子安宣邦著「国家と祭祀」の感想文



祀る国家、戦う国家の絶望とはなにか?滅びゆくものから、言葉・音・石・色から、不朽のものを創り出そうとする、その絶望的な試み。形をまとった空間が、時代を超越していくために。ニ十年ごとに繰り返す「再帰する始源の呪縛」がその形態のひとつに過ぎない。
さて明治を総括すると、祀る国家、戦う国家であった。靖国神社は近代において発明された戦争機械の一つである。だから<諸君の大地を掘り起こすと古代から靖国が現れるぞ>は、贋の文化概念である。ところがこの戦争機械を近代以前のものと思い込まされたら最後、これを廃止できなくなる危険があろう。子安宣邦氏は語る。

「一般市民を巻き込んだ総力戦の悲惨さを反省した、私達の戦後憲法は、祀る国家、戦う国家をやめると決めたのである。靖国神社の廃止は論理的帰結」。「新しい世紀とともに始められたアメリカの戦争はそれに加担する国家の国民に戦争それ自体への根本的な疑念をもたらした。公然たる国民意思の分裂、あるいは国家と国民との意思の分裂をあえて無視する形でしかこの戦争の遂行も、それへの加担もまたありえない。もはや戦争とは国民のためのものでは決してないのだ。われわれはすでに太平洋戦争によってそのことを教えられたのである。国家が戦うことへの本質的な懐疑から、われわれは憲法における戦争放棄の条項をもったのである。そして戦う国家とは英霊を作り出す国家であり、英霊を祀る国家であるゆえに、国家の宗教的行為もそれへの関与をも憲法は禁じたのである。戦う国家を連続させない意志の表示であった戦争放棄と完全な政教分離をいう日本国憲法の原則は、いまいっそうその意義を増しているといえるだろう」。

「国家と祭祀」で子安氏が行っている問題提起とは、死者を選別し靖国を祀るのは誰か?と問うことである。ここで私は、介護保険法立法化の中心にいた元厚生省官僚が語った言葉を思い出すのである。厚生省が福祉と人権に十分に取り組めなかった大きな理由の一つに、エネルギーの大半が靖国に吸収されてしまったからという弁解である。しかしこの言葉はよく注意する必要がある人権と福祉の軽視と靖国神社の重視は、国家にとってにみれば、同一の平面上にあることではなかったのか。死者の祀りは、生者をヒエラルキーに基づいて差別する国家が介入するのだから、必然として、死者に対してヒエラルキーと差別を持ち込んでしまうのでは?この疑問に子安氏は私に明快な示唆を与えてくれた。

「国家が祀ることとは、国家が戦うこととともに差別的で排他的な自己中心的な行為である。国家は己のためにだけ祀るのである。沖縄の集団自決した住民たちに「崇高な犠牲的精神」の美辞を与えるだけで国家は祀ることはない。イラクの子供達のミサイルによる死は「自由」のためやむをえない犠牲としてアメリカは無視するだろう。戦争するアメリカ人にとって守られるアメリカ人の生活があるだけだ。パレスチナ人の生活もなければ、アフガニスタン人の、イラク人の生活もない。」と。たしかに、思い返せば、当初イラク空爆反対は八割で、ロンドンは百万人が反戦デモに出たおだが、ブレアーが英国軍を派遣したその日、イギリス国教会の長であるエリザベス女王が軍隊に「お気をつけて」とメッセージを送った。と、今度は逆に、戦争支持が8割となったのである。これは、英国版のいわば靖国的「戦う国家」「祀る国家」の熱狂ではないかと思射返している。(ちなみに、アイルランドの話題に触れると、ポストコロニアリニズム的風景とは、独立後の反帝国主義的言説が帝国主義的言説との類似性が指摘されるのであるが、総括してしまうと、アイルランドの文化政策は、英国における靖国的<戦う国家><祀る国家>を輸入しただけと知って逃げ出した作家が ジョイスであった)。

再び問う、誰が死者を祀るのか?と。2013年3月11日、人々が経産省脱原発テント前でキャンドルに点火するのを警察が許可しなかった。他方、国が殉死した兵士の如く死者たちを祀した。テレビ化・イベント化していく「祈り」「誓い」。なんののために?ヒロシマとナガサキで祈ったあとにフクシマがきたのに。ところでダブリンの通りで野良犬の小便する姿から芸術上の啓示をえたと17歳のときのベーコンは言うが、彼の絵をみると、ゴシック教会の柱の頂にいる化物の様な、死んだ動物の姿をした人々を祀っているのではないかと想像してしまう。但し靖国の如く国家が死者を祀る特権的なやり方ではない。ベーコンの絵にも死を儀式化する顕著な表現があるとしても、死後どこへ行くのかを読み取ろうとしても無駄であろう。死者はそもそも遠くからくるのではない。死者は生者の近傍に生きている。それは街頭を通過していく野良犬の影かもしれない。我々は死者と共に天を感じるだけだと表現しているようだ。
いったい誰が死者を祀るのか?子安氏は警告の言葉を与えるー国家は祀ってはならない、と。
「国家と祭祀」は、靖国の源流を求めて「水戸学」の政治神学を検証、国民国家成立における宗教の役割をアジア大の視野から考察する。「危機の政治神学は死に場所・行き場所を見出すことで安心をえられた民たちの国家への心を一にした統合を語っていく。祭祀する国家を語り出す言説とは民に死に場所を与えていく言説でもある。祭祀する国家は祀られる護国の鬼神とともにこの政治神学的言説の上に作り出されていったのである」(沈黙する鬼神と生者の饒舌ー靖国の現在)。最後に、この本の執筆動機について示唆した子安氏の言葉をひいて感想文のまとめとしたい。

「小泉首相による公然たる靖国参拝という自国民とアジアの隣人たちに対する挑発的行為に、思想史家として私は答えねばならないと思っていた。この英霊の社・靖国神社の参拝が、本質的に時代錯誤に満ちた欺瞞行為である・・・私がここで「時代錯誤」だというのは、その行為がただ時代に遅れているということではない。その行為が、二十世紀の数え切れない戦争犠牲者たちとともにある歴史をおよそふまえることのない傲慢で、無恥なものであることをいっているのである。この小泉首相による時代錯誤の靖国参拝は、しかし強力な言説的な支援を受けている。それは国民の栄光の歴史を主張する歴史見直し論者たちによる支援である。国民の栄光の歴史の主張者とは、同時に国民の栄光をもたらした英霊祭祀の支持者でもあるのだ。首相の靖国参拝は、この歴史見直し論者たちの支援を背景にして公然と、アジアの隣人たちを挑発するようにして繰り返されるのである。この挑発的な行為に対する私の批判的回答も、従ってこの歴史見直し論、"国家神道"見直し論をめぐってなされねばならなかった」。

この怒りの言葉は、国家が勝手に持ち込んだ領土問題に関与させられていく現在の我々にそのまま、突き刺さってくる重い言葉だ。その小泉以降、ネオリベの右翼の政治家は、自らつくった戦争の恐怖で人々に自己保存の欲求をかきたて、かえって生存に不利な条件を次々に承認させていくだろう。そもそもTPPに反対するはずもない自民党だが、それも分らないほど、昨年の領土問題以来、我々の側の理性は眠っているのか?我々は、いかに、靖国という戦争機械の悪夢から目覚めていくのか?現在のアジアの人々だけでなく、沖縄とアジアの祀られない死者から、このことが切実に問われている。



































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