柄谷行人の「交通」概念はどこへ消えたか -討議「帝国・儒教・東アジア」批判

「思想史講座;昭和思想史研究会」
「中国問題」研究報告(第3回) 2014年6月14日


柄谷行人の「交通」概念はどこへ消えたか
-討議「帝国・儒教・東アジア」批判

本多敬


「中国では、帝国皇権の時代はすでに過ぎ去り、再び戻ることはない。世界的にも、権威主義体制は、黄昏時を迎えている。」(劉暁波たちが打ち出した「08憲章」)

<まえがき>
柄谷行人は八十年代から読み続け二十年以上は支持してきた知識人である。「世界史の構造」(岩波書店) において柄谷が打ち出した「帝国〓文化〓世界」が、「現代思想」(三月号)での丸川との討議によって、「帝国・儒教・東アジア」として具体的に語られたとき、(徐々に90年代から形成されてきた) その文化論的帝国論にNo!と決定的に言わなければならなくなった。では、誰に対して抗議するのか。一か月前は柄谷に対してだと漠然と思っていたが、この数日間でようやくはっきりとしてきた。抗議したいのは、それを発表する公の場がなかったとはいえ、日本知識人と柄谷の思想に定位する全体主義的言説を否定してこなかった自分自身に対してである。では、自分に対してなにを言うのか。一言だ。一言だけ。

市民の権利を踏みにじる文化を決して認めるわけにはいかない!
PAS DE CULTURE SANS DROIT SOCIAUX !


<問題の所在>

1992年のAnywhereの国際シンポジウムで、建築家たちを前に、柄谷は、交通とは共同体の空間ではなく、共同体の間に成り立つ社会的な空間であるという概念を打ち出した。交通については80年代から考えていたという。確かに「探求1」において関係(の偶然性)とかコミュニケーション(の非対称性)といわれていた他者の関係が、1989年の「探求2」から、「交通空間」と明確に表現されるようになる。
さて、「世界史の構造」(2010)は、ヘーゲルの読解によって、90年代に書いた「トランスクリティーク」を乗り換えるという。しかし、その序文で環境問題も射程に置くといっておきながら、「世界史の構造」が物語る交通概念に、市民社会が重要な役割が与えられることはないだろう。そこではデリダやネグリの発言が批判されている。そして、環の構造である「資本〓ネーション〓ステート」からの遠心力として創造的意義を与えられるのは、市民社会ではなく、「帝国」である。柄谷がこう言うとき、どれだけの読者(この私も含めて)が、「交通」の語が溢れるなかで「交通」の他者性がかき消されていたことに気づいただろうか。2014年の現代思想三月号を読むとき、彷徨える「交通」概念がどこに現れることになったかをはっきりとみることになった。これは日本知識人のスキャンダルともいえよう。
マルクスによれば、「交通」(Verker)はそもそも、「生産」(Produkzion)なくして成立しない。これに対して、柄谷においては、「生産」を規定していくのが「交通」であるということが、徐々に、原理的なテーマとして抽象的に考えられてきたと思う。柄谷は「世界史の構造」のなかで、モーゼス・ヘスという左派ヘーゲル派の哲学者を紹介して交通概念に含みを持たせているが、結局は、「生産」に先行するのが「交通」(交換様式)だと言いたいようである。Postmodernism ポストモダニズムは大まかにいって「生産」に先行するのは「流通」としたが、柄谷はこの考え方を単純に繰り返してはいない。柄谷がいう「交通」は、モダ二ズム的な生産の領域ではなく、ポストモダニズム的な「流通」の領域ともいえないような、第三の領域として構成されてきた。つまり、「交通」は、柄谷においては、(彼が好む言い方をすれば、形式としての)文化の領域となってきたのではないか。なぜなら、文化論からしか「帝国」概念を展開できないはずであるから。
「交通」〓「文化」、というような全体的な構成に倫理的問題が起きてこないのか、と私は問いたい。ここになんでも包摂してしまっては、現実のあり方を批判していく批判精神はどうなってしまうのか。70年代から出発した柄谷は、80年代、90年代のpoststructuralism から、Etude postcolonialesとEtudes subalterns を経て、2000年に入りCulturalismに移行する思想史の流れに沿って変遷してきているようにみえる。しかし、(いくらマルクスとカントのテクストの「交通」を論じていたとしても) 中国問題においてかくもマルクスの批評精神を捨て去ってしまっては、彼の知的に洗練された「交通」概念からは、ただの無しか生まれてこない、と、私は疑うのである。


<柄谷行人の「帝国」概念の背景にあるものとは?「統整的」不確定性原理>

 柄谷行人の「統整的」不確定性原理は、<政治概念の曖昧さ>と<「交通」概念の曖昧さ>とを対象とする。すなわち、「政治的なもの」と「非政治的なもの」との区別が厳格になっていけばいくほど(例えば天安門事件は「政治的なもの」ではないときめつけられる)、「交通」概念の方は文化的に全てを包摂しはじめるほど曖昧になっていくのである。つまり柄谷がいう「交通」とは、彼が好む「形式化」という語で説明すると、限界なき広がりの「形式化」のことである。「統整的」不確定性原理においては、先進国における脱政治化が指摘され、それと相関的に、文化戦略の有効性が物語られるのであるが、場合によっては、驚くべきことに、国家が主人公となる帝国主義なき「帝国」の文化戦略 (「儒教」)が語られ(柄谷)、また脱政治化の停滞を打ち破るスターリニズム政党のラジカル化の方向が期待されもする(丸川、汪暉)。毛沢東とマリリン・モンローのポストモダン的結婚、と「ル・モンド」紙が中国の体制を揶揄したとき、柄谷好みの「形式としての」という修辞を付け忘れたようだ。しかし、柄谷行人の「統整的」不確定性原理は、ヘーゲルからマルクスにおいて論じられた決定的な批評精神を見落としてしまう。つまり、市民社会の政治化という条件である。


<柄谷の言語ゲーム的「儒教」と民衆史>

柄谷は「儒教」を定義しない。それを固定された実体として定義する必要がないからだ。つまり、「帝国」という統整原理においては、「儒教」は、他の思想、宗教(「法家」、「老荘思想」、「仏教」、「道教」)とのいわば互いに重なり合う類似性のネットワークを形成する項の名前に過ぎない。しかし、そのような原初的テクストの言語ゲーム的再構成はそもそも知識であって、「信」ではない。
一方、ここでは一応素直に、柄谷に従って、彼の語りを最後まで追っていくことにしよう。そうすることによって、柄谷は「論語」から近代の言説が依存する「民衆史」を読み出しているのがわかってくる。「民衆史」の近代において実現したはずの、解放のユートピアを実現していく主体の物語が、討議 <帝国・儒教・東アジア>において貫かれていることに注意しなければならない。

ところで、柄谷の「江戸の注釈学と現在」(1985)は、それほど注釈学だったのであろうか。柄谷はヘーゲル的客観的精神をもって、「帝国」原理という名の「礼」をスターリニズムに与えようとしている。しかし、柄谷が強調する「孔子の教え」ほど、仁斎の「学び」から遠いものはない。柄谷の教える孔子は結局、文化的同化主義となる。これは、教化と鞭によって「教える」。柄谷の「論語」の読みは、僅かな非対称的ズレとしてある、「学び」のスペースを残す読みだったのではないだろうか。

さて、柄谷は、帝国原理、儒教、東アジア、華僑といった多種多様な概念に依存する。そして、脱構造主義的に、語る対象を固定しない。つまり柄谷にとっては、何もかもが中心なき自己関係化する諸々の関係体系の射影に過ぎない。(キルケゴール的遊戯でないとすれば、)柄谷がこれを正当化しているのは、ただ自己の思考がライプニッツと西田に繋がる限りにおいてである。かつてEU(欧州連合)とユーロ(の限界)を語るときにライプニッツに言及したように、中国(の可能性)に西田哲学を適用できると信じている。そうして、結局、柄谷の思考に先行するのは、支配する国家と支配される国家との<同一性>、グローバリズムを米中の帝国に分ける<分割性>、チベットとウイグルの独立要求、天安門前と台湾で抗議する声の歴史を無視した<可逆性>となる。しかし、柄谷の西田像は、子安氏が分析してみせた、西田幾多郎を貫く<不同一性><不分割性><不可逆性>の思考と精神とは全く異なるものである。(「滝沢克己の『歎異抄と現代』 - 西田幾多郎とバルト」)


<結論>

思想史とはなにか。わからない。しかし、人間が語る思想史とはなにかという問いならば、答えることができるかもしれない。その人間は、二つの物を簡単に切り離すことに躊躇する。だからこそ、思想史も必ず同様の仕方で、アイデンティティと非アイデンティティの間の交通をみるのだろう。そして、アイデンティティだけがあり非アイデンティティがないとか、逆に、非アイデンティティだけがありアイデンティティはない、ということは起きないのである。その思想史からみると、政治は、反・新植民地主義復活の68年からマィノリティー的な非アイデンティティに沿って存在した。ソビエトが崩壊し「脱政治化」がいわれる80年代以降は、政治が、市民社会的な<われ=われ>のアイデンティティに依拠し始めたことを、思想史が証言していくのである。


<あとがき>

ICA(ロンドンの現代芸術センター)の講義の壇上から、「Welcome to Europe」と、皮肉っぽく、大袈裟な身振りで挨拶したジジェクが、ヨーロッパの友愛の象徴であるベートーヴェンの第九交響曲が、いかに、(EUがその加盟を拒んでいる)トルコの行進曲に起源があるのかと喝破したとき、絶叫した言葉は、「UNBELIEVABLE !」であった。
ところで、帝国主義とは、一国家が他の国家を奪う(例えば十九世紀に日本は国家として成立していた朝鮮を奪った)支配といえる。そうであれば、近代以前の中華帝国とチベットやウイグルとの外交史を現代に投射していくことによって、現在の帝国主義から(近代的な意味で定義された)支配関係を差し引いた「帝国」が現れることになるだろうか。そんなはずがないだろう。ジジェクは、チベットの人々のために、「UNBELIEVABLE !」というべきではないだろうか。


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<資料>

柄谷の「帝国」概念は、アメリカの側から観察したEU批判から形成されてきたのではないかというのが私の仮説である。それを中国に器用にあてはめているのだ。ヨーロッパの枠にアジアをはめ込むという日本的なやり方で、(アメリカナイズされた)ドゥルーズの方法としての帝国の概念を中国において実体化しているようだ。


・柄谷のEUについての言及(「柄谷行人、政治を語る」。図書新聞 2009)

「ネグリらが「共産党宣言」(1848年)の認識に似てくるのは、彼らが68年の思想家だからだと思いますね。1968年は、1848年からみてちょうど120年後になります。たとえば、ウオーラーステインが1968年の革命を1848年の革命に匹敵する世界革命だと指摘しています。彼の考えでは、68年の世界革命は政治権力を獲得することをめざすよりも、もっと根本的に反システム運動であり、それゆえに広範な影響を与えた。その点では、1848年革命も同様です。政治的権力という意味では敗北したが、その結果として、各国で普通選挙・労働組合の合法化・福祉政策が進んだ。1968年の革命では、1848年革命の時期にあって、その後に抑圧された、初期マルクスをも含む様々な社会主義・ユートピア二ズムが復活したわけです。
しかし1848年のあとにどうなったかを忘れてはいけない。1848年の革命は民族や国家の無化どころか、フランス(ポナバルト)やプロシア(ビスマルク)に、国家資本主義と帝国主義をもたらしたのです。1871年の普仏戦争が、48年革命の答えです。この戦争の結果、生まれたパリ・コミューンは、48年革命の最後に燃え上がった炎のようなものです。
1968年のあとも同じです。1990年代にいたって公然と新自由主義=帝国主義時代に進み始めたのですから。それに対して、ネグリやハートは、再び68年をといっているわけですね。世界同時革命がはじまる、と。なぜなら、グローバリゼーションのもとでネーション=ステート(国民国家)という枠組みはもはや意味をもたないからだ。各国のマルチチュードが同時に反乱を起こす条件ができた、というわけです。しかし、これは完全に的外れだと思います。
たしかに、帝国主義時代には、ネーションの契機は切り捨てられています。たとえば、資本は自国の労働者を棄てて、他国に向かう。福祉を切り捨てる。しかし、これは国家を解消するものではまったくないのです。まさに国家と資本が、他の国家や資本と競合するために、それを実行しているのだから。また、欧州連合(EU)のように、国家が主権を制限して、連合するようになっている。しかし、これは国家の弱体化ではありません。近代の主権国家という概念は、実際は少数の大国にしかあてはまりません。ほとんどの国家は他の国家に従属しているのです。古来、国家は存続するためなら連合や従属をいとわないのです。たとえば、欧州連合の理論家たちは、それが近代の主権国家を超えるものだと主張していますが、国民国家が「世界経済」によって強いられたものだとしたら、地域的な国家共同体も同様です。ヨーロッパ諸国は、アメリカや日本に対抗するために、欧州連合をつくり、経済的・軍事的な主権を上位に譲渡するに至った。これを近代国家の掲棄であるということはできません。それは世界資本主義(世界市場)の圧力のもとに、諸国家が結束して「広域国家」を形成するということでしかない。
このような広域国家は初めてのものではない。1930年代にドイツが構想した「第三帝国」や日本が構想した「大東亜共栄圏」は、それを先駆けるものでした。そして、それらは英米仏の「ブロック経済」に対抗するものでした。さらに、この時期、こうした広域国家は、「近代世界システム」、すなわち資本主義やネーション=ステートを超えるものとして表象されていたのです。西ヨーロッパで、このように「ヨーロッパ連邦」をつくろうとする構想はナポレオン以前からもありましたが、その理念的な根拠は、旧来の「帝国」の同一性に見出されたわけです。
もちろん、それを実現する企ては、結局、フランスあるいはドイツの「帝国主義」にしかならなかった。今日、欧州連合の形成にあたって、ヨーロッパ人はそのような過去を忘れてはいません。彼らが帝国主義でないような「帝国」を実現しようとしていることは明らかです。にもかかわらず、それはあくまで、世界経済の中での「広域国家」でしかない。
他の地域でも同じことが起こっています。むしろ、今日、顕著なのは、中国、インド、イスラム圏、ロシアなど、近代の世界システムにおいて周辺部におかれてきた旧来の「世界帝国」が再登場したことです。どの地域でも、国民国家は旧来の世界帝国から分割されてできたものだから、一方で、「文明」の共同性をもつと同様に、分裂と抗争の生々しい過去をもっています。しかし、諸国家がネーションとしてのそれぞれの記憶を括弧に入れ、自らの主権を大幅に制限して共同体を結成するとしたら、彼らが現在の世界資本主義の圧力のほうを切実に感じているからです。ルナンはネーシオンが形成されるためには歴史の忘却が必要だと述べたけれども、同じことが広域国家の形成についてもいえる。それらもまた「想像された共同体」あるいは「創造された共同体」にほかならないのです。


・柄谷がひくマルクスの「交通」概念 (「世界史の構造」(岩波書店))

分業のそのつぎの拡大は、生産と交通の分離であり、商人という特殊な階級の形成だった。いままでのすべての歴史的段階に存在する生産諸力によって制約されていながら、まあこれらをも制約しているところの交通形態は、市民社会である。これはまえにのべたところからもすでに分かるように、単純家族と複合家族、いわゆる種族制をその前提および基礎としており、そしてそのくわしい規定はまえにのべたところにふくまれている…

征服する蛮族のばあいには、すでにふれておいたように、戦争そのものがまだ一つの正常な交通形態である。

右の例は、交通という概念が、家族や部族のような共同体の内部、さらに、共同体と共同体の間の交易、さらに戦争までをふくんでいることを示している。それは交換を広い意味で考えるのと同じことである。・・・

交通という概念を最初に提唱したのは、モーゼス・ヘスである。彼は、マルクスより少し年長の青年ヘーゲル派(左派ヘーゲル派)の哲学者であり、フォイエルバッハの宗教批判(自己疎外論)を、国家や資本の批判に転化・拡張した最初の人物である。

人間の交通は人間の活動の場であり、そこにおいて個々の人間は自分たちの生命や能力を実現し、活動させることができる。かれらの活動がさかんになればなるほど、彼らの生産力も高まり、そして交通が制限されているかぎり、彼らの生産力もなお制限される。彼らの生命の媒介物、すなわち、個体的諸力の交換なしには、諸個体は生きられない。人間の交通は彼らの本質からたまたま派生するものではない。交通こそ人間の現実的本質であり・・・
ヘスの考えでは、人間と自然の関係は交通である。具体的には、それはメタボリズム、つまり「物質代謝」(Stoffwechsel) である。ドイツ語では、代謝 (Wechsel)は交換を意味するので、人間と自然の関係は交通あるいは交換ということになる。これはマルクスの「自然史」的視点を考える上で重要である。さらに、あとで述べるように、環境問題を考える上でも。
つぎにそのような人間と自然との関係が、必ず一定の人間の関係を通してなされるということを指摘する。それもまた交通である。

・・・ヘスは、真に共同体的であるような交通形態は、資本主義経済のあとにのみありうると考えた。すでに資本制生産において人々は資本の下で協業しているのだから、「有機的共同体」が真に実現されるだろう、と。これは、プルードンによって提唱されていた「アソシエーション」あるいは協同組合的生産の言い換えである。ある意味で、マルクスもこのような考えを終生保持したのである。・・・マルクスが「経済学・哲学草稿」(1844)の段階でヘスの「交通」論の影響を受けていたことは明らかだが、先ほど引用したように、それは「ドイツ・イデオロギー」においても受け継がれている。

・貨幣によって、あらゆる交通形態と交通それ自体とが、諸個人に偶然的なものにされる。したがって貨幣のうちにすでに、いままでの交通が、すべて決められた諸条件のもとにおける諸個人の交通ではなかったということが内在する。


・柄谷行人「世界史の構造」

本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を超える展望を開こうとする企てだる。私はこのヴィジオンを、すでに前著「トランスクリティークーカントとマルクス」(2001年)で呈示している。それを本格的に展開したのが本書である。ゆえに、先ず「トランスクリティーク」をふりかえることから、本書における私の企てを説明したい。
私は「マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読む」という仕事を「トランスクリティーク」と名づけた。これはむろん、この二人を比べることや合成することではない。実は、この二人の間に一人の哲学者がいる。ヘーゲルである。マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読むとは、むしろ、ヘーゲルをその前後に立つ二人の思想家から読むということだ。つまり、それは新たにヘーゲル批判を試みることを意味するのである。

資本主義のグローバル化の下に、国民国家が消滅するだろうという見通しがしばしば語られている。海外貿易による相互依存的な関係の網目が発達したため、もはや一国内での経済政策が以前ほど有効に機能しなくなったことは確かである。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再分配)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かう。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本制=ネーション=ステートは、三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。それは、それらがたんなる幻想ではなくて、それぞれ異なった「交換」原理に根ざしているからである。資本制経済について考えるとき、われわれは同時にそれとは別の原理に立つものとしてのネーションやステートを考慮しなければならない。いいかえれば、資本への対抗は同時にネーション=ステートへの対抗でなければならない。その意味で、社会民主主義は、資本主義経済を超えるものではなくて、むしろ、資本制ーネーション=ステートが生き残るために最後の形態である。

これを書いたのは1990年代であったが、現在でもそれを修正する必要はまたくない。資本=ネーション=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろん、それを称賛することではなく、それを超えることにある。この点に関して、「トランスクリティーク」を書いていた1990年代と、2001年以降では、私の考えはかなり違っている。私に「世界史の構造」の包括的な考察を強いたのは、2001年以降の事態なのである。


ドゥルーズ&ガタリ「千の高原」において言及される「帝国」

心的空間を条理化する古典的思考像は自分の普遍性を主張する。実際それは二つの「普遍概念」を用いて条理化を行うのである。すなわち、存在の究極の根拠としての、あるいはすべてを包括する地平としての<全体>と、存在をわれわれにとっての存在に変換する原理としての<主体>であり、要するに帝国と共和国である。「普遍的方法」の指揮下で<存在>と<主体>という二重の観点から、条理化された心的空間にあらゆる種類の実在と真理が位置づけられるのである。とすれば、そのような思考像を拒絶して別なやり方で思考しようとする遊牧的思考を特徴づけるのは容易であろう。つまり遊牧的思考は、普遍的思考主体を要請する代わりに特異な人種を要請するのであり、また、包括的全体性に根拠を置く代わりに草原、砂漠、海といった平滑空間としての地平なき環境に展開するのである。ここで「部族」として定義される人種と「環境」として定義される平滑空間との間に成り立つ関係は、「主体」と「存在」のあいだのそれとはまったく別な型の適合性である。つまり、包括的「存在」の地平にある普遍的主体ではなく、砂漠にいる一つの部族なのである。(宇野邦一他、共訳)


・討議、柄谷+丸川 <帝国・儒教・東アジア> (現代思想2014年 3月号より抜粋)

「とりあえず、中国の春秋戦国時代に関して述べておきたいのは、この時期にあった「思想」が重要だということです。マルクス主義では、思想は経済的下部構造、すなわち生産様式によって規定される観念領域(上部構造) ということになります。しかし、私は経済的下部構造を、交換様式から考える。すると、国家や思想というものが、たんなる観念的上部構造ではなく、下部構造と密接に繋がっていることがわかります。たとえば、互酬性(交換様式A)が支配的な状態では、絶えず抗争が増幅される。たんなる武力では、それを超える国家秩序をつくりだすことはできない。交換様式Aを超える必要があるのです。そのために、たとえば「目には目を」というような思想が必要となります。それが法家です。だから、春秋戦国時代は、思想家の時代です。これがなければ、秦漢帝国はない。今日は、儒家の話をしますけど、儒家は実際は、諸子百家の思想を包摂したものですね。そして、それは帝国を可能にしたとともに、むしろ帝国によって形成されたと言えます。

2、互酬性を超える国家原理
(1) 都市国家ということで考えるならば、一番目につくのはギリシャ、あるいはルネッサンス期のイタリアです。しかしこれらはその後に帝国にならなかった。実際、それらは、帝国にならないようなものであったからこそ、その面白さがあるのです。ところが、それらが目立つために、どんな帝国でも、その前段階に都市国家が競合するような時期、諸子百家が輩出した時期があったことが忘れられる。しかし、中国はその例外です。資料が残されたからです。春秋戦国時代の諸思想は多種多様ですが、その根底にあるのは老子だと思います。丸川さんが言うように、老子と孔子は違うし、儒家と法家は両極端なものとして存在してきました。書物としての「老子道教経」は孔子よりずいぶん後の時代、孟子のころに出たものですが、そうした史実とは別に、私は老子的な思想が先行したと考えます。司馬遷も、老子という人物は三人いると言ってます。本当はもっと多いでしょうね。仮にそれを老子1、老子2、老子3と呼ぶとうれば、老子1は孔子が教えをこうたような人物です。つまり、老子1とは諸子百家の全員にとって存在した存在、というより態度です。現にある社会制度を自明とはせず、それを根底から問い直す態度のようなものです。それは人を暴力によってではなく、説得によって動かすという態度です。その意味で思想が不可欠です。老子が言う無為は、武力と呪力による作為的強制をしないということです。すると、思想のあり方自体が無為ということになります。この態度は、すべての思想家が共有していたのです。その意味で、老子1が先行するといってよい。法家も例外ではありません。法家の思想は法によって統治しようというjことであり、暴力による支配をしないということです。互酬性の混乱を避け、安定したかたちで統治しようとするならば、法の支配でなければならない。
そのなかでもっとも重要なのは、権力者が法にしたがうことです。むしろ、そこから始める。たとえば、秦の宰相となった商()は、王の兄を、法を破ったことで鼻を削ぐ刑に処した。そうすれば、他の人も法に従うようになるからです。これが「無為」です。
もちろん法を貫くためには武力を使いますから、作為も一部では存在しますが、非常に少ない武力で足りる。基本的には法だけがあればよいとうのが法家であり、それは無為自然だというわけです。諸子百家はさまざまですが、根底には、そのような無為があります。
この諸子百家の争いは、ひとまずは法家の勝利で終わりました。そして、法家を中心に秦という帝国ができたのですが、これは二十年ぐらいしか続きませんでした。法による統治は不安定なものだったからです。そこで、漢の時代の初期には、老荘思想が導入された。つまり、レッセ・フェールの政策がとられた。レッセーフェールというのは重農主義経済学者のケネーの言葉ですが、彼はそれを無為のフランス語から取った。だから、無為=レッセー・フェールというのは冗談でも何でもない。その意味で、老荘思想が、今の真自由主義にも繋がっているともいえます。実際、毛沢東が自身がいうように秦の始皇帝のようなものであるとすれば、鄧小平が漢初期の董太后に対応するといえます。ちなみに、私は東大の駒場の講演では、この次は、武帝のようになるだろうと話しまqした。
老子は本当は統治あるいは権力の思想ではありませんでしたから、このような無為の思想は、老荘思想とはかなり違っています。しかし、同じことは、儒教についても言えます。孔子は、根本的には、非国家的な思想家です。だから、秦時代で儒教が弾圧されたのは当然です。しかし、漢の武帝の時代になって、儒教が取り入れられた。これは、董仲()を中心としたもので、新しい儒教です。すでに戦国時代に、孟子の思想は孔子とは違っていたし、さらに、荀子はもっと違っていました。むしろ法家に近かった。実際、秦の理論家であった韓非子は、荀子の弟子でした。要するに、法家であれ、道家であれ、儒家であれ、一派だけでは帝国を形成する原理にはなれませんでした。儒教といっても、諸子百家をすべてふくんだものとなっていた。逆に言えば、帝国の思想となることで、それぞれが皆変容した、といえます。だから、秦漢帝国という歴史的な契機をとって、それぞれの思想史を別々に考えるのは不毛です。

(2) 漢の時代の儒教は国家思想に変質していたと思います。その変化のきっかけは孟子のあとに出てきた荀子にあると思う。彼は性悪説を唱え、そこから'礼」を重視するようになった。荀子と法家の思想は非常に近いものがあります。そのために、荀子以降の儒教が帝国の思想になり得た、と思うのです。しかsじ、儒教がすべて国家的になったかというと、そうではない。私は儒教は本来非国家的な思想だと言いましたが、今でもそうですね。中国人が華僑のように世界中に散らばっても平気なのは、儒教があるからです。キリスト教徒になっても、根底に儒教がある。したがって、儒教のそういう面は今も続いています。また孟子的な儒教は、今もユートピア主義の原動力として残っていると思います。同じことが老荘について言えます。漢の時代の老荘思想は、戦国時代のそれとは違って、一種の国家思想となっていた。しかしそれによって消えたわけではなくて、復活した。後漢の後期、黄巾の乱のころです。それ以降、道教が、老子を教祖とすることで、国家思想としての儒教に対抗する思想として成立したわけです。 」

(以上)

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