3・11に、生きること



3・11に、生きること

3・11 以降、小さな人間たちは現れたのは、外部からでした。大きな人間の決定に介入するために、新しいものを加える行動が必要だとかんがえたのです。自由とは、このように、外部の人々が新しいものを加える行動を共有することです。また行動とはプロセスとしてしか定義できないようなXです。さて歴史的にいっても、小さな人間たちが現れるときというのは、公の空間を新しくつくる形を通して現れてきたのではないでしょうか。行動が生成消滅するだけでは足りず、過去から未来に伝えていく記憶化という物象化が、公の空間に他なりません。これに対して保守反動の支配の秩序は、'記憶させまい'と、この公の空間を破壊します。領土ナショナリズムを煽ったり、靖国神社公式参拝をしたり、さらには中立であるべき公共放送に猿ぐつわをかませるということに現れた、力による専制です。またプロセスとしての行動に対して、その無意味さを説く言説も危険な萎縮効果です。自由を主権性に縛る保守的な信念に支えられた言説がそれです。日頃は紳士顔で複数性の価値観を称えているくせに、(自由の不確実性を恐れるあまり)、自由の与件である複数性に反発している有様。事柄に熟練した技能をもったリーダーシップ(古臭い政治家)に依存する「現実感覚」の必要性を繰り返しています。が、こうした大きな人間に依存する「現実感覚」は、街頭に出始めた小さな人間たちのリアリティーとは全然別のものです。声が小さくとも、このことをはっきりと知るようになったからです。すなわち、原発問題を解決するためには、3・11以前において原発を推進してきた主権性の構造(政財官マ)に再び委ねることが不可能であるということ

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