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<<   作成日時 : 2016/11/02 14:42   >>

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90年代からあらわになったネオリベ型グローバル資本主義の展開とアフガニスタンとイラクを爆撃した戦争で、21世紀には社会民主主義とマルチカルチュアリズムが成り立たなくなったようにみえる。しかし普遍主義というものがまったくゼロになったということではない。決してそうではない。ロシアと中国は何が起きているのか情報が限られていてわからない。ヨーロッパでは新しい普遍主義、新しい人類的視点を模索しているのだが、思考の決定的な欠如から、共同体の自立したあり方を非常に混迷した悪い形でしか考えることができないでいる。それはアメリカのことであり、そして日本においては国の教育が軍隊をモデルとしてやってきたことの間違い(言説を含む)を一人一人が根本から考えなくてやっていけなくなったのではないかなどとかんがえたりするが

記号論的にみれば、「近代」とその発明物の「ナショナリズム」においては、オリジナルが<+>、コピーが<ー>として現れる。これとは正反対に、「脱近代」と「マルチカルチュアリズム」では、オリジナルが<−>、コピーが<+>である。普遍主義が息詰ってきた今日において、オリジナルでなくコピーでもないような、<間>に生成していく世界に、新しい普遍主義、あたらしい人類的な思考のチャンスはないのか?

言葉と物のコンパクトな世界 No. 29
1、フーコ「言葉と物」の’人文諸科学’に分析された、レヴィストロースの三角形から着想を得たような三つのモデルとは、「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」、「生物学⇔心理学/機能⇔規範」、「文献学⇔文学・神話/意味作用⇔体系」である。それぞれについては、渡辺氏の訳で読んで追うことができる。
2、「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」は、最近読んだ「ブラック・ショールズ理論」を解説した本の内容にも関わることだろう。また「生物学⇔心理学/機能⇔規範」は、ゾンターグ「エイズとその隠喩」の内容に、「文献学⇔文学・神話/意味作用⇔体系」はレヴィストロース「野生の思考」の内容に関わると思う。
3、間違いを恐れずにいうと、ここでフーコが言いたいのは分裂と歴史を基礎づける根源的分散である。かれの「知の三角形」の規底に人間が存在しながら、それが労働し欲求し語る人間を指示すると人間の分散が起きてしまう。オリジナルが、そのコピーであるモデルの中に自己自身を言い出すような不確定性


芝居「思想たちの黄昏」
登場人物;
反近代 (空間1)
脱近代 (空間2)
近代 (空間3)
(筋書き) 文化大革命の政治闘争を文化闘争にしたあり方、安倍政治の宗教を文化にするあり方に、反近代主義の特に権力集中への憧憬があります。批判される脱近代主義者は、反近代主義者を、ポストモダンから近代へ回帰する近代と読み解いています。近代主義者の方は、脱近代主義に、反動的な前近代の権力拡散を読み解いています。停電で暗闇の部屋の中で誰が誰を糾弾しているのか分かリません。(ト書き: バッハの「ゴールドベルク変奏曲」の調べしばらく聞こえる)と、部屋の中がパッと明るくなると、あっ死体が!?だれの死体でしょうか?誰による犯行でしょうか?

1、アイルランドのウィットゲンシュタインが探求した「生成している世界」。無理に一つのアイデンティティに統合するから分裂の危機が起きる。分裂が先行するのではない。どんな関係を設定しない方が、ものはより豊かに、より複雑に浸透するだろう。特に組織する必要のないものを組織しないのが最善である。
2、この正反対の方向から、同一化の政治は、もはや頼ることができないのに依存してきた多様性の希望を敢えて一つのアイデンティティに奪わせる。この過剰に行なわれる同一化の倒錯を離れた後に、ここに再び帰らないという、覚醒した自立を獲得する過程である。そうして、組織する必要のあるものを組織していくのである。

ふたたびあたらしく斜線からきた人類 No.2
Heidegger and Wittgenstein
20世紀哲学の代表選手はハイデガーとウィットゲンシュタインだという。何という高さ!だけれど、「存在」は「存在者」と違うように、「学ぶ」は「教える(教育する)」と違う。と、このように「存在」も「学び」も読めるのは、対他的に自分で獲得するしかない反権威的で卑俗なレトリックの思考による。「存在する」とか「学ぶ」とかは、目的地をもたない散歩者。ブラウン運動みたいにどこにも属するから、どこの部分になることがない。正規分布的に、この散歩者が「存在者」の項に構成されたり、「教える(教育する)」の側に構成されたりすると、レトリックのうたが必要とされなくなってしまうというか
beast

レトリックをたたえる
The guardian のテニスの記事に目が行ってしまいました。マレーがジョコビッチを下してworld no 1。面白いのが、マッチの長さを論じるのにマクベスの「どうせやってしまうのなら、早い方がいい(だったっけ?)」という存在論的セリフが引用されていることです。マクベスはスコットランド人でした(笑) 今朝は朝からピンターのラジオ劇を聞いたし、なんかねえ、言葉の表現にこだわりたいですねえ。お昼に、隣の二人がテニスの話題で盛り上がるのですが、ランキングの話ばかりで寂しいですよお。文学でテニスを語れるのはレトリックの思考が共有されているからでしょうね。英語のシェークスピアは漢字語圏の四字熟語、もしくは、ことわざなんですね。もはや。レトリックというのは、反権威的な思考だから、対他的に自分で獲得するものだとおもうのですね、学校で教わるという、教育が与えたレトリックの教科書的知識では、だれにも通じるような格言という功利主義的な、自ずから軍国主義的の言葉になってしまうのかも知れませんね

思想史をたたえる
思想史は、先行するものを問いて、絶えず距離を書きなおす過程です。思想史は同時に二つの方向をもっています。外の思考とこれと方向の反対向きの思考です。この両者の間に、終わりなき循環があるでしょう。たとえば、現在における、外の思考から、「教え」と「教育」の差異を可視化したいとします。これと同時に、思考の基盤を形作るその内に向かって、江戸時代における「学びー原初性ー祀らないこと」と「教えー起源ー祀ること」の言説的差異が発見されてくるのです。そして、後者の「教えー起源ー祀ること」から距離の線をひかなければならないのは、明治大正の領域を超えて、昭和前期の領域だということ。(ただし昭和前期の自らを正当化する過去の読み直しがおきてくるとき、不可避的にそこに近世が自己認識する"あるがままの"近世とのズレが生じます。)これは何を意味するのかというと、領域の地層として思想史の空間をイメージしてみます。すると、思想史は運動なのに、それを無理に連続的に統合しようすると、破裂ー偶然にみえる無数の亀裂ーが存在してくるということになるということですかね

F.フクヤマによると、教育の高い中産階級もトランプを支持したといいます。教育は平等の普遍的理念をもっているのに、日本に限らず、教育のある中流は、国をオープンにすると自分たちが損してしまうと排他的なのですね。教育は近代国家による軍隊をモデルとした躾だからではないでしょうか?ここが問われているのでは、他のモデルは無いのでしょうか。

民主主義を呼びかけたリベラルエリートは、トランプとかれの支持者達からは、反民主主義の特権的一部とみなされたということが生じたかもしれません。民主主義を呼びかけるリベラル・エリートへの同一化が起きなかったように、現実には、反民主主義を呼びかけるトランプへの危険な同一化もそれほどには起きていないかもしれません。気になるのは、トランプに反対した人々に向かっても平等を理解していない階層であると説教している言説。傾聴すべき意見ですが、問題は、中には、特にこの国の影響力のある一部権威言説が、トランプに反対した人々も格差問題を解決しようとはしないときめつけてしまうことでしょうか。そういう愚かなイデオロギーの流布は起きないと思いますが、天安門前広場事件の弾圧された抗議学生市民を新保守主義・新自由主義のグローバル資本主義の手先だときめつけたことも起きましたから、一応念のために

Disgusted as I am with Donald Trump, I hope that precisely the shock of electing him will maybe trigger some restructuring of the entire political space”.
歴史は「夢」を発明し続けるー「人間の顔をしたスターリニズム」から「人間の顔をしたグローバル資本主義」へと。ジジェクは、「人間の顔をしたグローバル資本主義」とみなすリベラル・エリートと、トランプと彼を支持したエリートでない人々との間の選挙戦だったと総括している。後者に関しては、グローバル資本主義に抵抗の線を引けるかと疑問の声があり、イメージの危険な同一化のことが心配されているが、そんなに単純ではないと言っている。同一化の政治がリアルに働くゆえにトランプがエリートでない人々の間で理想化されることはないだろうとみているようだ。なるほど、同一化の政治は、同一化することによってそれとは異質なものを作りだすプロセスということだろうか。その通りに、トランプという選ばれた最悪から、リベラル・エリートによる悪夢から目覚めることができるのか、グローバル資本主義に抵抗する政治空間の再構成が生じてくるのだろうか?


古墳というのは、江戸後期から探し始められるというのですね(それまでは古墳はなんでもなかった?)古墳は渡来人の建築エンジニアリングなくしてはできなかったといわれますが、現在渡来人の存在感が全然ないんですよね、しかし隠蔽しきれない痕跡としてわれわれの周りにある、それが私には面白いのです


「漢字」と「漢字でないもの」との間で 
 
宣長が行った「古事記」の読みは、平安時代の奈良の言葉に依っているとみられていますが、私の想像の中では、あのお喋りからは夜の海の散歩のような言い表せない拡散を感じてますが、平仮名が五反田スターバックスに来たギャルたちを借りて喋っています。「万葉集」のうたを平仮名で読んだときの感覚は、(女性である必要がありませんが)、このギャル的お喋りと比べられるのかもしれません。万葉仮名(上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のこと)を見ると、夏の日にくつろいでいた家の外に出たときの溢れる光に一瞬殺戮されるような距離を感じます。
「古事記」の「天照大御神」というのは、抽象的な距離だけれどそれだからこそ考えることを可能にする距離といえるかもしれません。他方で、「伊弉冉」(イザナミ)とか「伊邪那岐」(イザナギ)という日本の神々の名の痕跡からは、言い表せないような親しみがあったとしても、それらの音が、恐らくはシャーマニズム的に神々を称えた声でしょうが、何を意味していたのかさっぱりわかりません(宗教学や民俗学は自分たちの推論のために推論しているだけです。)哲学的に考えると、そもそも古代の声というのは、考えるようには書かれてはいない文字ということですね。
漢字の受容から1500年ですか、漢字遺伝子というものがあって、これが現在のわれわれを利用して、漢字が自らを読んだり書いたりするのかしら?漢字と、(漢字から作り出された)仮名文字とのバランス、「漢字」と「漢字でないもの」との間のバランスに生きていますが、このバランスが崩れてきたと感じるその喪失感を自らのために書き記すのもやはり漢字だろうと思うのです。声は喪失を知りません。それは喪失の意味を考えることができないだけなのに、声は自らに永遠性を賦与してしまいがちです。これをもっと観念的に考える必要があるとおもっています。漢字は、漢字的なものを排除する、永遠性に安住するそういう平仮名的独立のナショナリズムから自立しているし、また同時に、起源性に正当な起源を与えるような漢字の帝国からも自立している、むしろ他者の言語に<成る>という可能性をもった、<徴は至る所に>というか、無理に一つに統合しない過程そのものであるとおもっていますよ

「られる」って、ちょっとかんがえてみても、可能の意味、受け身の意味、自発性の意味、それから尊敬の意味が互いに重なり合っているというのは面白いですよね、「見られる」を「ない」で打ち消すわけでしょう。見れない、に統一しちゃうともったいないというか(笑)

'If he were still alive today, Marx would likely have been satisfied with the results.' (Emmanuel Todd)
'The term democracy is today slightly strange. Those who stress its importance criticize populism. But, those people themselves can be seen as representatives of an oligarchy.
When the common people show strong support for a candidate as a way of having their own voices heard, it will not do to brush that off as nothing but populism. We must stop calling the expression of peoples' concerns and will as populism.'

芸術の本質は詩作である。詩作の本質は真理の樹立[Stiftung]である。
詩作は、贈り、根拠づけ、原初という三重の意味で樹立である。
われわれは樹立するということをここでは三重の意味で理解している。すなわち、贈ること[Schenken]としての樹立すること、根拠づけること[Gruenden]としての樹立すること、開始すること[Anfangen]としての樹立すること、である。
ーハイデガー

朝貢外交とか冊封体制では、与えるものよりも与えられたものがおおきかったといわれる。ところが安倍首相の場合は、経済主権と等価の大きすぎる贈り物を与えるつもりでも、トランプは自分の臣下に掌の小さな贈り物しかあげるつもりがないのだとしたら、この同盟関係は朝貢ですらない

クルーグマン「市民の自由も心配しなければならない。ホワイトハウスは、明らかに権威主義的な衝動を持つ男に占有される。そして議会を支配する政党は彼に抵抗するそぶりを見せていない。どんなひどいことになるのか?誰にもわからない」(朝日新聞)「政治的にもはるか将来まで損害が及ぶかもしれない。とんでもない人達が連邦最高裁判事になると見込まれ,各州政府は有権者をもっと抑圧できるような権力を持つだろう。最悪の場合、陰湿な人種差別が米国全土で標準となる可能性がある」(「「トランプ氏の選挙運動はかつてないほど欺瞞に満ちていた。この嘘は政治的代償を払うことなく、多数の有権者の共感をも呼んだ。だからと言って嘘が真実に変わることはない。残念ながら最悪の4年間に留まる話ではない。今回の大統領選がもたらす悪影響は今後何十年、何世代も続くだろう」


強行採決した安倍戦争法に基づいて動く稲田防衛相は、安倍の政治を強力に推進しようとしているのがわかってきました。南スーダン「駆けつけ警護」は、PKO参加5原則に違反するならば撤収すべきなのに、安倍内閣は1992年の国会を無視しようとするのはなぜですか?その根拠を明らかにしなさい
ー>PKO参加5原則; 自衛隊がPKOに参加するにあたり、満たすべき条件。1992年に成立したPKO協力法に盛り込まれた。(1)紛争当事者間の停戦合意が成立(2)受け入れ国を含む紛争当事者の同意(3)中立的立場の厳守(4)以上の条件が満たされなくなった場合に撤収が可能(5)武器使用は要員防護のための必要最小限に限る――からなる。 (2016-07-17 朝日新聞 )

教育勅語の国体は、発布の形をみると、中国皇帝システムの完成としての旧アジア世界への回帰である、と同時に、「西欧的精神」を起点とした国民国家的展開である?「西欧的精神の困った特徴は、諸々の表現あるいは行為を、外在的または超越的諸目的に結びつけてしまうことだーそれらをそれ自体としての価値によって、一つの内在平面上で評価する代わりに」(D&G)

フェミニズム、同性愛、移民のアイデンティティーの政治は、ネオリベ型グローバル資本主義の政治のまえに敗北した。従来民主党は労働者階級を代表していたがもう代表していない。保守党に投票した労働者階級も労働者階級を代表しなくなった。いくらトランプに同一化しても、トランプが推進するグローバル資本主義の「戦争」で一番被害受けるのは、ほかならない、トランプを支持したかれらであることは明らかだ。民主主義はどうするつもりなのか?サンダースは、ユダヤ系労働者階級出身というこのわたしが来たところから民主党が語り合うことができなかった人々のことをいう。新しいことが起きるとしたら横断的な外部からはじまる。そしてマルチチュード(Multitude)の理念が要請されてくるのではないだろうか?
" I am deeply humiliated that the Democratic party cannot talk to the people from where I came on " - Bernie Sanders

The scandal that emerged late last month has led to nationwide fury, with tens of thousands of protesters calling for Park’s resignation.
The latest rally on Saturday drew 1 million people, according to organisers, making it the largest public protest in South Korea in nearly three decades.
- The Guardian


ジジェクの言う通りになればいいのだけれど...。ただジジェクが言うように、紋切り型に、ファシズムとしてレッテル張りしまうと、本当のファシズムの条件(全体性の包摂と戦争への道)を見逃してしまうことが起きる危険性があることは議論の出発としておさえておきたいとおもう。さて最近のジジェクの言説の展開を追っていないから間違って理解しているかもしれない。だが私が気にしているポイントについて沿って語っているようにおもった。あるいは、考えるヒントを提供してくれている。ジジェクがどう選挙を読んだかをわたしなりに読んでみた。民主党であれ共和党であれ、国内の政治がどうであれ、共にかれらが共有する’書かれない’近代のルールが存在する。私の解釈では、それは現実的な問題を解決できない国家に戻る必要がないのに、絶えず国家をつくり直そうとするという国家へ行くルールではないか。しかし15世紀から近代国家の形成はイスラームを排除して成立してくる以上、この’書かれない’ルールとともに不可避として反復されてくるのは、イスラームにたいする排除である。つまり非西欧にたいする戦争である(ただしジジェクはイスラムについて直に言及していない。)が、近代化・西欧化を拒むあるいはそれを乗り越える思想にたいする戦争と言い換えてもいいかもしれない。この戦争を終わらせるためには、この’書かれない’ルールを壊していくこと、だが、この課題を政党だけに委ねることができるだろうか。「今はアメリカが分裂の傷の手当てをする時だ。国民が団結しひとつになる時だ」という。しかし無理に統合するからそこから内外に分裂の危機を作り出しまうことになるのに。この点について、ウオールストリート・オキュパイ運動は外交政策の占拠という性格をもったとチョムスキーは指摘していたことが思い出されるのだが、やはり究極的には、99%の権威主義体制にたいする抗議と抵抗のなかから、イスラームとの共存を可能にしていく生存への道が模索されるという方向がでてくるのではないか。

In praise of Greek philosophy 
ギリシャ哲学をたたえる
LOVE TRUMPS HATE、と、トランプにたいして抗議する学生、労働者の姿がユーチューブでみることができます。今回の選挙で勝利したのはトランプで象徴される他者(イスラム、同性愛者、移民)にたいする憎み(HATE)か?否、愛( LOVE)こそを勝利させていこうというメッセージです。名前トランプは動詞TRUMPとして利用されています。古代ギリシャ哲学は、愛と憎みをどのように考えていたのでしょうか?エンペドクレスEmpedokles(B.C 490-430)は、「かつて無かったものは生じるということもなく、有るものが消滅することもない、というエレア学派の思想から出発しながら、不滅の有として、分割することはできるが、独立で互いに他から導出されぬ、永遠の四元素(土、水、空気、火)を立て、これに自然の生成を説くヘラクレイトスの原理を結びつけて、これら四元素は二つの動かす力、すなわち結合するものとしての愛と分離させるものとしての憎みとによって混合され形成されると考えた」(シュヴェ―グラー西洋哲学史)と説明されています

LOVE TRUMPS HATE
LOVE TRUMPS HATE
LOVE TRUMPS HATE

Democrats once represented the working class. Not any more
- Robert Reich

In his statement, Corbyn said: “Trump’s election is an unmistakable rejection of a political establishment and an economic system that simply isn’t working for most people. It is one that has delivered escalating inequality and stagnating or falling living standards for the majority, both in the US and Britain.

たしかに。でもそのまえに、「敗北」と決めつけた人の「敗北」がすでに始まっているかもしれないとは疑わないのかしら?
->「ドナルド・トランプ氏という人物が次代の米大統領に選出されたという結果が示すものとは、その事実を前に「想定外」という言葉をつぶやく他ないすべての人の「敗北」だった」

斜めに見るとはどういうことだろう?と、斜めの線はどのように構成されるのかをかんがえました。非西欧アートと西欧アートに限らず、おそらく、思想においても、日本思想(縦軸)を西欧思想(横軸)として読むように読んでしまうときのズレをかんがえてみることがほんとうだとおもます。が、このズレを十分に取り組むには自分の力不足を認めざるをえず茫然とするのですが、でも、最近は、だれか自分より若い人が完成させるだろうし、手がかりを残しておこけばそれでいいじゃないか、と、楽にかんがえるようになりました(笑)

「今はアメリカが分裂の傷の手当てをする時だ。国民が団結しひとつになる時だ」。しかし無理に統合するからそこから分裂の危機を作り出しまうことになるのに、彼の演説をきくと、トランプも多様性のことを考えることができない凡庸な政治家のひとりに過ぎませんね。それならば、われわれ一人一人に多様性を考えるチャンスが来たということではないでしょうか!

鶴保担当相の発言で事実上二度差別されることに。同じことを沖縄の子供たちの前で言えるのかしら?と、ここまで書いたら、もしかしたらこの男は言うかもしれないという考えが。エスカレートしていくヘイト安倍内閣から、そういう人間が出てきたということ、悍ましく怖ろしい事態ですが、しかしこれが目を背けてはならない現実なのです。
<沖縄「土人」発言>鶴保担当相「『土人である』と言うことが差別であると断じることは到底できない」「差別用語とされるものでも過去には流布していたものもたくさんある」(毎日新聞)

柄谷行人

多様性へ行く1960年代は、普遍主義批判の時代でした。たとえばフッサールの読み直しが行われたとき、意識はこの普遍主義イコール一つの構造に属すことができないと。普遍主義批判は単一の構造に対する批判を意味していたのです。さて、ギリシャ哲学の言葉にあるように、「すべては流れる」(panta rhei)、同じことは起きません。時代の変化とともに、時代に対して異なる読み方で読み、その批判を異なる書き方で書くことが要請されるからです。柄谷行人氏は、グローバル資本主義が露骨に顕在化する時代に、世界資本主義の分割である帝国の時代の到来を見抜きました。素直に、それは凄いことです。しかし、「私は変わった」と言いながら、問題解決を分析するときにかつての立場にこだわるから時代遅れにみえます。つまり一つのシナリオ(世界史の構造)において複数の構造を書くことをアナクロニズム的に行っていますが、しかし現在は、歴史修正主義に煽られる、民族主義と<対抗>民族主義の特異点を避けるように、ここから自立した市民が介入していくことができるような、二つのシナリオ(多としての普遍主義)を書くことが必要だとおもわれるのですー現実的には絶望的に困難でも、だからといってしかし柄谷氏のようにシニカルに帝国とその党官僚の側に追従するかたちで市民の声と理念を棄ててしまったら彼がこだわる思想を含めて何もかもゼロになることをわたしはおそれます。

「ここでいう危機とは、それぞれの個別科学の理論的、実践的成果を問題にするのではなく、その真理の意味の全体を徹底的にゆるがすような危機なのである。」
「世界がその意味を得るところの『絶対的』理性への信頼、歴史の意味への信頼、人間性への、人間の自由への信頼が崩壊するのである。人間の自由とは、人間の個体としての存在、また普遍的人間としての存在に理性的意味を与えうるという人間の可能性にほかならない。」
「ガリレイ的な自然の数学化によって、新たな数学の指導のもとに、自然自体が理念化されることになる。現代的に表現してみれば、自然自体が数学的多様体になるのである。」
 
「生活世界は学に先だって、人類にとっていつもすでに存在していたし、それが学の時代になってもまた、そうした在り方をとりつづけてきたのである。」


生活世界
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、フッサールは、普遍的な本質認識を求める真の学は、古代ギリシアにおいて、理性によって世界の全体を体系的に把握する普遍学として原創設されたとする。そこでは、学問以前に日常的に直感される「生活世界」(Lebenswelt)の基盤において、真の学が成立していた。ところが、ガリレオ・ガリレイによって物理学の基礎付けに数学が導入されて以降、自然は数式によって理念化されて「数学的・記号学的理念の衣」によって被われてしまった。その結果、生活世界は隠蔽されてしまったのであった。これが「ヨーロッパ諸学の危機」であるとする。そして、フッサールは、超越論的現象学によって「すべての客観的学問」をエポケーして生活世界を取り戻すことを主張したのである。- Wiki

シャーマン的世界とス―フィー的世界 (1)
(井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」1980より)
シャーマンとは、人間の魂の専門家だとエリアーデ(Mircea Eliade)がいっております。シャーマンは魂のことをいっさい知り尽くしている。専門的に職業的に人間の魂の構造と運動とを知っている人であるということです。シャーマニズムの説く魂とは、肉体という物質的なもののなかに宿った非物質的な実体でありまして、これは本性上きわめて不安定なものである。肉体という異質なワクのなかにはめ込まれた魂は、そこにどっかり落ちついてはいられない。いわばいつもソワソワしている。そして機会さえあればフラフラ外に迷い出ていこうとうる。そしてうっかりするとこの地上的事物の彼方、恐ろしい、おぞましいものたちの棲む冥暗の国に迷い込んで、もはや帰ってくることができなくなってしまう、非常に危険なものとされております。ところがシャーマンは魂がともすれば道に迷ってしまうこの冥暗の国の地図に通じていて、たとえば、どこへ行けばどんな怪物がいるとか、どの方面にはどんな恐ろしい場所があるとか、すべて掌をさすごとく知っているだけではなくて、もっと積極的に自分の魂をコントロールして、それを自由自在に肉体の外に出し、思うままの方向に行かせることによって地上的物質的世界の狭い地平の彼方に広がる広大な霊的世界で、さまざまなことを自分の魂に経験させることができる。
ところで肉体を遊離したシャーマンの魂が逍遥するこの霊の世界は、奇怪なイマージュに満ちています。それはアーキタイプ、元型的な形象の世界でありまして、徹底徹尾イマージュだけで出来上がっている不思議な世界です。ふつうの常識的な人間の目から見れば荒唐無稽な幻想の世界ですが、それがシャーマンにとっては真の現実である。それを経験する彼の魂がいわゆるシャーマン的自我意識であります。
(2)ここで注意すべきはことは、このような幻想の国ーシャーマン自身の立場からすれば存在の霊的な本当の次元ですがーそれを経験するためにーシャーマンはまず自分の魂を意図的、方法的に肉体の外に送り出さなければならないということです。この点にシャーマン的自我とス―フィー的自我の第一の違いがあります。前にいいましたように、ス―フィーの経験する世界も、ふつうの人からみればまことに荒唐無稽としか思えないような不思議なィメ―ジュに満ちた世界ですが、このような世界に行く、あるいはス―フィーズム的にいいますと、そのような存在領域を通過するためには、ス―フィーは自分の魂を肉体の外に出すことはしないのです。   
(3)ス―フィーのイマージュ体験をス―フィー自身が表象する場合、彼ははをどこか遠いところに広がっているイマージュの世界に送り出すとは考えません。むしろ魂そのものを、深層をひろめたひとつの構造と考えまして、そういう魂のなかに深く入っていくというふうに考えます。もっとも次回にお話いたしますように、ス―フィーズムでも、道の最後の段階のところへきますと、魂が肉体の外に出て、そこで神と出会うというような表現をいたしますが、そしてまた主体的にたしかにそういう体験があると考えなければなりませんが、これは質量的なものにまといつかれて、いわば煩悩のとりこになっていた肉体的魂が、完全にその質量性を脱して、純粋に精神的な本性に戻ったことを表すのでありまして、シャーマニズムの場合のように甘美な形態の魅惑、あるいは恐怖の戦慄に満ちたイマージュの棲息する幽暗の国に旅して、魂がそこにさまよいこんで行くというようなことではないのであります。むしろス―フィーにとって一番大事なことは、自分の魂の内面により深く入っていって、魂の暗い領域の秘密を探り、通常の条件のもとでは全く働いていない心の機能を発動させようとすること、つまり意識の深層の探求です。探求といいましてももちろん学問的、客観的に研究するのではなくて、自分で本当にそういう暗い領域を経験しようというのであります。ただ、この暗い領域でのス―フィーの体験は、最初から最後まで徹底徹尾、形象的、イマージュ的経験でありますので、この点でシャーマニズムと非常に似たところが出てくるということだけであります。

舞台のうえでラディカルに「ブラブラ」できるというような役者は滅多にいやしない。亡命の思想というものに取り組んだことがないからだろう。
左翼が一番嫌うのがこの理念的にワイワイガヤガヤしている「ブラブラ」。
官僚に一番憎まれるのも理念的にウロウロウヨウヨしている「ブラブラ」。
「天皇陛下万歳とかみな言って八月十五日になったら泣いておったという人は、みな左翼になったんだよ。私みたいにブラブラしているやつはならへんの。それが非常に大事なの。ブラブラして箸にも棒にもかからんやついるやろ。これが社会の中核になると、それは市民なのよ。」小田実『都市と科学の論理』1999年


数学も時代の支配的イデオロギーに規定される」
   1969年、「数学の社会的役割」より
   『数学と社会と教育』所収、国土社

たとえば幾何学でいう「点」の概念をとりあげてみよう。「点」は高度の抽象の抽象を経て創りだされたものであって、それは感性によってとらえられるような実在ではない。だから目の前にある机が実在するように実在するものだとはいえない。そのようなものを出発点とする幾何学は、ある意味では一つのフィクションであるし、架空の絵空事ともいえよう。しかし、ある意味ではこの絵空事が客観的な世界を解明していくのに欠くことのできない武器ともなるのである。
 このように抽象という人間の精神活動そのものが、強い方向性をもっており、それがその時代の社会の支配的な思考方法に深く影響されるであろうことはむしろ当然すぎることであろう。

"It’s a constant fight to try to get a nation to recognise its own noble persuasions … the loftiness of human possibility' (Soyinka)

“African literature suffered from some kind of ideological spasm in which the younger generation was bombarded by a sense of ideological duty, in other words it was bombarded with a very simplistic notion by leftist radical writers, very reformative revolutionary thinkers, that all literature is ideological and therefore writers must ensure that their writing illustrates progressive ideologies.”
This, he said, had “inhibited a number of very talented writers, crippled their sense of liberal creativity, forced them to try and narrow themselves into a very tight prism of viewing phenomena, humour, relationships, even politics.” But “fortunately this next generation has been freeing itself and the result is really marvellous, very varied – the women in particular”. (Soyinka)

過去を知らなかった、ただなんとなく来た大勢の参拝者たちとかれらを迎える伊勢・靖国神社とそして公式参拝の祀る国家とが結びつけば国家神道が成り立つように、支持率7割の安倍が作り出した歴史しか知らず、SSの制服がなんとなくかっこいいと思っただけだという大衆と、彼らをおもてなしする東京オリンピック会場と、ヘイトスピーチ安倍内閣の三者が一体となれば、喝采のファシズムが十分に成り立ってくるのではないでしょうか、心の中心から、たとえ憲法改正の緊急条項の発動がなくともですね…


詩人というものは、他者の性質を変化させるほどの内なる力の結合の産物であり、これらの力を刺激し、支える、外なる影響の産物なのだ。詩人は、その一方ではなく、両方なのだ。この点で、人の心は、自然や芸術という対象によって変化させられ、人がかつてその意識に働きかけることを許したすべての言葉や暗示によって変化させられる。人の心はすべてのものの姿が映る鏡だ。その鏡の中でそれらの姿が一つの姿を組み立てる。詩人は、哲学者、画家、彫刻家、音楽家と何ら異ならず、ある意味では自分の時代の創造者であり、また別の意味では被造物だ。この従属関係からは、どんな至高のものであっても免れることはない。
(P・B・シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』序文、石川重俊訳、2003年、岩波文庫〔原書:1820年〕)

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