のようなものであって、言語の存在条件として主体の概念を導入することは、本論の展開の重要な基礎となるものである。」


「CDは事物風景であって、主体Aに対しては、まったく客体的世界に属する。Bは主体Aがこの客体的世界に対する志向作用を表し、B及びCDの融合したものがすなわち主体Aの場面である。ゆえに場面は純客体的世界でもなく、また純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界である。かくして我々は、常に何らかの場面において生きているということができるのである」

▼ここで明らかにされているように、時枝の場合は、主体が言語学の客体の側に置かれて固定されているのではありません。時枝は主体を思考主体としてとらえるています。ここで私がここで読んだことといえば、その思考主体に時枝自身も属しているということが彼に自覚されていたという可能性です。そういう言語は「言説」といわれているものと無関係ではないだろうとおもいます。▼ここからみると、間違えを恐れずに言うと、言語を思想の歴史から考えていく方法をもった思想家ではなかったかとおもうのですね。かれはこう言います。▼たとえば、言語を年代順に実証的に調べていくというやり方で、ヨーロッパの理念的に構成された音声中心主義の言語学をそのまま日本語に適用してしまうと、やはりヨーロッパの解釈学を介して構成される「大和日本」の語る言葉(声)をとらえるということになりますが、時枝はこの内部化を拒んだのです。この拒否は、昭和ファシズムにもった意味は大きいと言わざるをえません。▼そもそも、文字を読む人間が文字なき言葉の世界を考えることの無理というか・・・文字が歴史意識を作り出したのだとしたら、その歴史意識にしたがって文字に先行するという時代の言葉を考えることは無理なのではないか?と、私などは思ってしまうのですが、時枝の場合は、かれは文字(漢字)の介入について考えることによってかれの思考を外部に置くことを試みた、あるいは、国語という単一のシステム(「場面」)にたくさんの穴を開けようとしたということではなかったでしょうか。



les âmes ne sont pas du domain de la ressemblance ou de l'équivalence..


柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(1978年)を読む

「われわれには、反復は代理されえない(かけがえのない)ものに対してのみ必然的で根拠のある行動になるということがよくわかる。行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能なある特異点に関わる。Nous voyons bien que la répétition n'est une conduite nécessaire et fondée que par rapport à ce qu ne peut etre remplacé. La répétition comme conduite et comme point de vue concerne une singularité inéchanfeable, insubstituable」▼ここでドウルーズは単独性について語ろうとしています。この点についてスピヴァクが明快に説いています。つまり、単独性は倫理が問われるときに起きるもので、知るという企てを延期します。ポスト・スピノザ派のドゥルーズが定義するように、反復されるのは差異なのです。われわれが理論的であろうとするとき、単独性は助けにはなりません。理論は一般化を目に見えるようにします。単独性は理論的なものをさえぎり、前衛主義を妨げます。単独性と理論的なるものの関係は、いわば実践理性と純粋理性の関係のようなものです。単独性が稼働し始めると、単独性は概念が現れるのに厳然と抵抗する、といいます。▼このことを念頭におくと、たとえば、『マルクスその可能性の中心』の柄谷行人の場合、「資本論」を構成する価値の理論を中心として存在することを見出したことが理解されます。単独性と柄谷がいうものもやはり、実践的に働きはじめることが期待されているのです。単独性は理性概念が現れることに抵抗することになるから。日本知識人の「資本論」とのファシズムともいうべき不可避な関係を理解する必要があるのですが、この柄谷の日本ポストモダン的脱構築は、知識人たちに<だれが「資本論」を読むことができるのか>を決定的に教えることになりました。▼だけれど、柄谷は90年代において、ポストモダン言説のネオリベ的言説への転位に失望した結果、「資本論」の読み方を新たに構築していく、'命がけの飛躍'の必要性を感じたようです。ただし「新たに」といっても、それは、柄谷による、宇野の「経済学の方法」の方法論的こだわりと、河上肇「貧乏物語」の物語とを足し合わせたのではないかとおもわれるような方法論的物語を題目にした、再びヘーゲルの側に回帰した帝国論、ポスト社会主義論の理論的構築でした。東アジア知識人にたいして、<だれが「資本論」を読むことができるのか>ということを教えることになりました。▼それにしても、柄谷は、「世界史」的展望から「120年周期」の予言を繰り返しているだけです。世界史の構造から帝国の構造へと進めていくなかで、帝国間の平和を予言します。ここからわれわれは柄谷がわからなくなっているのです。彼の予言に従うと、未来は帝国形成に至るヘゲモニー国家の争いだけなのか?柄谷が語らぬフランス革命が齎したもう一つの側面、市民の政治化が再び起きる可能性はないのですか?20世紀に植民地主義と二つの世界戦争に帰結した、19世紀的国家主義・民族主義の悪夢を乗り越えようとする、21世紀グローバルデモクラシーの時代に、破綻した過去を一生懸命再建しようとしているにしかみえない、柄谷をよいしょする日本マスコミも、3・11以降目覚めた市民の蜂起を恐れているから「帝国」の教説を見抜けません。
西欧の他者によって語られてきたが、自ら語ることがなかったアジアの歴史を語りはじめたことの意義はありますが、そうだからこそ、それは日本精神の亡霊みたいな「世界史」が成し得ることではありません。ヘーゲルは言いました。歴史は繰り返されるー一度目は悲劇で、二度目は茶番で。たしかに、二度目の'命がけの飛躍'は、『マルクスその可能性の中心』のまえー帝国という名で国家と民族を物語るヘーゲル的前衛主義ーに戻ってしまいました。



「今、平和を語る」?柄谷行人は「120年周期」の予言しかしていません。そこで帝国間の平和を予言します。でもね、彼の予言に従うと、未来は帝国形成に至るヘゲモニー国家の争いだけか?柄谷が語らぬフランス革命が齎したもう一つの側面、市民の政治化が再び起きる可能性はないのですか?20世紀に植民地主義と二つの世界戦争に帰結した、19世紀的国家主義・民族主義の悪夢を乗り越えようとする、21世紀グローバルデモクラシーの時代に、破綻した過去を一生懸命再建しようとしているにしかみえない、柄谷をよいしょする日本マスコミも、3・11以降目覚めた市民の蜂起を恐れているから「帝国」の教説を見抜けません
▼「私がいう帝国主義や自由主義は、ふつう世間でいわれている意味とは違うので、もう一度説明します。たとえば、18世紀ヨーロッパでは、経済的にヘゲモニーをもつ国家だったオランダが没落したあと、帝国主義段階に入った。そのとき起こったのがナポレオン戦争です。このあと、勝利したイギリスがヘゲモニー国家となり、自由主義時代が続いた。しかし、19世紀末には、イギリスのヘゲモニーが失われ、英・独・米国が争う状態が続いた。つまり、帝国主義段階に入った。通常、帝国主義と呼ばれるのはこの時代です。このあと、アメリカがヘゲモニー国家となり、自由主義段階に移行した。しかし、1980年以後、アメリカが経済的に没落し始めた。そして、次のヘゲモニーをめぐる争いが始まった。ゆえに、帝国主義段階に入ったといえます。 現在、アメリカは没落しつつあります。次のヘゲモニーを握るのは中国あるいはインドでしょう。ただ、その前に、資本主義そのものが終わってしまう可能性がありますが。はっきり言えるのは、ヘゲモニーをめぐる世界的な争いがこれから続くということです。世界は今、「帝国主義的段階」に入った。120年周期という観点からみれば、現在は120年前に似ているといえます。 」(今、平和を語る 。戦後70年への伝言 哲学者・柄谷行人、毎日新聞)



「レーニンとスターリンの例をあげましょう。・・・スターリンがハプスブルク家とロシア帝国の残光、とくにハプスブルク家の残光に語りかけたとき、彼が実際に語っていたのは、きわめて長きにわたる帝国の伝統のようなものについてでした。その帝国は多民族で、レーニンが語った国家とはまったく異なります。レーニンは、たとえばイギリスやフランスの植民地が、資本主義を脱し、単一民族の国家となることを語りました。オスマン帝国、ハプスブルク家、ロシア帝国は、イギリスやフランスの植民地帝国とは帝国の形がかなり異なります。前者の帝国の残光がポスト・ソビエトの文脈で活動するときには、「ポストコロニアル」と見なすことができません。ポストコロニアル状況は20世紀の半ばに成立したわけですし。形は同じではないでしょう。・・・われわれが身を置くポスト帝国という事態においては、金融化しかつ金融化されることが目標となり、ヨーロッパはみずからの過去の帝国について語りつつ、合衆国が将来の帝国をめざして行っている行為を正すのです。・・・ポスト帝国の世界という文脈で、このような帝国どうしの競争を分析するのは、ポストコロニアリズムとはまったく別のシナリオです。そこでは、地球(グローブ)の金融化(ときに地球化グローバリゼーションとも呼ばれる現象です)が世界を決定する審級となっています。」(2003)



水村美苗「日本語が滅びるとき」(2008)はなぜ、きもちわるいのか?

日本近現代の思想史は大変面白いのです。だけれど、個別的に、近現代の思想を読むとき、それは、日本近世の思想と比べて、非常に貧しいという印象をどうしても持ってしまうのですね。この印象はなぜ起きるのか?▼はっきりとわかりませんが、200年ぐらいの歴史の中でヨーロッパ語というまだ他人の言葉で書いた近現代の思想は、ピカソより後の形式の思考を強いてくる現代絵画のように切り刻んだ断片的な現在進行形で進みます。そこでは反復があまりに多く表象があまりに少ない。▼他方で、漢字の受容から少なくとも1000年の時を経たという、自分の言葉で書くことができた近世の思想の場合は、反復が非常に稀にしか起きずそこでの表象が豊饒だということにだんだんと気がつくことになります、ピカソより前の古典絵画に通じる自立的な想像的多様性、読む人間の尊厳が保たれるというか、そこで未来を思い出すというか...▼たしかに、われわれの漢語が、「英語の世紀の中で」と水村美苗がよぶものにおいて、「滅びる」可能性があります。そういう意味で夏目漱石の文学は意義深いことに異論はないけれど、だからといって、アメリカからしか成り立たないような、純粋に理念的に構成した日本語の危機を訴えてもね、そんなきもちわるい純粋日本語は最初から成り立っていないかもよ。この「日本語が滅びるとき」は、いわゆる美しい日本語をいうナショナリズムにしては個人主義的ですね。寧ろこれは新しい帝国アメリカのアイデンティティではないでしょうか。アメリカのどこの国家にも包摂されない帝国としてのアイデンティティに対抗した主張の類なんでしょうけれど、対抗することによってこのアイデンティティに根付いていくという気持ち悪いきもちわるさ・・・



「シャルリとは誰か?」

「私はシャルリだ」と言っている間抜けは我々にとってさして面白くありません。スプーンを口にもっていく代わりに、おでこにもっていくような人間のことで、こういう人間になにを言っても通じません。いわば審理の終わった件です。「私はシャルリだ」を掲げた400万人のデモが起きました。馬鹿というのは、ある決まった時宜にさいして、言うべきでないことを言ってしまうような人です。例えば、戦争する国家の敵対的他者に対する揶揄がどういうものかを考えない人たちが、「フランスは言論の自由を守る国だ」という主張です。厄介なのは、阿呆です。阿呆というのは、間違えるだけでは飽き足らないのです。間違った考えを強く声高に肯定し、主張し、みんなに聞いてもらいたがります、自分がコントロールしている新聞書評欄で。「(ぼくの世界史の構造に書いてる通りだ)「無意識」の構造だ!」



The water in a vessel is sparkling; the water in the sea is dark. The small truth has words which are clear; the great truth has great silence.
- Rabindranath Tagor


思想史が読む萩原朔太郎



▼書店の棚に、関東大震災の話題をのぞいて、大正の本をあまり置いていないようですが、明治の巨人と昭和の巨人のあいだにはさまれていたかのように大正はそれほど存在感がない?しかし重要な事柄はみんな、大正のときにおきてきます。たとえば、'社会'と名のつくものは全部、大正のときに生まれてきました。'社会政策'、'社会運動'、'社会主義' 等々。さて大正といえば、日本帝国主義が成立します。大正デモクラシーに先行して、植民地をもつ国家が確立したのです。ここをおさえておくことがたいせつです。ところで大正の知識人たちは、明治知識人ほどには、あるいはまったく全然、漢詩をよめなくなった世代だったことに注目する意見があります。もちろんきょうまで漢字仮名交じり文の体制はかわりませんが、しかし知識人にとって考えるためには、漢字受容の1500年の歴史をもつ、この普遍言語はなにによってとってかわられることになったのか?大正時代は、たとえば留学に行く和辻哲郎がヨーロッパから新しく学ぶものがないほど、同時代のヨーロッパを吸収したといわれるときでしたが、ヨーロッパ語が決定的な役割を果たすことになりました。詩や演劇などにおいてもヨーロッパ語翻訳が新しい時代の芸術言語を構成していくのです。。「ふらんす生きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と語った、 萩原朔太郎の詩「黒い風琴」を読むと、新しい時代の芸術の息吹を読み取ることができます。




黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あんたは黒い着物をきて
おるがんの前に座りなさい
あなたの指はおるがんを這うのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふっている音のように
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

だれがそこで唄っているの
だれがそこでしんみりと聴いているの
ああこのまっ黒な憂鬱の闇のなかで
べったりと壁にすひついて
おそろしい巨大な風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるえ
けいれんするぱいぷおるがん れくえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間はないのです

お弾きなさい オルガンを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときにの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを
おるがんをお弾きなさい おんなのひとよ。

ああ まっくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしずまるまで
あなたはおおきな黒い風琴をお弾きなさい
おそろしい暗闇の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。

(「青猫」大正12)



▼ところが、大正のアバンギャルドは本当にそれほどアバンギャルドであったのだろうかとおもうのは、朔太郎の詩が街を観察した庶民的な詩「大渡橋」を経て、全体主義の昭和十年の前年に、漢詩のような「帰郷」を書くに至る流れを知るときですね。漢詩は、シュールレアリストの前衛詩人において、完全には消滅していなかったということではないでしょうか。あいは、反時代的に書いたということかもしれません。昭和10年前後に書かれた「帰郷」(昭9) を紹介しますと、



ここ長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自転車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢えたる感情は苦しくせり。

ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいっさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢えたり
しきりに欄干にすがりて歯を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬につたひ流れてやまず
ああ我れはもう卑陋(ひろう)なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野は暮れんとす。
(大渡橋;萩原朔太郎「氷島」大正14)

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽車は闇に吠え叫び
火焔(ほのお)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何処の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向かへり。
砂礫(されき)のごとく人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗澹として長なへ生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや
汽車は荒野を走り行き
自然の寂寥たる意志の彼岸に
人の憤怒を激しくせり。





▼1937年に、萩原は『日本への回帰―我が独り歌へるうた―』を書いていますが、ここには反時代精神のを読み取ることが難しくなります。ヨーロッパの解釈学に対抗して、呼び出す日本精神の理念的構成ごとき近代の超克を読むことになるのかもしれません。どうして日本回帰というものが起きるのかが2016年後半の昭和思想史研究会の講座において問われることになるでしょう。現在の安倍自民党のもとで進行している問題をかんがえるためにも。



以下、『日本への回帰―我が独り歌へるうた―』から抜粋すると、



・少し以前まで、西洋は僕等にとつての故郷であつた。昔浦島の子がその魂の故郷を求めようとして、海の向こふに竜宮をイメーヂしたやうに、僕等もまた海の向こふに、西洋といふ蜃気楼をイメーヂした。だがその蜃気楼は、今日もはや僕等の幻想から消えてしまつた。
・明治以来の日本は、殆ど超人的な努力を以て、死物狂ひに西欧文明を勉強した。だがその勉強も努力も、おそらく自発的動機から出たものではない。それはペルリの黒船に脅かされ、西洋の武器と科学によつて、危うく白人から侵害されようとした日本人が、東洋の一孤島を守るために、止むなく自衛上からしたことだつた。(・・・)それ故に日本人は、未来もし西洋文明を自家に所得し、軍備や産業のすべてに亙つて、白人の諸強国と対抗し得るやうになつた時には、忽然としての西洋崇拝の迷夢から覚め、自家の民族的自覚にかへるであろうと、減るんの小泉八雲が今から三十年も前に予言してゐる。そしてこの詩人の予言が、昭和の日本に於て、漸く実現されて来たのである。(・・・)だがしかし、僕等はあまりに長い間外遊して居た。そして今家郷に帰つた時、既に昔の面影はなく、軒は朽ち、庭は荒れ、日本的なる何者の面影さへもなく、すべてが失はれてゐるのを見て驚くのである。僕等は昔の記憶をたどりながら、かかる荒廃した土地の隅々から、かつて有つた、「日本的なるもの」の実体を探さうとして、当もなく侘びしげに徘徊してゐるところの、余にも悲しい漂泊者の群なのである。(・・・)僕等は一切の物を喪失した。しかしながらまた僕等が伝統の日本人で、まさしく僕等の血管中に、祖先二千余年の歴史が脈搏してゐるといふほど、疑いのない事実はないのだ。そしてまたその限りに、僕等は何物をも喪失しては居ないのである。
・過去に我等は、支那から多くの抽象的言語を学び、事物をその具象以上に、観念化することの知性を学んだ。そしてこの新しいインテリジエンスで、万古無比なる唐の壮麗な文化を摂取し、白鳳天平の大美術と、奈良飛鳥の雄健な叙情詩を生んだのである。今や再度我等は、西洋からの知性によつて、日本の失われた青春を回復し、古の大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設しようと意志してゐるのだ。
・過去に我等は、知性人である故に孤独であり、西洋的である故にエトランゼだつた。そして今日、祖国への批判と関心とを持つことから、一層また切実なヂレンマに逢着して、二重に救ひがたく悩んでゐるのだ。孤独と寂寥とは、この国に生まれた知性人の、永遠に避け難い運命なのだ。(・・・) 僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。暫く我が静かなる周囲を去れ。


「この完遂しないでおくことをベイトソンは「プラトー」と呼んだ。それは高揚状態の持続とともに自己制御能力を養う。」(中島さんのツイートより)

かえってこういうデモンストレーションのおかげで、かれらに糾弾されている「左翼マスコミ」も、そして「福島」も、憲法と同じほどの重要な存在意義があることを教えてくれることになるのではないでしょうか?憲法というのは、人間にとって意義深い分裂をもたらします。それは予定調和を装って少数者を消去するような美しい「統一」の欺瞞を告発しなければなりません。

▼溝口雄三「方法としての中国」(1989) の<前>になにが語られていたのか、そして「方法としての中国」 の<後>になにが語られることのなったのかをみることによって、溝口氏においてはじめて語られることになったことについてなんとか考えてみようと思います。西洋大好きの代表選手が和辻哲郎だとしたら、アジア大好きの代表選手は竹内好といわれます。竹内氏は戦前の近代の超克論の重要な論客のひとりでした。溝口「方法としての中国」に先行して、あたかも思考の原点として、竹内「方法としてのアジア」論が存在していました。以下、1961年の講演会をベースにした文を示します

「人間類型としては、私は区別を認めないのです。人間全部同じであるという前提に立ちたいのです。皮膚の色が違うとか、顔が違うとかはありますけれども、人間の内容は九通であり、歴史性においても人間は等質であるというふうに考えたい。そうすると近代社会というものは、世界に共通にあり、それが等質の人間類型を生み出すことを」」認めざるを得ない。同時に、文化価値も等質である。ただ文化価値は、宙に浮いているのではなくて、人間の中に浸透することによって現実性をもちえる。ところが自由とか平等とかいう文化価値が、西欧から浸透する過程で、タゴールが言うように武力を伴ってーマルキシズムか言うならば帝国主義ですが、そういう植民地侵略によって支えられた。そのため価値自体が弱くなっている、ということに問題があると思う。たとえば平等といっても、ヨーロッパの中では平等かもしれないが、アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類的に貫徹しない。では、それをどう貫徹するかという時に、ヨーロッパの力ではなんともし難い限界がある、ということを感じているのがアジアだと思う。東洋の詩人は直観的に考えている。タゴールにしろ魯迅にしろ。それを全人類的に貫徹するものこそ自分たちであると考えている。西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうなくて、西欧的な優れた文化価値をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値上の巻き返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。それはなにかというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内好、1961)



▼戦中- 戦後育ちの溝口氏がいかに竹内好の言説を読んだのかは、この一文に集約されているとおもわれます。以下は、溝口雄三「方法としての中国」(<<中国の近代>をみる視点)からの引用です。

「わたくしたち戦中- 戦後育ちの中国研究者のほとんどの研究起点に、中国への批判的視点というものはなかった。むしろ中国に批判的かつ蔑視的なであり、そのためおのずと中国侵略に加担することにもなった戦前ー戦中の、例えば津田左右吉氏らの近代主義的中国観を、批判もしくは排除するところこそが起点であった。
その場合その有力なよりどころの一つが、例えば竹内好氏の『魯迅』や「中国の近代と日本の近代」にみられる中国観であったろう。それは日本のいわゆる脱亜的な近代主義を自己批判し、その反面それの対極におしやられていた中国に、かえってあるべきアジアの未来を憧憬したものであり、極端にいうならばわたくしたちの中国研究の起点には基本的にこの憧憬が、まずあった。この憧憬なるものは、さまざまの日本内的自己意識、すなわち日本の近代百年にかかわるさまざまの反あるいは非日本意識の対極に、いわば反自己意識の投影像として自己内に結...ばれたそれに向けられたもので、だからそれはあらかじめ主観的なものであった。憧憬は客観的な中国に対してではなく、主観的に自己内に結像された「わが内なる中国」に向けられたものであった。だからその「中国」は徹底徹尾、日本的近代の反措定たりえたし、だから憧憬すべくして憧憬されえた。(...). 「中国の近代」との関係におけるそのような自己否定的な憧憬構造が、わたくしたちの反脱亜的-反近代主義的な、またはアジア主義的な主体を、主観的な、したがって脆弱なものにしていたこともまた歪めない。わたくしたちは中国の近代を歴史的に客観化しえておらず、そしてそれは日本の近代を歴史的に客観化しえていなかったことと裏腹であった。その傾向に、よりどころとされたのが竹内氏の「中国の近代と日本の近代」なのである。」(溝口)

「事実はといえば、もともと中国の近代はヨーロッパを超えてもいなければ、取り残されてもたちおくれてもいない。それはヨーロッパとも日本とも異なる歴史的に独自の道を、最初からたどったのであるし、今でもそうなのである。」(溝口)




▼溝口の竹内批判の必然として、溝口において初めて言われ始めたのが、本の題名となっている、方法としての中国、という言説です。それは溝口氏によって初めていわれた言説ですが、あたかもそれが中国独自の近代として清の時代の16・17世紀あるいは明の時代から反復されてきた中国原理であるといわれます。この方法としての中国は世界の多元性を読み解く鍵だ、と説明されます



「中国の近代はほかならぬそれ自身の前近代をあらかじめ母胎としており、したがってそれは中国の前近代の歴史的独自性を自らの内に継承するものである。反専制の共和革命という、その日本には見られなかった「旧社会-政治体制の根本的な変革」も、乱暴な言い方をあえてすれば、大同における16、17世紀以来の歴史的課題の、国民的または人民的継承であり、だからその様相も中国的に独自たらざるをえない。もともと中国はヨーロッパ的近代への趣向をはなからもたなかったのであり、それは「欠如」や「虚無空白」というよりは、中国的近代のやむを得ざる充実であり、その充実の継承の故に彼らはまたその前近代の母斑の制約を受けざるを得ない。そしてついでにいえば、その制約との葛藤の現れの一つが例えば文化大革命の「十年の動乱」でもあろうというのである。」(溝口)

「中国を方法とするということは、世界を目的とするということである。
思えば、これまでのー中国なき中国学はもはや論外としてー 中国「目的」的な中国学は、世界を方法として見ようというものであった。それは中国を世界に向けて復権させようというその意図から否応なく出ることであった。世界に向けて復権するために、世界を目指し、世界を基準として観念された「世界」、既定の方法としての「世界」でしかなかった。世界が中国にとって方法であったのは、世界がヨーロッパでしかなかったということで、逆にいえば、だから世界は中国にとって方法たりえた。
中国を方法とする世界とは、中国を構成要素の一つとする、いいかえればヨーロッパをもその構成要素の一つとした多元的な世界である。」(溝口)

世界の多元化というのが実在感をもって人々の間に承認されるようになったのは、中ソ対立や米中の和解を契機にして東西の二元構造が崩れだしてからであろうか。あるいはアメリカのヴェトナム撤退にみられた軍事力の衰落や、日本の工業力伸長にみられる経済の時代への趣向によることであろうか。いや、人によってはいっそ大戦後のアジア-アフリカ諸国の独立までさかのぼって言うかもしれないそれであるが、わたくしたち中国研究者、少なくともわたしにとっての多元化は、文化大革命以来の、 中国をつきはなして見るようになってからのことである。
それには、中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つの例えば中国原理といったものを発見しようとしてきた、それまでの研究上の蓄積もある。」(溝口)




▼ここからは、溝口「方法としての中国」 の<後>になにが語られることのなったのかを、溝口批判を行う子安宣邦氏の言説に沿ってかんがえてみたいとおもいます。



「溝口雄三が「方法としての中国」のタイトルをもった書を公刊したのは1989年六月である。89年の六月四日といえば天安門事件によって世界が記憶する日である。その前年88年の秋に、私はやがて起きる事件を予感しながら北京にいた。私はそこで日本思想史の講義の傍ら。「「事件」としての徂徠学」を一部の章を書いていた。私はこのい書によ思想史の方法的転換を遂げていった。溝口も「10年の動乱」という文革後の改革開放の中国、すなわち政治主義から経済主義へと国家の主導原理を大きく転させた中国を前にして、中国研究の戦後的視点の決算の意味をこめて「方法としての中国」を書いた。竹内の「方法としてのアジア」を十分に意識して溝口は「方法としての中国」を行ったのである。だが1989年に溝口がいう「方法」とは、1960年に竹内がいった「方法」であったのか。」(子安宣邦「帝国か民主か」2015)



▼子安氏は「日本人は中国をどう語ってきたか」(2012)で、メビウスの輪のように、再び竹内の<方法としてのアジア>から語りはじめていることはそれなりの理由があります。方法としての中国から、ふたたび、方法としてのアジア、に帰るといっても、それは、アジアの市民が自立するための方法としての他者、という問題提起ではないでしょうか。



「溝口の著書のタイトルにもなっている「方法としての中国」という文章は、1989年に書かれたものである。「方法としての中国」とは明らかに竹内の「方法としてのアジア」を意識していわれたものだと思われる。(・・・) 竹内はここで「方法」という概念を「実体」に対して使っている。東洋が西洋を巻き返す形で近代化を実現していくとkきに、何か対抗的な価値をなす「実体」がこちらにあるわけではない、だが「方法」としてはりうるのではないかといっているのである。私はそれを「アジアという抵抗線を引くこと」と解したが、竹内は西洋に何らか<東洋的実体>を対抗的に立てることなくして、<ヨーロッパ的近代>を巻き返すこと、あるいは乗り越こえることのできる何かを「方法」としていっているのである。この「方法としてのアジア」という竹内の提言には、世界史的<近代>とは<ヨーッパ的近代」の勝利としてあるという歴史的認識が前提にされている。その世界史的<近代>の、すなわち20世紀における東洋によるその<近代>の実現が問われているのである。竹内が「方法として」に、「主体形成の過程として」と加筆したように、東洋的主体の形成によって実現される新たな<近代>に彼は希望を託そうとしているのである。恐らくそれは竹内が毛沢東中国の「新民主主義革命」にかけた希望と別のものではないだろう。

では溝口はどのように「方法としての中国」をいうのか。これから引く溝口の「方法としての中国」という言説を見れば明らかなように、これは竹内の「方法としてのアジア」とがすれちがった、まったく異質な言説である。私はそれゆえ溝口は竹内の「方法としてのアジア」を読んでいないのではないかと疑うのである。」(子安「日本人は中国をどう語ってきたか」2012)



▼「日本人はどう中国を論じたか」という問いとは、究極的には、「われわれはどう他者を語ってきたか」、「われわれは依拠すべき他者との関係をどのようにつくっていくのかと」という開かれた問題提起として与えられてくるのです。溝口氏の中国原理という原理的構成がいかに対象を対象の内部から対象に即してみる<語り>に絡みとられた言説として自ら完成していくのかという知の歴史から、精神の平等をいう他者が排除されることにはならないだろうか、です。



「溝口は中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもうひとつの例えば中国原理といったものを発見しよう」としてきた中国研究の蓄積をいっていた。だが「中国を中国の内部から中国に即して見」ることが、はたして何を見ることなのか、それは何かを見ることであるのかを彼は疑うことをしていない。また「中国原理」なるものは発見されるものなのか、むしろそれは発見者によって創りだされるものではないのか、という疑いを投げかけられるものであることを彼は考えてみることさえしない。これは驚くべきことだ。考えてみれば、戦後のわれわれの歴史認識・歴史研究は「日本を日本の内部から日本に即して見る」といった日本的同一性(日本原理)をめぐる国体論的な歴史認識・歴史言説との戦いから始まったのではなかったか。私は<中華文明圏>概念の再登場に衝撃を受けたが、同時に<中国的独自性>をめぐる溝口の歴史認識論的言説に唖然とた。」(子安 同上より)



▼汪輝「思想空間としての現代中国」(2006)、柄谷行人「帝国の構造」(2014)において溝口氏の言説からの大きな影響を読み取ることができますが、これらに対する批判をおこなう子安は新しい視点(大正の読み直し)から、アジアの民主主義の意味を問うことになりました。ここから、江戸思想の、近代を相対化する言説としてだけでなく、精神の平等をもとめる言説としてとらえなおされるという読みが現在進行形でおこなわれています。



岩井

効率性と不安定性は二律背反
資本主義の中核に倫理性が存在する



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三月2016 (4) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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