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zoom RSS 3月2016(5)

<<   作成日時 : 2016/03/15 20:06   >>

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グロテスクなものを称える

「正常で健全な人間」ならばゆるされないという政治批判の仕方ほど、フーコが警告していたような、<正常化の権力>の内部に絡みられた言説を構成してしまうのではないかということですね。質問を受けても答えらなかった事柄なのですが、ロンドンのデモは、人形を燃やしたりサドとマゾの儀式を利用するなどしてグロテスクなものを、(ジャーナリズムの風刺画のように、)表象に介入させているのは、権力が定位する「正常な人間、バランスの取れた人間」の人間像の解釈をなんとしても解体するためだとイギリスをはなれてやっと気がついてきました。
▼[少数者に味方するという]闘いが、十八世紀の思想の内で形成されたような特定の人間性の名の下に推し進められるとすれば、もう最初から負け戦です。その種の闘いは、既成権力の生み出した抽象的人間、正常で健全な人間の名において進められるからです。・・・マルクス主義で俗にいう完全なる人間、葛藤の末に安らぎを得た人間とは何かといえば、要するに正常な人間、バランスの取れた人間のことでしょう。こんな人間像がどうして出来上がったのか。これは医学や精神医学の知と権力、つまり正常化の権力の賜物ですよ。・・・何らかのヒューマニズムを盾に政治批判を行うなど、まるで自分が打倒しようとするものを自分の戦略兵器の内に持ち込んでしまうのと同じことですよ。 −ミッチェル・フーコ、哲学者の回答



西欧の文学を外国人の頭で読んだときと日本人の頭で考えるときのこの二つの間の距離について考えることが大切といわれますよね、この差異の問題については、自分にはいつまでもはっきりと書けるようにはならないと思うのですが。▼とにかく、この距離の問題については、ヨーロッパ人のアイルランド人だって、かれらがプルースト「失われた時を求めて」をフランス人<として>読んだときにでてきます。▼アイルランド人がいかにプルーストを読むのかという問題、さらにその読みの意味を日本人<として>ならばどう考えることになるのかという問題。そうして、読みことのうちに差異を読むことが含まれるというか、この問題。▼私のプルーストの読みはドゥルーズの解釈に負うのですが、それとは別に、最近あらたに、第4編’ソドムとゴモラ’に、(デュラス「インディアソング」のなかで描かれていたような)、眠る人の遺跡のような姿が表現されている描写に注目しているところです。▼流離う死者の魂がいかに普遍的な理念に定位することによって消滅していくのか?それをいかに読み解くのか?アリストテレスやトマスアクナスに連なる哲学テーマが文学的に饒舌に表現されていることに気がつきました。それは、今日、国家神道復活の政治問題が私にこのような読みを強いてくるのかもしれませんけれど。▼最後に書いておきたいことですが、あえてバイオグラフィーとしての大正 (1912-26)をかんがえると、その生誕は、「失われたときをもとめて」(1913-27)の刊行と殆ど重なります。第一次世界大戦の終わりであり第二次世界大戦の始まりであるこのいわゆる戦間期は、数えられる無限と数えられない無限の間のように、(時代と時代を繋ぐような)連続的なものが存在しないともいえないし存在するともいえないような思考の不確定な空白が横たわっているのでしょうか・・・



日本社会党の’解釈改憲’にたいする非難がそれ自身正しい内容をもつにもかかわらず、その社会党が事実上消滅してしまったのはなぜかということは常に考えます。もっぱら、<正常で健全な>人間ならばゆるされない解釈という政治批判の仕方が、フーコが警告していたような、<正常化の権力>の内部に絡みられた言説を構成してしまう危険性をもつのではないのでしょうか?(ここで、憲法を利用した政治批判が間違いとは思っていません。)

「正常で健全な人間」ならばゆるされないという政治批判の仕方ほど、フーコが警告していたような、<正常化の権力>の内部に絡みられた言説を構成してしまうのではないかということですね。よく質問されてもこたえられなかったのですが、ロンドンのジャーナリズムの風刺画とデモは、サドとマゾを利用することもあるグロテスクなものを、表象に介入させているのは、権力が定位する「正常な人間、バランスの取れた人間」の人間像の解釈を解体するためだとロンドンをはなれてやっと気がついてきました。


[少数者に味方するという]闘いが、十八世紀の思想の内で形成されたような特定の人間性の名の下に推し進められるとすれば、もう最初から負け戦です。その種の闘いは、既成権力の生み出した抽象的人間、正常で健全な人間の名において進められるからです。・・・マルクス主義で俗にいう完全なる人間、葛藤の末に安らぎを得た人間とは何かといえば、要するに正常な人間、バランスの取れた人間のことでしょう。こんな人間像がどうして出来上がったのか。これは医学や精神医学の知と権力、つまり正常化の権力の賜物ですよ。・・・何らかのヒューマニズムを盾に政治批判を行うなど、まるで自分が打倒しようとするものを自分の戦略兵器の内に持ち込んでしまうのと同じことですよ。 −ミッチェル・フーコ、哲学者の回答


「ファシズム前夜ってなんだ?」
「いまだ!」

▼朝日新聞(2016年三月二十二日)に、「改憲へ 安倍政権と蜜月」と題した、日本会議研究ー憲法篇(上)の記事がありました。大事な記事です。▼第2次安倍政権の発足後、首相が日本会議の公式行事に出席するのは初めてだそうです。▼更に記事によると、 「日本会議は1997年、新憲法の提唱や新しい日本史教科書づくりに取り組んだ「日本を守る国民会議」などが統合してできた。」▼「国旗国歌法の制定や教育基本法の改正を推進し、夫婦別姓や外国人参政権には反対してきた。」と。▼神社庁は憲法改正の推進宣言をホームページに掲げまていますが、その総長は日本会議の副会長で国民の会の代表発起です。その憲法改正集会では、今年2月からは作家の百田尚樹が総指揮を執った「憲法改正ドキュメンタリー」も上映しています。▼憲法改正を契機としたファシズムの流れに逆らう市民として、こうした安倍応援団ー首相を支える存在ーの正体をしっかり知っておく必要があるだろうと思っています!


もういちど読むアンチ=オィデプスの思想

▼わたしが高校生だったときの倫理教科書は、最後を飾ったのは実存思想の哲学者サルトルでした。「もういちど読む倫理」(山川出版社 2011年)を読みますと、西洋の近代思想の最後は、大学生のときに読んだドゥルーズ&ガタリのアンチ=オィデプスのポスト構造主義の思想です。▼皮肉なことに、この後に続く日本の思想はそれを嘲笑うかの如く和辻の「日本の風土と文化」からはじまります!しかし、ドゥルーズ&ガタリのアンチ=オィデプスの思想とは、多様性の開かれた方向に向かって、いかに、理論的前衛が推し進める抑圧的な一つのものに多数の穴を開けていくかという('欲望'という言葉で強調される)実践的課題にかかわる思想だったとおもいます。▼現在の問題として読むと、いかに、抑圧=国体論的<一つの日本>、抑圧=自文化中心主義的<一つの日本語>に穴をあけていくのか?また、いかに、抑圧=近代主義的<一つの思想史>に穴をあけていくことができるのか?こうしたことが問われているのではないでしょうか。▼これらは、抑圧=教育勅語的<一つの教科書> ー田中角栄、福田赳夫、中曽根康弘から安倍晋三に至るまで自民党政治の精神分析が再び教えようとするー に穴をあけていくこと、多様性に方向に知を開くという課題と無関係ではないとおもいます。



「デュラス「インディアン・ソング」(1973)を読む

アーレントは「人間の条件」(1958)を書くためには、どうしても「全体主義の起源」を書く必要があったのでしょうね。そこで、Solitude(対話する自己自身をもつ)とLoneliness(大勢の他人の中で孤立していて自己自身をもっていないから至高の一者を渇望してしまう)の区別を知ることが、全体主義の成り立ちを知るために必要であると諭じることになりました。rSolitudeとLoneliness、この両者は、人間において互いに切り離すことができない不即不離の関係。だからこそファシズムが終わることなくかくも繰り返えしあらわれてくるようにみえるのですね。(民衆の教育が高くなりおのずと価値観が多元化すればファシズム(一元的価値への盲目的従属)は起きない、と、人口統計学者がいうようにはね...。) 自己自身との対話という切り口でみていくと、歴史的に、西欧の精神が自己自身との対話を失うオリエンタリズムの言説の意味を見逃すわけにはいきません。そもそも西欧というものの成り立ちのうちにイスラム世界の排除があります。後期ルネッサンスのラファイエロの「アテネの学堂」、アラブの思想家の痕跡が殆ど消されていることは1987年のサイードが指摘した通りですが、ここに、ファシズムの、他者を自己の中から自己の内部に沿ってとらえるという表象の起源があったのではないかとわたしは考えています。そしてデュラスの1937年を舞台にした映画「インディアン・ソング」(1973)のなかで描かれていた、「ラホールからきた副領事」に体現されていたクールな理性のLoneliness、あの根無し草のどうしようもなくナルシスティクな叫び声のことを思いかえしているところです。作家は映画で、映画自身すなわち映画をみる大衆の欲望(自己同一化の暴力?)を表現したのですが、それだけでなく、記憶の中の植民地主義の現場からファシズムが隠ぺいした影を不可能でも指さしたのだと思います

「4月からの思想史講座で「江戸思想を読む」を始めます。その理由を書きます。福沢諭吉は明治の変革に際し、「一身にして二生を経るが如し」といっています。」これは明治維新の体験を文明論的転換の体験としていったものです。しかし明治維新を文明論的転換としていうとき、その転換は非文明的な前近代社会から文明的な近代社会への転換として理解され、自覚されることになります。福沢だけではない。多くの日本人における明治の変革の体験というものは、そうした文明論的な転換の体験であったように思います。だが昭和の日本人にも継承されてきたこの文明論的転換の自覚は、はたして日本の近代を文化的、精神的に豊かにしたでしょうか。維新を文明論的転換として見るとき前近代として否定的に見られる江戸時代は知的、文化的に一つの成熟に達した時代です。この江戸を否定的にしか継承しない近代日本は自らを貧しくさせていると思わざるをえません。精神的にいよいよ貧しい現代日本にあって、己れ自身を豊かにするものとして、「一身にして二生を経る」体験をもう一度、受け身ではなく積極的に追体験してみようではありませんか。これが私の思想史講座で「江戸思想」を読む理由です。」(子安)


「江戸思想」と「昭和思想」 といわれるとき、この「と」の意味が大事ではないかとおもいます。いかなる「と」(and)なのか?「もう一度読む倫理」をみると、精神の平等を言った石田梅岩の名も、そこから他者を敬うことの意味を言った中江藤樹の名も書き記されているのに、「昭和思想」が「江戸思想」をただの<前近代>としてしか位置づけないのはなぜか?「昭和思想」は自らの限界を超える<反近代>として「江戸思想」を見出すことがないのはなぜか?また、前半の「西洋の近代思想」の最後は「全体主義と大量虐殺への批判」とするほどファシズムの問題を重視しているが、後半「日本の思想」においては、天皇制ファシズムの言説の土台をつくった本居宣長の仕事ー儒家神道的伝統の御師のように心の内部のあり方を説くかわりに心の神を外部化した言説を発明したーは見逃されています。宣長に対応する西洋の思想は、加藤周一が言うようにニーチェとかハイデガーに見出すのは単なる間違い。その起源を考える上で、西欧の精神が自己自身との対話を失うオリエンタリズムの言説の意味を見逃すわけにはいきません。定石通りにアーレントは19世紀近代国家のユダヤ人排除という「ドレフュス事件」から語り始めましたが、そもそも西欧というものの成り立ちのうちにイスラム世界の排除があります。後期ルネッサンスのラファイエロの「アテネの学堂」、アラブの思想家の痕跡が殆ど消されていることはサイードが指摘したことですが、ここに、ファシズムの起源があったのではないかと私は考えています。(「もう一度読む倫理」でも彼の名は無視されていますね?)。何事も順番が大切です。アーレントは「人間の条件」を書くためには、どうしても「全体主義の起源」を書く必要があったのです。そこで、Solitude(対話する自己自身をもつ)とLoneliness(大勢の他人の中で孤立していて自己自身をもっていない)の区別を知ることが、全体主義の成り立ちを知るために必要であると諭じることになったのですね。



「法」の支配ではなくて「アメリカ軍」の支配

「逮捕の法的根拠問う 国連人権理が内容公開 辺野古抗議」



柄谷行人「可能なるコミュニズム」(1999)を読む

ここで二冊を比較してみようと思います。「不均衡動学の理論」はバブル期の80年代に書かれました。「トランスクリティーク」結論が収められている「可能なるコミュニズム」の方は、バブル崩壊後のグローバル資本主義の90年代に書かれたのですね。この違いを認識したうえで、柄谷によって新しく言われるようになったことは何かと考えています。「貨幣とは、逆説に満ち満ちた存在である、と岩井克人が言うところで、(その貨幣とは、ほかならない、差異のことなのだから)、差異とは逆説に満ち満ちた存在といわなければならない、と、柄谷行人は反駁を許さないほどに非常に抽象化して推し進めたことが読めます。社会的な交換過程に対して立ちはだかるありとあらゆる人間的、空間的、時間的な制限を打ち破る差異というものから柄谷は徹底的に考えはじめたように読めるのです。「資本制経済は重商主義、自由主義、帝国主義、後期資本主義という歴史的段階によって区別される。しかし、そこで何か根本的な変化があったように考えるのは間違っている。(...) 資本にとって剰余価値が「物」から得られようと「情報」から得られようと何の違いもない。産業資本主義の主要な領域が「情報産業」に移行しようと、資本の性質に何の変化もない。そもそも、サイバネティックスの創始者ロバートウイナーによれば、情報とは「差異」にほかならないのである」。そうして80年代に経済学的に「交換過程」といわれていたものが、90年後半には、非常に思弁的に、純粋に理念的に構成されてくる言説の内部に包摂されてしまうのです。「マルクスの関心が古典派とは逆に、流通過程に向けられたことを再度強調しておく」と柄谷がいうとき、ここで言及されている「流通過程」は、「流通過程」以上の意味をもたらされていることに注意したいと思います。岩井ならば、効率制と安定制の二律背反を解決するものとして資本主義の中核に(資本主義そのものの崩壊を避ける)「公平に倫理的なもの」(貨幣賃金の硬直制を担保する経済の外部にある制度的な存在)を指さすところに、柄谷の場合は、「可能なるコミュニズム」といわれる理念的に構成された「統整原理」を指さします。ここに、差異を生産するシステムそれ自身の崩壊を避けるためにどうしてもなくてはならないという交換様式「X」が措定されます。「トランスクリティーク」の影響下に、「可能なるコミュニズム」の後に続く、「世界史の構造」「帝国の構造」では、グローバル資本主義の絶えざる差異化と安定制の二律背反を解決するものとして「「帝国」のアイデンティティかのように語られる「世界宗教」のXとしての?意義が強調されてくることになります。これは、ある意味で、グローバル資本主義の分割である、「帝国の構造」は、「文化と両義性」の山口昌男にみられた自己同一的二項対立の言説(天皇制的構造論)の近代主義がわれわれの前に再び現れたというものです。つまり政治を非政治化してしまうという文化論的還元化の危険性が再び現れたということです。ただし山口との無視できない違いもあります。なんといっても柄谷を読むとき、彼が見出した「帝国」に対抗する他者の存在をどうしても考えることになりますから。柄谷が言うようには、グローバル資本主義の後期近代の段階が他の段階と比べて意味が無いわけではありません。おそらく現在それは反近代に関係した何かが誕生しようとしているのではないでしょうか。事件性としての思考は、柄谷のポスト社会主義の理論的前衛としての「帝国の構造」にたいする批判から出てくるものです。他からは出てきません。そして、ここから、子安宣邦「帝国か民主か」(2015)の人類史的な読みが可能になってくるとおもわれます。ここで、柄谷が一生懸命再建しようとするヘーゲル的19世紀、20世紀に戻るアナクロニズムの努力を無意味とみなす、グローバルデモクラシーの事件としての意味が多様性の開かれた方向に向ってふたたびはじめて問われることになりました。


ファシズム前夜はどんな光景なのか?

日本だけでなくアメリカも、過去のヨーロッパのファシズム前夜を喚起するという憂慮の声がきかれます。ファシストの心の中心から洗脳してくるその手口に、非政治化(depoliticization)、教説化(deep indoctrination)、包摂化(comformist intelligentsias) という三つがありますが、その中で顕著に進行中のものは、政治を非政治化してしまう文化論的な還元です。<美しい日本とはなにかですって?言葉で議論しないでください、政治立ち入り禁止!>。しかしこれをその通りにみとめてしまうと、ここから、議会制民主主義の中核にある対話の自由が崩されることになります。ていきます。トランプの誰に対して何を約束しているのかが曖昧な演説の危険性と比べられるのは、安倍応援団の憲法改定の政治団体が神道を習俗化することで国家神道を事実上復活させようとしているという危険性です。ここに、何が指さされるのかという問題を考えたいのです。ファシズムを自覚なく擁護する日本会議の文化人・作家たちが指さすのは、靖国神社の文化としてのアイデンティティーが定位する限定された空間です。これに対して、われわれはその空間がいわば救済神学として、政治を非政治化していくような限定のない空間になっていくことを主張します。またグローバル資本主義の分割である「帝国」の文化統制として「世界宗教」的なものの意義が柄谷において主張されるのをみるとき、ギリギリというか、非常に危険な、政治を非政治化してしまう文化論的な還元をまざまざとみる思いであります。



悪夢を読む ーファシズム前夜の日米比較

大統領選挙のアメリカは現在、トランプ共和党候補に大きく揺さぶられていますが、これを観察するチョムスキによると、かれの登場はネオリベの必然的結果だとみたうえで、過去のヨーロッパのファシズム前夜を喚起するほどだと言います。▼ここで過去のファシストの手口を考えると、三つ指摘できます。非政治化(depoliticization)、教説化(deep indoctrination)、包摂化(comformist intelligentsias) です。▼政治を非政治化するそのやり口ですが、これについては、トランプの誰に対して何を約束しているのかが曖昧な演説の危険性が指摘されます。(Fascism promised people deliverance from politics. Fascism was not just different type of politics, but anti-politics) 日本の場合に即して考えますと、安倍応援団の政治団体が神道を習俗化することで国家神道を事実上復活させようとしていますね。▼二番目に、教化を通して心の中心から洗脳してしまうこと。これは、非常に高いレベルにあるといわれる「自由」と「民主主義」のアメリカのパラドックスかもしれません。日本会議の文化人・作家たちの影響力は(反論されることがないために)、政治家よりも強力な効果を大衆にたいしてもつことがあります。▼最後に、知識人達を包摂してしまうことです。戦前のときは、いきなり知識人が戦争協力を表明することは起きませんでした。まずマスコミがだんだんと戦争強力を行い、その後に、堀を崩された知識人達が戦争協力を行うことになったと証言されています。自己検閲の問題もあります。






'Enter Fascism. Fascism promised people deliverance from politics. Fascism was not just different type of politics, but anti-politics. On the post-WWI ruins of the Enlightenment beliefs in progress and essential human goodness, Fascism embraced emotion over reason, action over politics. Violence was not just a means to an end, but the end in itself because it brought man closer to his true inner nature. War was an inevitable part of this inner essence of man. Millions of European men had found this sense of purpose and camaraderie in the trenches of the First World War and were not going to sit idly by while politicians took it away from them after the war (famously, after the war Hitler was slow to demobilize and take off his uniform). Fascists’ main enemies were not just Marxist politicians, or liberal politicians, but politicians in general.'




In an interview with Slate, the historian of fascism Robert Paxton warns against describing Donald Trump as fascist because “it’s almost the most powerful epithet you can use.” But in this case, the shoe fits. And here is why.



Like Mussolini, Trump rails against intruders (Mexicans) and enemies (Muslims), mocks those perceived as weak, encourages a violent reckoning with those his followers perceive as the enemy within (the roughing up of protesters at his rallies), flouts the rules of civil political discourse (the Megyn Kelly menstruation spat), and promises to restore the nation to its greatness not by a series of policies, but by the force of his own personality (“I will be great for” fill in the blank).



To quote Paxton again, this time from his seminal “The Anatomy of Fascism”: “Fascist leaders made no secret of having no program.” This explains why Trump supporters are not bothered by his ideological malleability and policy contradictions: He was pro-choice before he was pro-life; donated to politicians while now he rails against that practice; married three times and now embraces evangelical Christianity; is the embodiment of capitalism and yet promises to crack down on free trade. In the words of the Italian writer Umberto Eco, fascism was “a beehive of contradictions.” It bears noting that Mussolini was a socialist unionizer before becoming a fascist union buster, a journalist before cracking down on free press, a republican before becoming a monarchist.

Like Mussolini, Trump is dismissive of democratic institutions. He selfishly guards his image of a self-made outsider who will “dismantle the establishment” in the words of one of his supporters. That this includes cracking down on a free press by toughening libel laws, engaging in the ethnic cleansing of 11 million people (“illegals”), stripping away citizenship of those seen as illegitimate members of the nation (children of the “illegals”), and committing war crimes in the protection of the nation (killing the families of suspected terrorists) only enhances his stature among his supporters. The discrepancy between their love of America and these brutal and undemocratic methods does not bother them one iota. To borrow from Paxton again: “Fascism was an affair of the gut more than of the brain.” For Trump and his supporters, the struggle against “political correctness” in all its forms is more important than the fine print of the Constitution.

To be fair, there are many differences between Italian Fascism of interwar Europe and Trumpism of (soon to be) post-Obama America. For one, Mussolini was better read and more articulate than Trump. Starting out as a schoolteacher, the Italian Fascist read voraciously and was heavily influenced by the German and French philosophers Friedrich Nietzsche and Jean-Marie Guyau, respectively. I doubt Trump would know who either of these two people were. According to the Boston Globe, Trump speaks at the level of a fourth grader.

There are other more consequential differences, of course: the interwar Italy was a much bigger mess than the USA is today; the democratic institutions of this country are certainly more resilient and durable than those of the young unstable post-World War I Italy; the economy, both U.S. and worldwide, is not in the apocalyptic state it was in the interwar period; and the demographics of the USA mitigate against the election of a racist demagogue. So, Trump’s blackshirts are not marching on Washington, yet.

Also, as a historian I have learned to beware of historical analogies and generally eschew them whenever I can, particularly when it comes to an ideology that during World War II caused the deaths of 60 million human beings. The oversaturation of our discourse with Hitler comparisons is not only exasperating for any historian, but is offensive to the memory of Hitler’s many victims most notably the six million Jews his regime murdered in cold blood.

Finally, rather than explaining it, historical analogies often distort the present, sometimes with devastating consequences. The example that comes to mind is the Saddam-is-like-Hitler analogy many in the George W. Bush administration used to justify the U.S. invasion of Iraq, which was an unmitigated disaster. The overuse, or misuse, of a historical analogy can also make policy makers more hesitant to act with equally disastrous consequences: the prime examples are Bosnia and Rwanda in the 1990s when the West attributed their inaction to stop the slaughter in each country by arguing that these massacres were “not like the Holocaust.”

Thus, for a historical analogy to be useful to us, it has to advance our understanding of the present. And the Trumpism-Fascism axis (pun intended) does this in three ways: it explains the origins of Trump the demagogue; it enables us to read the Trump rally as a phenomenon in its own right; and it allows those of us who are unequivocally opposed to hate, bigotry, and intolerance, to rally around an alternative, equally historical, program: anti-fascism.

The Very Fascist Origins of Trumpism

That white supremacist groups back Donald Trump for president of the United States, and his slowness to disavow the support of David Duke, all illuminate the fascistic origins of Trump the phenomenon. In fact, Paxton acknowledges that while Fascism began in France and Italy, “the first version of the Klan in the defeated American south was arguably a remarkable preview of the way fascist movements were to function in interwar Europe.” That the KKK was drawn to the Trump candidacy, and that he refused to disavow them speak volumes about his fascistic roots.

Like Fascism, Trumpism has come about on the heels of a protracted period of ideological restlessness. Within the Republican Party this restlessness has resulted in a complete de-legitimization of the so-called GOP establishment.

Benito Mussolini came to the scene in the 1920s at a time when all the known “isms” of the time had lost their mojos. Conservatism, which since the French Revolution had been advocating for monarchy, nobility, and tradition, was dealt a devastating blow by the First World War, which destroyed four major empires (Ottoman, Austro-Hungarian, Russian, and German), made universal male suffrage (mostly) the norm, and eliminated a generation of aristocrats. Although initially seen as victorious, liberalism, in its emphasis on equality, constitutions, parliaments, and civil debates, quickly proved unable to solve the mammoth problems facing Europe after the war. To the millions of unemployed, angry, and hungry Europeans, the backroom politicking and obscure party debates seemed petty at best, and deserving of destruction at worst. Shoving millions of Europeans into nation-states they saw as alien to their ethnicity created huge minority problems and sparked irredentist movements including fascists and their many copycats. The success of Lenin’s Bolsheviks in Russia and their protracted, terrifying, civil war made Communism unpalatable for most Europeans.

Enter Fascism. Fascism promised people deliverance from politics. Fascism was not just different type of politics, but anti-politics. On the post-WWI ruins of the Enlightenment beliefs in progress and essential human goodness, Fascism embraced emotion over reason, action over politics. Violence was not just a means to an end, but the end in itself because it brought man closer to his true inner nature. War was an inevitable part of this inner essence of man. Millions of European men had found this sense of purpose and camaraderie in the trenches of the First World War and were not going to sit idly by while politicians took it away from them after the war (famously, after the war Hitler was slow to demobilize and take off his uniform). Fascists’ main enemies were not just Marxist politicians, or liberal politicians, but politicians in general.

It is therefore no coincidence that the most common explanation Trump supporters muster when asked about their vote is that “he is no politician.” Trump did not invent this anti-politics mood, but he tamed it in accordance with his own needs. Ever since the election of Barack Obama the Republicans have refused to co-govern. Senator Mitch McConnell’s vow that his main purpose would be to deny the president a second term was only the first of many actions by which the Republicans have retreated from politics. The Tea Party wave meant an absolute refusal to compromise on even the most essential issues, which were central to the economic survival of the government if not the entire country (the Debt ceiling fiasco anyone?!). But since then it has gotten worse: now even the establishment Republicans who had been initially demonized by the Tea Party, such as Mitch McConnell, have openly abrogated their own constitutional powers by refusing to exercise them. This has been most evident in their blanket refusal to even hold a hearing for a Scalia replacement on the Supreme Court. In other words, the Republicans themselves, not Trump, broke politics.

The anti-intellectualism of Trump has also been a long time in the making. It was the Republican establishment that has for decades refused to even consider the science of climate change and has through local education boards strove to prevent the teaching of evolution. Although not as explicit as the Fascists were in their efforts to use the woman’s body for reproducing the nation, the Republican attempts at restricting abortion rights, and women access to healthcare in general have often been designed with the same purpose in mind. Of course American historians have pointed to this larger strand of anti-intellectualism in American politics, but what is different about this moment is that Trump has successfully wedded this anti-Enlightenment mood with the anti-political rage of the Republican base.






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