言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 2016, 3月(7)

<<   作成日時 : 2016/04/05 14:44   >>

トラックバック 0 / コメント 0




Selon Arthur Schopenhauer, chaque être est mû par une force – la volonté – qui le dépasse. En somme, une philosophie de la vie et de l’univers.

「無償の贈与 the pure, unreciprocated gift」(柄谷行人)があまり面白くなくなったのはね、多分、アナーキズムを互酬性としてとらえることにもはや積極的な意味がなくなったからかもしれない。大杉栄の小説は互酬性に沿って書くことに無理がある。21世紀のオキュパイ運動以降、アナキズムがワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨする民主主義と関係があると人々は気がつくようになった。まだ「無償の贈与 」に意味を見出したいならば、エクリチュール的に、「贈与の攻撃 le coup de don 」(デリダ)として新しく論じたほうがいいし、哲学的な可能性もあるとおもうのだけれど...


わたしは「市民ケーン」のジグゾー・パズルの場面が好きです。どんどん張り合わせていって止まることなく思考の空白を覆うことができるかというと、中々うまくいきません。ブルジョアの共和主義の無理をあらわしているだけでなく、ハリウッド的ナレーションの限界を暗示しているように思われます。映画の中で彫刻はそのアレゴリーでした。さてわれわれは現在どんな歴史に生きているのかを知るようになるためには、思考のジグゾー・パズルを構成するものとして、思考のタイルかあるかどうかです。たとえば浮世絵がそういうタイルかもしれません。高田の馬場とか広尾とかの現在の東京の風景と、幕末の浮世絵に描かれていた風景を比べてみると、浮世絵が明治初年にその芸術的生命を終えたということの意味、下級士族たちが推進した近代化・ヨーロッパ化による徹底した切断の意味をわたしは考えることになります。北斎の浮世絵に、明治に打ち立てられた九段下の東京招魂社(靖国神社)がみえます。ヨーロッパ近代に圧倒されたようにみえる、明治の下級士族の近代化・ヨーロッパ化の言説は、福沢諭吉のアジアを否定することによってはじめて近代化が成り立つというような脱近代化の言説として考えられていますけれど、しかし他方で岡倉天心・清沢満之・夏目漱石を読むと、かれらがそのヨーロッパ精神を最高のものとみなしたうえで、それを植民地主義に絡みとられる近代から解放しようとしてアジアの可能性から再構成する道を模索したのかもしれません。その意味で、現在言われるところの原理主義の言説と比較できるかもしれません。原理主義というジグゾー・パズルのゲームに、昭和三十年代が絡みとられていくブラックホールの悲惨がありました。日本回帰という国家主義と民族主義として呼び出すその国体論的言説は、近代が近代に言及するという自己同一の反復の彫刻のようです。ここから安倍から美しい日本の言説が繰り返されています。しかし「どうしてわたしはあなたの語ったようなわたしでなければならないの!?」


この男はクソ野郎と呼ばれても仕方ありません。なぜクソ野郎なのか考えてみたのですが、石原慎太郎とかが下品な口調でエラソーに災害について「あなたたちがうけた天罰だ」とかどうしようもないことを発言することにたいしては、「どうしてわたしはあなたの語ったようなわたしでなければならないの!?」と反発しなければならず、反発してこそ、踏みつけられても、なんとか存在している自分というものがあると信じるのですが、ところがそういう心の葛藤は一切起きず、こういうどうしようもなくクソ野郎が「こんにちわ」といってしまうこと、またそれを不快とおもわず腹も立てない人々が世の中に案外多いのだろうかとおもうとはらがたちますわ
ー>「こんにちわ、熊本地震を起こした神です。この地震を起こした意図を語ります」


タックス・ヘイブンは市場原理主義という犠牲のシステムである

多くの犠牲者を生み出すタックス・ヘイブンの問題が次々と報告されています。モサク・フォンセカ法律事務所がいかに国際的犯罪や空爆を助け、またウガンダのような国の貧困を拡大させてきたかがわかってきました。いわばお客さんとしてこの法律事務所を利用している富豪や大企業は、法がない故に違法性がないのだということが繰り返しいわれます。しかし、合法なタックス・ヘイブンであろうと、違法なタックス・ヘイブンであろうと、儲けるための犠牲のシステムの中心にある、その法律事務所をつくっている原因が、ほかならない、富豪や大企業にあるのではないでしょうか?恐らくここを明確にしないと、犠牲のシステムは止まらないのです。現に、日本の大企業・富裕層はタックスヘイブンで世界第2位の巨額な税逃れです。庶民には消費税増税と社会保障削減が押しつけられていくことになります。パナマ文書が指し示しているという61兆円の根底に、市場原理主義というものがないのでしょうか。ここで市場原理主義とは、新自由主義を極限にまで押し進めて、儲けるために法を犯さない限り何をやってもいいというもの。だから、違法性はないが脱法行為と説明されるようには、個別的な企業の振る舞いが問題となっているのではなく、根本的に、グローバルな総体としての資本の体制が問題になっているような気がするのです。この問題は徹底的に国際問題化していかないと解決しないのではないか。再びだんだんと経済競争のナショナリズムに沈黙させられてしまうかもしれません。

Unbelievable....
'Cruz also defended a Texas ban on the sale of dildos and other sex toys, and in so doing made the absurd claim that Americans have no right to masturbate: There is no substantive-due-process right to stimulate one’s genitals for non-medical purposes unrelated to procreation or outside of an interpersonal relationship. '


I do not believe that there was ever a question of being abstract or representational. It is really a matter of ending this silence and solitude, of breathing, and stretching one's arms again transcendental experiences became possible.
- The Romantics were prompted, essay by Mark Rothko




パナマ文書が指し示しているという61兆円の根底に、市場原理主義というものがないのだろうか。ここで市場原理主義とは、新自由主義を極限にまで押し進めて、儲けるために法を犯さない限り何をやってもいいというもの。だから、違法性はないが脱法行為と説明されるようには、個別的な企業の振る舞いが問題となっているのではなく、根本的に、グローバルな総体としての資本の体制が問題になっているような気がする。この問題は徹底的に国際問題化していかないと解決しないのではないか。再びだんだんと経済競争のナショナリズムに沈黙させられてしまうかもしれない

Sartre

(知識人は)ブルジョワ的《デモクラシー》の諸権利の抽象的な性格に異議を唱えますが、何もそれらの権利を抹殺しようとするからではなく、それを社会主義的デモクラシーの具体的諸権利によって補完し、いっさいのデモクラシーの中に、自由の函数としての真理を保持しようと望むからなのです1966




『論語』憲問篇に諸国を巡遊して忙しい孔子を批判する微生畝の言葉とそれに答える孔子の言葉があります。「微生畝(びせいほ)、孔子に謂いて曰く、丘、何をか為す。是れ栖栖(せいせい)たる者か。乃ち佞(ねい)を為すこと無からんや。孔子の曰く、敢て佞を為すに非ざるなり。固なるを疾(にく)めばなり。」子安先生がこれを仁斎の理解にしたがって現代語訳なさっています。「微生畝が孔子に向かっていった。孔丘よ、あなたは何を忙しそうにしているのか。世に媚びて口上手に振る舞っているのではないか。孔子は答えていった。私はあえて世に媚びて人の悦ぶことをいい歩いているわけではありません。ただ世を離れて固く独りを守るような態度をにくんでいるからです」。「論語塾」の子安先生のご解説はブログで読めます(「世に媚びてはいない、独善家をにくむからだ」)。 ここではこの私がどうしてこの孔子の言葉に感銘を受けたのかを書いておこうと思います。まず、「論語」のような原初的テクストの読みの困難さですね。その読みは、仁斎の朱子解釈に対する注釈的脱構築を前提にします。過去の仁斎の注釈だけではありません。現在生きている他者の問題に直面せざるを得ません。必死に一生懸命頑張れば「論語」も何とか読めるかもしれません。が、それは、「論語」を他者の現前において読むという行為とは全然別の事柄です。自分一人での読みならば自分の穴が埋まることで自分が救われるけれど、そうして孤高の高みで得た真理から、同時に、共同体(新儒教みたいな政治的な教説に絡みとられた人びと)は救われるのか?いかにも偉そうなことを言っていながら、読めないのではないか?読むことができる、且つ、読むことができない、そうして、読むこと自体の不可能性に出会うことが孕む倫理的意味を自身に向かって問います。孔子と微生畝の問答を読んで人々との未来の関係のことを考えたわけです。


Weisheng Mu said to Confucius, Qiu, why are you always rushing around? Are you trying to talk yourself into favour?
Confucius replied, I would not venture to talk myself into favour. I'm distressed by so much obstinacy.
▼Comment ; the first thing to say about Analects of Confucius is that it is, in an important sense, unreadable. There is no universal algorithm (interpretation) for deciding whether or not my reading is going to stop. The validity of an algorithm (an interpretation) must always be established by external means. This is exactly what Confucius means in replying to Weisheng Mu.
(takashihonda)



work by takashihonda



日本兵の肉を食った上官の戦時中の責任を奥崎さんに追及されてその上官のとったリアクションは、パナマ文章で暴露されている日本大企業の今後の行動を予測させるものです。「違法性はありません」(まずは、とぼける)、「仕方なかったんです...」(次に、泣きをいれる)、「おれたちの金だ、自由だろう!」(最終的に、開き直る)


最近の世論調査の内閣支持率が5割、また内閣府調査では6割の人々が「満足している」と答えていますね。非常に違和感を覚えますけれど、しかし不愉快なことに、安倍自民党の「美しい日本」の違憲的安保の展開で、この数字はもっとアップする可能性もかんがえておかなければなりません。安倍自民党のネオリベの政治は、なんでもかんでも市場が解決してくれる、と、市場への安心を通じて伝えてきます。が、そんな安心は、政治にたいする「信」を意味するのでしょうか?5割とか6割の数字からは、どうしても、人びとの政治にたいする「信」を読むことができないのです。



商社マンとかこういうことを言う大企業の人間は現役のときは国家すら売ってもかまわないと豪語しているからそりゃそうなのだろうが、こういう輩は引退後、きまって盲目的な国家主義者になるんだよね

ー>「そもそもタックスヘイブンを利用すること自体は違法ではないにもかかわらず」



'discours'
work by takashihonda

21世紀にはいって、ハード&ネグリ「帝国」、それに答えた柄谷「世界史の構造」「帝国の構造」、そして子安「帝国か民主か」は、それぞれの言説の位置と機能から、後期近代における帝国の時代の到来を分析することになりました。帝国主義の時代は終わりました。これからは帝国の時代です。なにを語るにしてもまたなにを考えるにしてもここを介してでなければ不可能でしょう。現在進行中である、その帝国の時代にどのような人間の新しい経験と思考がうまれるのかはまだよくわかっていません。が、グローバル資本主義時代の四つの帝国的言説の特徴と一つのブラックホールと私が考えるものについてそれを弦楽四重奏の如き編成として思い浮かべながら、間違いを恐れずに、私なりにやや大胆に分析してみますと、

▼帝国ヨーロッパの言説とは、フランス革命から始まる自由と平等のゴダール的モダニズム
(どこから来たのかどこへ行くのかを物語る国家の神話的連続性と、それを拒むアナーキズムのリアリズム的非連続性、この両者の方向性を包摂する)

▼帝国アメリカの言説とは、立憲的連邦主義のフィンガンズウエイク的ポストモダニズム
(どこの国の言語で読むことができないようにいわれるような、どこの国に属さないほどの純粋理念的な多様性によって、他の国を部分として構成的に包摂してしまう全体性)

▼帝国中国の言説とは、マオイズムと新儒教のポストモダ二ズム
(官僚資本主義の(非西欧の古代から語りはじめて到達することができるという)<中国的近代>への脱領土化)

▼帝国ロシアの言説はツァーリ的一国社会主義のポストモダン的モダニズム
(作家の労働者としてのかつ民族主義者としての身分証明書を要求する皇帝の劇場的<国家>への回帰。国民が作家である。)

グローバル資本主義時代の四つの帝国的言説の特徴は以上ですが、最後に触れなければならない、帝国と帝国の間に位置するアジアのブラックホールといえば、アジアをもたない、安倍の違憲的安保体制の<美しい日本>の、米国のために対抗中国的役割を演じていかなければならないとされる国体論的言説の内部のことだとおもいます。対立し合う帝国アメリカの言説と帝国中国の言説のカタストロフィーとみえるこの領域から脱するためには、なんとしても、アジアをもたない帝国ヨーロッパの言説を乗り越える必要があります。近代の超克の意義が新しい文脈で読まれるべきです。だが、そのためには、再び帝国ロシアの言説(監獄的全体主義へのノスタルジー)の方に一生懸命にならないように動けることができるのかどうかにかかっているのですが...









日本大企業は国民から盗んで貯めたマネーを国民から隠すために遠くに置くだけでは十分安心できないからというので自衛隊を海外派遣できるようにしたのでしょう。


▼「パナマ文書」▼「ケイマン諸島だけでも、日本企業の投資残高は60兆円を超え」▼「日本の大企業・富裕層はタックスヘイブンで世界第2位の巨額な税逃れ」▼「庶民には消費税増税と社会保障削減」


中江藤樹とはだれか?

王陽明への称賛は明治における顕著な傾向でした。内村鑑三において王陽明はキリスト教的信仰にもっとも近くまで達した人物として高い評価をえました。「王陽明は、孔子にありし進歩性を展開し、そして彼をその光をもって理解しようとした人々のなかに希望を吹き入れたのである。「近江聖人」は、今や実践的の人間であった」。「近江聖人」とは17世紀の中江藤樹のことです。中江の逸脱した異端の学にならざるをえなかったその思想は、陽明学の言説を多様化しました。かれは、脱藩し逸脱することによって、農村で実行した異常な孝行によって、儒者になることができたのです。彼が生きた知識の世界は閉じた世界ではありません。1640年は明末の終わりですが江戸の始まりです。この時代に長崎から明からの書籍が入ります。このとき中江は1640年は皇帝が与えた中国の「孝経」を再発見しますが、「「江戸思想」を読む・第一回」(子安氏)で検討されたことは、中江はそれを自分の心のテクストにしてしまったことの思想史的意義です。大まかに整理しますと、それまでは、「孝」観念の意味内容は、母子一体性の本源的な記憶(すべてのひとがもつ記憶)という内観法的な回想によって現前化することを求める行法心学との関係において説かれていました。私の理解では、(中江が自分の心のテクストにしてしまった後は)、「孝」は、「だれにも生きることが可能であり、それによって誰もが人間的価値をもつことが初めて可能となる」という心の平等をあらわす<名>となっていった、と考えてみました。この「孝」という<名>から、中江の感化の運動と彼の表現をみてとることができます。「1600年代の東アジア世界の明代儒学・心学思想を介してしか、徳川日本からのアジアにおける普遍的思想を表現できない」というアジアの視点で考えるこの問題提起こそは、アジアを完全に忘却した人間(安倍)が権力の中枢にいる21世紀日本を批判していく大切な方向性を与えると思いました。





サルトルとハンナ・アーレント


詩なんかがそうだけれど、だれかが言っていたように、わかんないことからスタートするわけだね。そしてわからないところに到達することになる。ふたたびそこからスタートしてみるときの、差異を育てることの喜びを何と形容したらいいだろうかね。わからないようにみえるだけで、そこに、その数は表現する人によってまちまちだけれど、たとえば百ぐらいの基底性・方向性をもった複雑な状態があるんだね。ところが、どこから来たのか、どこへ行くのかかわからないから全然読まない人というのは、(いまの大勢だとしたらこの私はジャコメッティの彫刻のように不安に孤独になるのだけれど)、常にこれしかないとばかりに意味を指示してくる絶対的な一者である<他>に依存するから、過剰に無関心になり沈黙し暴力をもって自らを超越化する<サディズム>か、逆に、過剰に共感をもとめて言葉と視線をもって自身を超越化する<マゾヒズム>に陥るかもしれない。多分、「存在と無」でサルトルが言及していた全体化はこういうことだったのじゃないかな。大衆の内部から内部に即してそんな<他>に依存することは、ハンナ・アーレントがいう「起源」への依存のことでもある。



中島氏のツイート=より

「わかんないことからスタートするわけだよ。だから、今の人々って詩なんか全然読めないわけ。「どういう意味?」っていうような。わかんなくていい。わかんないなりに言葉を頼りに、つまり、自分の中で何にずーっと動いてくるかを楽しみにしているわけだよね、実は。」五味太郎

そしてわからないところに到達する、再びわからないところからスタートする。もう状態とかかわるしかないところで差異を育てるのが楽しみですね。




Je suis Zaha Hadid
私はザハ・ハディドです

磯崎新さんは、ザハ・ハディドさんに充てて、「〈建築〉が暗殺された」という内容の手紙を書いています。ここでいわれる<建築>の意味は何かと考えながらこれを読んでいます。磯崎さんによると、ザハ・ハディドさんは「建築家にとってはハンディキャップになる2つの宿命―異文化と女性―を背負っていたのに、それを逆に跳躍台として、張力の漲るイメージを創りだした」。「戦争を準備しているこの国の政府は、ザハ・ハディドのイメージを五輪誘致の切り札に利用しながら、プロジェクトの制御に失敗し、巧妙に操作された世論の排外主義を頼んで廃案にしてしまった」。なるほど、もしかしたら、2020年の東京オリンピックはあたかも戦争を推進する国体論的な新・靖国神社として、どうしても日本人によって排他的に建築されなければならなかったというわけですか。このとき、「〈建築〉が暗殺された」という<建築>は、ほかならない、多様性を意味する<他者>のことだろうとわかりました。



警察がいかに右翼をあたかもVIP扱いしているのかという実情は現場で見ないと信じられない話ですが、他方で報じられているような、警察のヘイト抗議の女性の首を絞める暴力はファシズムだとおもいます。美しい日本の違憲的安保体制というファシズム前夜の大きな動きに専ら目を奪われてしまいますが、声を上げなければ隠蔽されてしまうこのような小さな悪から成り立っているファシズムのあり方もまた決して見逃してはならないのだと思います。


ザハ・ハディドへ

〈建築〉が暗殺された。
ザハ・ハディドの悲報を聞いて、私は憤っている。
30年昔、世界の建築界に彼女が登場したとき、瀕死状態にある建築を蘇生させる救い主があらわれたように思った。
彼女は建築家にとってはハンディキャップになる2つの宿命―異文化と女性―を背負っていたのに、それを逆に跳躍台として、張力の漲るイメージを創りだした。ドラクロワの描いた3色旗にかわり、〈建築〉の旗をもかかげて先導するミューズのような姿であった。その姿が消えた、とは信じられない。彼女のキャリアは始まったばかりだったではないか。デザインのイメージの創出が天賦の才能であったとするならば、その建築的実現が次の仕事であり、それがいま始まったばかりなのに、不意の中断が訪れた。
彼女の内部にひそむ可能性として体現されていた〈建築〉の姿が消えたのだ。はかり知れない損失である。
そのイメージの片鱗が、あと数年で極東の島国に実現する予定であった。ところがあらたに戦争を準備しているこの国の政府は、ザハ・ハディドのイメージを五輪誘致の切り札に利用しながら、プロジェクトの制御に失敗し、巧妙に操作された世論の排外主義を頼んで廃案にしてしまった。その迷走劇に巻き込まれたザハ本人はプロフェッショナルな建築家として、一貫した姿勢を崩さなかった。だがその心労の程ははかりはかり知れない。
〈建築〉が暗殺されたのだ。
あらためて、私は憤っている。

磯崎新



【集合表象】デュルケムによって強調された、諸個人の意識の相互作用、結合から生まれる一種独特の表象で、個人に外在し個人を拘束するもの。また、社会は本質的に表象からなっているとも主張された。


夏目漱石_私の個人主義

しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考えと矛盾してはどうも普通の場合気が引けることになる。そこでこうした矛盾が果たしてどこから出るかということを考えなければならなくなる。


パナマ文書疑惑はガーディアンの記事 Panama Papers reveal offshore secrets of China’s red nobility http://gu.com/p/4t3yp/stw

Negri & Hardt "Empire"

[PDF] EMPIRE - Angelfire: Welcome to Angelfire


私たちの基本的な前提はこうなる。すなわち、主権が新たな形態をとるようになったということ、しかも、この新たな形態は、単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的(ナショナル)かつ超国家的(スプラナショナル)な組織体からなるということ、これである。この新しいグローバルな主権形態こそ、私たちが〈帝国〉と呼ぶものにほかならない。〔…〕帝国主義とは対照的に、〈帝国〉は権力の領土上の中心を打ち立てることもなければ、固定した境界や障壁にも依拠しない。〈帝国〉とは、脱中心的で脱領土的な支配装置なのであり、これは、そのたえず拡大しつづける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである。〔…〕じっさいいかなる国民国家も、今日、帝国主義的プロジェクトの中心を形成することはできないのであって、合衆国もまた中心とはなりえないのだ。帝国主義の時代は終わった。

— アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート、『〈帝国>』




ダブリン時代に数週間だけスコトゥス学校での夜間初心者コースに通ったから、虎の巻サンスクリット・アルファベット表を照合しながら、सद धर मप ण डर क स त रだけは、サッダルマ・プンダリーカ・スートラと読めるわ。「法華経」は、池上線沿いの地元の歴史に関心をもつようになったからかな。「ガンジス河の砂の数のように幾千万億の無数の詩頌を用いて説いた」(説是法華経 如恒河沙偈)などはまるで詩のようだ。「コーラン」も所々預言者の詩人の語り口を思わせる。「しかし本当は、天にあるもの、地にあるものすべては、好むと好まぬとにかかわらず、アッラーを崇めているのである。朝な夕なに、あらゆるものの影が(ひとりでに地上にひれ伏す)のと同じように」。これは「中庸」特に朱子哲学との関係について想像を促す言葉だ。北一輝や大川周明は、戦後民主主義派から右翼ともファシズムとも名指されてきたが、思想史を学ぶ者は、たとえ短い期間でも、第一次大戦後に成立したアジアの革新思想だったその言説を無視することはフェアではない。そこで「法華経」や「コーラン」は植民地主義の近代を超える思考にどんな方向性を与えたか、だ。最後に柳宗悦は、昭和思想史研究会の「歎異抄の近代」か「大正論」で取り上げられてもよかった。彼は民芸運動と(日本帝国主義の対抗としての)民衆ユートピアの関係についてこう言う。「かかる衆生をどうして救済するか・このことを真剣に考えてくれたのは、浄土門の高層たちではなかったか。念仏宗は何よりも民衆相手の宗教である。美の王国を建てるために、何よりも教えを念仏宗に聞くべきではなかったか、問題が民衆的品目の済度にあるからである」と。韓国は柳から大きな影響を受けたといわれる。これに関して、アイルランドのナショナリズムの発明はイギリス上流階級の価値観に負うているという複雑な関係のことが90年代ポストコロニアリズム研究で言われたが、果たしてこれと類似のことが考えられるのかどうか。それはよくわからなかった。




Enlightenment past and to come

The work of philosopher Jacques Derrida, who died on 9 October, was anchored in current affairs. That is why he was invited to Le Monde diplomatique’s 50th anniversary celebrations in May, one of his last public engagements. This is an edited extract from his speech.

by Jacques Derrida


I AM delighted that Le Monde diplomatique at 50 is, ever more internationally, a key reference point for social movements grouped under the banner of counter-globalisation. That doesn’t mean that any grand revolution is about to remove the power centres that emerged victorious from the cold war (represented by all those sinister acronyms: IMF, OECD, WTO). But constant pressure from the counter-globalisation movement and ordinary people the world over cannot fail to weaken these institutions and force them to reform. It’s already beginning to happen. The same pressure will also force reform upon the institutions created by the victors of the second world war: the United Nations and its Security Council.

In Le Monde diplomatique’s first editorial, in May 1954, Hubert Beuve-Méry said something that may have seemed conventional, patriotic, even nationalistic. Given our shared mission “to work for the peaceful development of international relations,” he said, “everything points to Paris as the natural home of such a paper and to French as its natural language”.

Le Monde diplomatique has since become a truly international publication, translated into 18 languages and seen as a paper of reference all over the world. But it is still firmly based in Paris. To me, that shows the paper’s deep-rooted Europeanness. I cannot imagine such a paper thriving in the same way, with the same degree of liberty and the same high standards, in a different country or a different continent. That implies that we, as Europeans, have a unique political consciousness and sense of duty. It doesn’t mean the paper and the movements it champions are limited to a Eurocentric or Franco-centric perspective. Rather, it should serve as a reminder of Europe’s role in the counter-globalisation movement.

Caught between US hegemony and the rising power of China and Arab/Muslim theocracy, Europe has a unique responsibility. I am hardly thought of as a Eurocentric intellectual; these past 40 years, I have more often been accused of the opposite. But I do believe, without the slightest sense of European nationalism or much confidence in the European Union as we currently know it, that we must fight for what the word Europe means today. This includes our Enlightenment heritage, and also an awareness and regretful acceptance of the totalitarian, genocidal and colonialist crimes of the past. Europe’s heritage is irreplaceable and vital for the future of the world. We must fight to hold on to it. We should not allow Europe to be reduced to the status of a common market, or a common currency, or a neo-nationalist conglomerate, or a military power. Though, on that last point, I am tempted to agree with those who argue that the EU needs a common defence force and foreign policy. Such a force could help to support a transformed UN, based in Europe and given the means to enact its own resolutions without having to negotiate with vested interests, or with unilateralist opportunism from that technological, economic and military bully, the United States of America.

I would like to cite Ignacio Ramonet’s “Resistance”, an editorial written for the 50th anniversary issue in May. I agree with every no and yes in that piece, but I would like to single out one yes for special emphasis: the yes to a less market-dominated Europe. To me, that means a Europe that is neither content merely to compete with other superpowers, nor prepared to let them do as they please. A Europe whose constitution and political stance would make it the cradle of counter-globalisation, its driving force, the way alternative ideas reach the world stage, for example in Iraq or Israel-Palestine.

This Europe, as a proud descendant of the Enlightenment past and a harbinger of the new Enlightenment to come, would show the world what it means to base politics on something more sophisticated than simplistic binary oppositions. In this Europe it would be possible to criticise Israeli policy, especially that pursued by Ariel Sharon and backed by George Bush, without being accused of anti-semitism. In this Europe, supporting the Palestinians in their legitimate struggle for rights, land and a state would not mean supporting suicide bombing or agreeing with the anti-semitic propaganda that is rehabilitating (with sad success) the outrageous lie that is the Protocols of the Elders of Zion. In this Europe it would be usual to worry both about rising anti-semitism and rising Islamophobia. Sharon and his policies are not directly responsible for the rise of anti-semitism in Europe. But we must defend our right to believe that he does have something to do with it, and that he has used it as an excuse to call European Jews to Israel.

In this Europe it would be possible to criticise the policies of Bush, Cheney, Rumsfeld and Wolfowitz without being accused of sympathy for Saddam Hussein and his regime. In this Europe no one would be called anti-American, anti-Israeli, anti-Palestinian or Islamophobic for allying himself with those Americans, Israelis or Palestinians who bravely speak out against their own leaders,often far more vehemently than we do in Europe.

That is my dream. I am grateful to all those who help me to dream it; not only to dream, as Ramonet says, that another world is possible, but to muster the strength to do all that is needed to make it possible. This dream is shared by billions of men and women all over the world. Some day, though the work may be long and painful, a new world will be born.





By "liberty", Bakunin did not mean an abstract ideal but a concrete reality based on the equal liberty of others. In a positive sense, liberty consists of "the fullest development of all the faculties and powers of every human being, by education, by scientific training, and by material prosperity." Such a conception of liberty is "eminently social, because it can only be realized in society," not in isolation. In a negative sense, liberty is "the revolt of the individual against all divine, collective, and individual authority."

Bakunin argued in his book God and the State that "the idea of God implies the abdication of human reason and justice; it is the most decisive negation of human liberty, and necessarily ends in the enslavement of mankind, in theory and practice." Consequently, Bakunin reversed Voltaire's famous aphorism that if God did not exist, it would be necessary to invent Him, writing instead that "if God really existed, it would be necessary to abolish Him."

They [the Marxists] maintain that only a dictatorship—their dictatorship, of course—can create the will of the people, while our answer to this is: No dictatorship can have any other aim but that of self-perpetuation, and it can beget only slavery in the people tolerating it; freedom can be created only by freedom, that is, by a universal rebellion on the part of the people and free organization of the toiling masses from the bottom up.
— Mikhail Bakunin, Statism and Anarchism

By federalism, Bakunin meant the organization of society "from the base to the summit—from the circumference to the center—according to the principles of free association and federation."[44] Consequently, society would be organized "on the basis of the absolute freedom of individuals, of the productive associations, and of the communes," with "every individual, every association, every commune, every region, every nation" having "the absolute right to self-determination, to associate or not to associate, to ally themselves with whomever they wish."



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
2016, 3月(7) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる